東福寺 霊雲院 その3
東福寺 霊雲院 (れいうんいん)その3 2008年12月22日訪問
霊雲院の庭園は重森三玲の手によって修復、作庭されている。
「重森三玲 永遠の求めつづけたアヴァンギャルド」(京都通信社 2007年)に掲載されている年譜を見ると、遺愛石を復元修復した九山八海の庭は昭和45年(1970)、新たに作庭した臥雲の庭は翌年の昭和46年(1971)の作となっている。この東福寺と泉涌寺には多くの重森の作品が残されている。昭和14年(1939)という最初期に東福寺本坊(方丈)と光明院の庭園が造られ、普門院庭園が修復されている。翌昭和15年(1940)芬陀院の雪舟作と伝わる庭の修復とこれに続く東庭の作庭を行っている。そして昭和39年(1964)の龍吟庵の庭(その1・その2)の後に霊雲院の2つの庭を手掛けている。また隣接する泉涌寺の塔頭・善能寺の遊仙苑(その1・その2・その3)が昭和47年(1972)、泉涌寺錬成道場前庭園(非公開)が翌昭和48年(1973)の作庭である。そして昭和49年(1974)に松尾大社の曲水の庭と上古の庭を残し、昭和50年(1975)に亡くなっている。この東福寺と泉涌寺には重森の最初期と最晩年の作品が残されていることが分かる。
九山八海の庭は霊雲院の方丈の南庭として造られている。寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会に残されている遺愛石の図会を見ると、江戸時代の庭は禅宗寺院の南庭の雰囲気を色濃く残していることが分かる。正面の築山には石組みが施され、そこから発する流れが方丈南庭の大海に見立てた白砂に注ぐように見える。この大海は方形ではないものの南庭で儀式が行われた時代を思わせるような形となっている。その白砂の中央に遺愛石が置かれているだけの実に簡潔な構成である。 これに対して現在の九山八海の庭は、やや構成を異にしている。左手の不二庵の扁額の掛かる玄関から入ると、苔地の上に、背の低い丸い石燈籠と自然石を刳り抜いた手水鉢が置かれている。これによってかつての庭より白砂の部分が狭くなっているように見える。そして遺愛石を中心に同心円状に砂紋が造られている。これに中央の石舟と須弥台の上の遺愛石を加えて九山、八海は九山の間の部分を示しているのであろう。
この南庭に増築するように、臥雲の庭が方丈西庭として作庭されている。遺愛石の後部の築山にあった枯滝の他に、新
たに水量の多い龍門瀑を北西角に設けている。三尊を思わせる大きな青石の手前には、やはり青石の鯉魚石が置かれている。この深山から流れ出た河には幾つかの橋が架けられている。方丈の西側の縁の下には赤いモルタルで雲を模した造形を施すことにより、この庭を見る人に川が大河となっていく光景を天空から見たように感じさせている。
そして、龍門瀑から発する大河は、方丈の南西角で大海に接するのではなく、緑濃い苔地を迂回して南側から大海に注ぎ込んでいる。
重森三玲がこの庭が作庭してから既に40年の月日が経ている。今回の訪問でも気になったが、実に多くの石燈籠や石塔そして蹲が置かれている。「重森三玲 庭園の全貌」(学芸出版社刊 2009年)の著者である中田勝康氏の公式HPには、霊雲院が提供した竣工時の写真が掲載されている。この写真には余分な要素が写り込んでいないため、初源的なものだけが持つ力強さが存在している。竣工時の抽象化された龍門瀑を維持するためには、大変な手間を要したのであろう。そしてそのような抽象性に違和感が生じたのかもしれない。現在のこの庭園あるいは寺院自体が持つ雰囲気は、重森の作庭した時から変化しつつある。庭や建物ですら、時代によって変わっていくものであることを学ばなければならない。
方丈の北側には、桃山様式の茶室・観月亭がある。天正15年(1587)豊臣秀吉により北野天満宮で催された北野大茶会で利用された茶室を移築したものとされている。本当にこの由緒が正しいものなのか疑問も感じるが、二階建ての珍しい茶室である。この茶室へ続く露地が、西庭から始まっている。
最後に霊雲院には2つの歴史的なエピソードが残されている。
高台寺の塔頭・春光院、東福寺の塔頭・即宗院の採薪亭、清閑寺の郭公亭など同様に、この寺も成就院の住職・月照と薩摩藩士・西郷隆盛が、密議を交わした地とされている。やはり成就院の住職であった月照だけに、東山を中心に行動した方が怪しまれないと考えたからであろう。
今ひとつのエピソードは、日露戦争時に、東福寺がロシア兵捕虜収容所となり、霊雲院にも50人のロシア兵が8ヵ月間も寝起きしていた。今でも彼等が作ったというバラライカなどの楽器が展示されている。
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