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等持院 その2



臨済宗天龍寺派 萬年山 等持院(とうじいん) その2 2009年1月12日訪問

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等持院 方丈北庭
立命館大学の校舎を隠すように無理に樹木の背を高くしている

 等持院では、創建から現在の等持院に至る歴史を記す予定だったが、その大部分を足利三代木像梟首事件に割いてしまった。

 この寺院を訪問して強く感じる違和感は、有名な寺院にもかかわらず何故か拝観者に出会うことが少ない点である。前日からの雪で寒い朝となっているため、人出が少ないのは仕方のないことかもしれない。しかし以前、天気の良い日に訪れた時にも同じ事を感じた。霊光殿を除くと特徴の少ない寺院であるかもしれないが、方丈北側の庭園は見事なものである。その割りと言ってはなんだが、近傍の仁和寺妙心寺龍安寺そして鹿苑寺とは、比較できないほどに目立っていない。足利将軍家の菩提寺で、かつては十刹の第一位である等持寺の別院という格式の高さも、残念ながら現在となっては顕れていない。むしろ、このようなロケーションの良さが活かされていないというべきだろう。確かに衣笠から花園、御室にかけて1日がかりで訪問するには、少し盛り沢山という感じがする。その際に等持院だけが、周遊の予定から外されてしまうこともあるのかもしれない。

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等持院 山門
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等持院 参道の様子
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等持院 中門

 等持院は、作家の水上勉が少年時代に徒弟となっていた寺院としても知られている。相国寺の塔頭・瑞春院での修行時代が有名であるが、水上勉が自らの半生と京都を書いた「私版京都図絵」(中央公論社・新編水上勉全集第14巻 1996年刊)によると、9歳で若狭の生家を出て、京都の下京区八条坊城東入ルで履物商を営む母の兄の家に入る。10歳の時に瑞春院に入寺し、12歳で得度し、13歳で本山懺法会に香華役を務めていた。しかし徒弟生活が合わず、14歳の時に瑞春院を飛び出している。丁度、紫野中学校2年生の三学期であった。やはり相国寺の塔頭である玉龍庵の住職に拾われ、ここで4ヶ月間過ごしている。その後、相国寺内では折り合いが悪いので、どこか他山の小僧にと天龍寺派の等持院を世話してくれた。水上勉は大正8年(1919)3月8日生まれであるから、等持院に入ったのは昭和8年(1933)頃であったと思われる。ここで竺源老師が遷化されるまでの6年間を過ごしている。私版京都図絵は昭和55年(1980)に書かれていることから、戦前の姿とその後40年を経た後の比較となっている。それでも現在から見るとさらに30年以上も前の姿である。
     寺はずいぶん荒廃していたが、現今よりも風格はあった。まず、山門から中門にいたるアプローチが美しかった。両側の土塀から巨松が枝をさしかわし、なだらかな坂道が、瓦ぶきの中門に吸われて、その門も四木柱が虫喰いもあらわで、かたむいていた。この中門は、現在は取りはらわれて、コソクリートの塀と門になり、途中の坂は、土塀が消え、人家が建っている。したがって、坂は三分の二ぐらいけずられて、ラチもないただの入口になった。

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等持院 方丈北庭
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等持院 方丈北庭
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等持院 方丈北庭

 まさに山門から中門の間の風景は、上記の通りである。これが執筆された時には、等持院の参道は既に民家の生活道路と化していたのである。各住戸毎に異なった塀を設えているため、全く統一感を感じさせない空間となっている。これから中門そして表門そして方丈へと続いていくという期待の高まりを、残念ながらここから感じることはできない。参道は昔と同じく衣笠山に向かって徐々に上っていく。そしてコンクリート製の門に出会う。

     中門を入ると、左手に聖天池とよばれるかなり広い池があった。橋のかかった中の島には、祠があって、そこには聖天様がまつられていた。このあたりも、いまはなぜか埋めたてられて、造成地に変った。右手は広い松林で、遠くに庫裏のそり棟と、方丈の建物が、土塀をめぐらせ、うしろの衣笠山を形よく屏風のように浮き上がっていたが、この松林も切り売られ、一般の墓地になってしまった。したがって、往時の幽邃さは失せ、ただの街なかの寺院である。

