東福寺 同聚院
東福寺 同聚院(どうじゅいん) 2008年12月22日訪問
東福寺の塔頭・海蔵院を出て、北側の非公開の塔頭の門前を巡る。これらの塔頭の簡単な説明と写真は改めて東福寺の塔頭という形で項を起こす。
海蔵院の並びに龍眠庵、そして北に進むと右手に霊源院、そしてその奥の細道を入って行くと盛光院がある。再び戻ると正面右手に戊辰役殉難士菩提所の石碑が建つ退耕庵がある。再び海蔵院まで戻り、塔頭の並ぶ道を南に下って行く。左手に栗棘庵、善慧院(明暗寺)、大機院と並び、右手には同聚院、一華院そしてその奥に霊雲院が建つ。万寿寺、勝林寺から始まり、東福寺の臥雲橋より北側の塔頭で常時公開されているのは、霊雲院と同聚院くらいである。そして多くの塔頭は山門を開いているものの柵を置き、境内に立ち入ることを断っている。
同聚院は文安元年(1444)あるいは文安年間(1444~1448)東福寺第160世・文渓元作が、その師の東福寺第129世・琴江令薫を開山に勧請して創建した寺院。本尊の不動明王像は、藤原時代前期の仏師定朝の父・康尚の数少ない作品の一つとされている。木造彩色、像高265センチメートルの日本最大の木像不動明王像で、膝前や光背は後世の作だが、醜悪さを廃し憤怒の相の中にも優美さをたたえた仏像である。
この像は、古来「じゅうまん不動」と称されてきた。この文字は、「土力」または「十万」という二字を一字にした文字といわれている。すなわち、土力とは産土を表し、土地を守護する仏という意味、十万とは常に十万の眷属を従えているという意味で、古来、霊験あらたかな仏様として信仰を集めてきた。毎年2月2日「じゅうまん」の字を書いた屋守護が施与される。この神符を門戸に貼れば、その家は火災や諸難を逃れ、福徳円満で子孫繁栄に恵まれると信仰されている。
同聚院というよりは東福寺自体が建つ地は、延長3年(924)藤原忠平が公家恒例被行脚読経の寺として法性寺を建立した地でもある。法性寺は創建後も藤原家の氏寺として栄え、藤原忠通(法性寺入道)の時には、広大な寺域に大伽藍を構え京洛二一ケ寺の一刹に数えられていた。しかし兵火により堂宇は悉く焼失してしまった。天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会の法性寺の旧蹟には下記のようなことが記されている。
拾芥抄に曰、九条河原にありとぞ。今按るに、九条里の東なり、畠の字に阿弥陀堂の名あり。当寺の本願は摂政太政大臣従一位忠平公なり、天暦三年八月八日薨ず、昭宣公の長男にして、謚号貞信公。
明治維新以後、法性寺は旧名を継いで、伏見街道に面した東山区本町16丁目に再建されている。現在は大悲山一音院法性寺と号する浄土宗西山派の尼寺である。本堂には国宝に指定されている千手観世音菩薩像が安置されている。これは旧法性寺の潅頂堂の本尊と伝えられ、「厄除観世音」の名で知られている。先の拾遺都名所図会には、この千手観世音菩薩像にも触れている。
東福寺北門の前にあり。三面千手観音を安置す、長一寸八歩、腹内に安置す、■仏立像、三尺、春日の作、千手三面なり。左辺は三宝荒神、右辺は辨財天、頂に二十五面あり。此本尊はいにしへ法性寺諸尊の内なり、かの寺荒廃によつて旧号により再興す、洛陽観音めぐりの第廿二番なり。今浄土宗これを守る。
法性寺を建立した藤原忠平から9代後の藤氏長者である藤原道長は、同聚院の地に五大堂を建立している。五大堂には2メートルを超える五大明王が祀られていた。中央に不動明王、東に降三世明王、南に軍荼利明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王が配されていた。しかし、その後火事等により中尊不動明王を除く四体は失われ、不動明王像のみが法性寺が衰退した後も、幾多の災難を乗り越えて東福寺・同聚院の本尊として受け継がれ今日に伝えられた。
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