泉涌寺 善能寺 その3
泉涌寺 善能寺(ぜんのうじ)その2 2008年12月22日訪問
善能寺 その2で書いたように、善能寺は八条猪熊通にあり二階観音堂と呼ばれていた。そして弘仁14年(823)弘法大師が稲荷大明神を祀る寺として善能寺と号している。
その後、 天文24年(1555)後奈良天皇により泉涌寺の護持院として今熊野観音寺の西北に移されている。そして明治維新を経て荒廃し、明治20年(1887)再興の時に現在の地に移される。
もともとこの地には安楽光院という塔頭があったようだ。天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会に安楽光院の名称を見つけることが出来る。
安楽光院〔同所来迎院の西にあり。本尊阿弥陀仏。初め上京小川上立売にあり、今安楽小路といふ、是持明院基頼卿の宅なり、後世寺となす。中興は誠蓮法師、当山再興は寛永年中にして住職微玄法師なり〕
また元治元年(1864)に刊行された花洛名勝図会にも同様の記述がもう少し詳しく残されている。
つまり天文24年(1555)に善能寺が八条二階堂から現在の今熊野観音寺の西北に移る。安楽光院も寛永年間(1624~1644)現在の新町通上立売上るにある光照院門跡から来迎院の西、すなわち現在の善能寺の地か宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所のあたりに移される。そして新善光寺も寛文年間(1661~1673)になってから、現在の場所に移ってくる。
明治になり善能寺がこの地で再興される。その頃には安楽光院は廃寺となっていたのかもしれないが、少なくとも明治維新の頃までは存在していたことが花洛名勝図会から分かる。
善能寺の本堂・祥空殿は昭和46年(1971)7月3日北海道横津岳で遭難したばんだい号の遺族の方により、全ての航空殉難者の慰霊と事故根絶を祈願されて建立されている。同月30日には、ボーイング 727-200が自衛隊機と空中衝突し乗員乗客162人全員が死亡する全日空機雫石衝突事故も発生している。さらに柳田邦男による、航空事故を取り上げたノンフィクション作品「マッハの恐怖」が出版されるなど世の中が騒然とした記憶が残っている。
前回、重森三玲の作庭した善能寺の庭・遊仙苑を訪問したのは、新緑の濃い季節の小雨降る中であった。薄暗い日の中、鬱蒼とした木々の下に広がる庭。良い状況での拝観とは全く言えるものではなかった。あたりは緑から青に近い色で全て塗りつぶされた中、雨に濡れた石組みは黒々となり、表面の凹凸や起伏を全く失っていた。確認できたものは、石組みのおおまかな構成というよりは、石のシルエットの変化のみであった。それにもかかわらずの印象は強烈なものであった。その後12日間にわたって多くの庭園を訪れたが、最初に訪問した善能寺の庭園を超えるものはそれ程多くなかったと記憶している。今回も前回同様、小雨の中の拝観となってしまったが、紅葉も終わり見通しの良い明るい庭に変わっていた。
本堂へと続く延段は門前から始まる。山門を潜るところで僅かに折れるものの、そのまま一直線に伸び拝観者を境内へと導く。最初は白砂の中を進むが、左手に配された石組みを越える辺りで白砂は終わる。その後は境内全体を覆う苔地の中を伸び、山門の正面に建てられた本堂に突き当たる。
山門、延段、本堂以外、境内には右手手前に弁財天社と稲荷社の2つの社と鳥居が建てられている。この稲荷社へは細い延段が渡されている。そして境内の大部分は苔地に覆われている。善能寺の境内から受ける印象は、必要なものしか置いていない、簡潔な構成であるということだ。他の寺院には見られないほどの明快さである。
本堂左手前に置かれた石組みで三尊仏を表現している。中央の大きな石は荻原井泉水の句
南無観世音 藤はようらく 空に散る
が刻まれ、慰霊碑となっている。一見すると句碑には見えないかもしれない。あるいは時が経ち、再び自然石に戻っていくことを予定しているのかも知れない。この三尊石の背後には雲紋あるいは飛行機をイメージしたと言われる築山が造られている。苔地の上に苔の築山という組み合わせに違和感が生じる。作庭当初はこの築山、あるいは本堂まで白砂が敷き詰められていたのかもしれない。本堂の手前に飛び石が残っているが、これもその痕跡かも知れない。築山を含めて手入れはされているものの、作庭当初の姿からかなり変化しているのかもしれない。朽ち始めているというよりは、自然の成り行きに庭の姿を任しているという方が正しいかもしれない。「重森三玲庭園の全貌」を著わした中田勝康氏の公式HPに掲載されている善能寺の写真を見ると、現状とはやや異なっていることに気が付く。
重森の作庭としては珍しい池泉式庭園が、本堂の裏側から始まり北側に向かって広がる。境内の西側は上り傾斜となっている。この地形を活かして、龍門瀑が池の西側に組まれている。既にポンプが機能しなくなって、かなりの時が経っているようだ。この石組みから水が落ちることがなく、今では池も枯れている。本堂前の延段から始まる飛び石は、本堂の背後を廻り、庭の石橋へとつながる。狭いながらも回遊することを意図して造られた庭であることが分かる。
本堂の北側には大きなもみじの木が植えられ、紅葉の季節はこの庭に彩りを与えている。この木の足元に鶴亀石が組まれている。2本の青石の立石が飛行機の翼を想起させる。これを中心として護岸は青石が林立し、動的な印象を与える庭となっている。「重森三玲 -永遠のモダンを求めつづけたアヴァンギャルド」(2007年 京都通信社刊)では下記のように記している。
古典を一方に意図し、しかも他方では飛行機という現代を意図し、かつまた遭難者の霊を慰め、霊魂の永遠に蓬莱神仙の境に再生を乞うて、全庭の構想とした
この庭には、ばんだい号遭難事故の慰霊が色濃く表われているものの、皮相的な飛行機のイメージだけではなく、どこか極楽浄土的な理想郷が感じられた。それは事故の記憶を留めるための作庭ではなく、慰霊ということが、どのような形で行われるべきかを考えているからであろう。
また遊仙苑は、重森の作品群の中でも最晩年、昭和47年(1972)の作品となる。昭和49年(1974)松尾大社の曲水の庭と上古の庭を手がけた後、重森は病に倒れ78歳で亡くなっている。遊仙苑は、上古の庭に見られる原初的なモノのみ持つ力強さの表現とは、対極的な庭である。それでも、悲惨な事故の記憶が無くなり、この庭がさらに自然に帰って行った頃、この庭の石組みが持つ抽象的な造形性と躍動感が、上古の庭と同様に強く表われてくるだろう。それが最初にこの庭を訪れた時に得た強い印象の正体だったのではないか。
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