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等持院 方丈北庭
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等持院 方丈北庭 清漣亭から方丈を眺める

 現在、中門の中に入るとマキノ省三先生像が目を引くものの、両側とも区画化された墓地となっている。かつては左手に聖天池、右手に松林があり、さらに庫裏の裏から衣笠山にかけて茶畑が続いていたようだ。この茶畑は既に立命館大学の校舎に変わっている。戦前の等持院は、荒廃していたとはいえ、借景としての衣笠山を含め豊かな自然の中にあったことが分かる。水上はこのよう変貌を以下のように分析している。

     こんなように書いてくると、等持院ほど、ここ二十年間のうちに変り果てた寺はめずらしい。同じ衣笠山をめぐってある金閣寺、龍安寺等は、昔どおりの敷地を守って、名残りを懸命にとどめているのに、この寺だけは、周囲がむざんといえるほど、大学、人家に迫られ、風格を失ったのである。やはり、足利尊氏の菩提寺ということで、人が省みないこともあって、経営難に拍車をかけ、どこの寺でもそうだが、屋敷の切り売りをやった結果というしかない。

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等持院 清漣亭前の蹲
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等持院 清漣亭前の燈籠
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等持院

 現在の等持院の建物は江戸時代以降に建てられたものである。方丈は、元和2年(1616)頃に福島正則が妙心寺塔頭・海福院の客殿として建立されたもので、文化9年(1812)に移築され、文化15年(1818)に竣工している。内部は六間間取り方丈形式。方丈室中仏間に平安時代作の釈迦如来坐像を安置する。方丈仏間の厨子内に納められている鎌倉時代の大聖歓喜天像は、象頭人身の二神立像が相抱擁している。先の私版京都図絵にも記されているように、表門の外にあった聖天池の中の島に祀られていた。昭和9年(1934)の室戸台風で聖天堂が倒壊し遷されている。かつては、衣笠山にあった仁和寺の一院に祀られていたともいう。

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等持院 清漣亭
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等持院

 霊光殿脇殿に、第5代足利義量(長得院)と第14代足利義栄(光徳院)を除く足利将軍の木像13体と徳川家康像が安置されている。足利義量は生来病弱であり、19歳で没している。生前は前将軍の義持が将軍代行として、政務を務めていた。足利義栄は将軍としての在職期間は永禄11年(1568)の2月から9月の間で、一度も京に入ることなく没している。
 足利将軍像は、それぞれ衣冠姿で手に勺を持つ。以下のように配置している。

初代将軍  :足利尊氏 等持院      徳川家康 東照大権現
第 2代将軍:足利義詮 寶篋院 第 9代将軍:足利義尚 常徳院
第 3代将軍:足利義満 鹿苑院 第10代将軍:足利義稙 恵林院
第 4代将軍:足利義持 勝定院 第11代将軍:足利義澄 法住院
第 6代将軍:足利義教 普広院 第12代将軍:足利義晴 萬松院
第 7代将軍:足利義勝 慶雲院 第13代将軍:足利義輝 光源院
第 8代将軍:足利義政 慈照院 第15代将軍:足利義昭 霊陽院

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等持院 清漣亭
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等持院
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等持院

 徳川家康像は、家康42歳の厄落としのために造らせものという。もとは石清水八幡宮宝蔵坊にあり、明治に入り廃仏毀釈で宝蔵坊が廃される際に遷されている。

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等持院 清漣亭

「等持院 その2」 の地図





等持院 その2 のMarker List

No.名称緯度経度
01  広隆寺 楼門 35.0136135.7075
02  広隆寺 講堂 35.0142135.7075
03  広隆寺 薬師堂 35.0138135.7071
04  広隆寺 地蔵堂 35.0141135.7071
05  広隆寺 上宮王院 35.0149135.7073
06   広隆寺 太秦社 35.0146135.7074
07  広隆寺 書院 35.0149135.7067
08   広隆寺 桂宮院本堂 35.015135.7054
09  広隆寺 霊宝殿 35.0155135.7073
10   広隆寺 旧霊宝殿 35.0155135.7069
11  広隆寺 庭園 35.0151135.7071

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