文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都御苑 下立売御門



京都御苑 下立売御門(きょうとぎょえん しもだちうりごもん) 2010年1月17日訪問

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京都御苑 下立売御門

 京都御苑 中立売御門で書いたように、元治元年7月19日丑の刻(午前2時頃)に陣触れが出され、国司軍は1時間後の午前3時頃から進軍を開始したと考えられている。どの道を使用して洛中に入ったかは明らかでないが、現在のところ一条戻橋で国司信濃と来嶋又兵衛の隊が分かれたとする説を採用する書籍がやや多いように思える。天龍寺の総門から御所の蛤御門まで直線距離で凡そ7.5kmなので2時間程度の行軍で到着したと考えてよいだろう。 堀川通以東の国司軍の御所に至る進軍経路について見て行く。馬屋原二郎の「元治甲子禁門事変実歴談」(防長学友会 1913年刊行)に掲載されている地図には、国司隊が堀川通から一条通を進み、西洞院通で一本南の中立売通に入っている。さらに来嶋・児玉隊は出水通をそのまま進み烏丸通に出たとこで分かれている。三原清尭の「来嶋又兵衛傳」(来嶋又兵衛翁顕彰会 1963年刊)にも同様の地図が掲載されている。こちらでは一条通に入った国司隊は、西洞院通の一本手前(西側)の小川通で中立売通に入っている。また来嶋・児玉隊も同じく出水通に入っているが、室町通で来嶋隊が一本北の下長者町通に分かれている。なお、「京都時代MAP 幕末・維新編」(光村推古書院 2003年刊)では、国司隊が中立売通、来嶋隊が下長者町通そして児玉隊が下立売通に入ったと表示している。これは3つに隊を分けたことを分かりやすく表現したものであろう。 多くの書は、来嶋・児玉隊が出水通を烏丸通に向って進軍したとしている。現在では京都府庁によって出水通は分断されているので烏丸通に出ることはできない。この府庁の地に、かつて京都守護職屋敷が存在した。「大工頭中井家建築指図集」(思文閣 2003年刊)には中井家の指図・守護職上屋舗絵図が残されている。この絵図には「慶応元乙丑八月」の貼紙があることから、守護職屋敷が建設されたのは慶応元年(1865)8月のことであり、会津藩が本営を黒谷から移したのが同年9月であった。このことは「京都守護職始末―旧会津藩老臣の手記―」(平凡社 東洋文庫 1966年刊 2巻168頁)の「9月朔日、京師の下立売の官邸が落成したので、この日、ここに移った」の記述からも明らかである。もともとこの地は甲子戦争によって引き起こされた「どんどん焼け」で焼亡しているので、戦後に土地を召し上げて守護職屋敷を着工したと考えるのが妥当であろう。そのため甲子戦争当時、堀川から出水通を使い烏丸通に出ることが可能であったと思われる。

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一条戻橋 2011年6月18日撮影

 甲子戦争が勃発した元治元年(1864)7月19日は現在の8月20日にあたる。京都の日の出は5時20分であるから、三隊とも日の出前には御所に到着している。馬場文英は「元治夢物語-幕末同時代史」(岩波書店 2008年刊)で以下のように記している。

頃は元治元年甲子七月十七日、まだ明けやらぬ東雲の頃をひ、何となく騒々しく、炮声頻りに響き、人馬の物音幽かに聞へけれども、遠からず次第々々に物音近く進み、手に取る如く喧びすければ、何事やらんと臥たるままに枕を欹け、耳をすまして考るに、奔走の音かかしましく、「長州様の出立を見よや」と口々に云声にをどろき、只事ならずと寝衣のまま門の戸を開き見れば、最早中立売通には見物の人群集せり。その物陰より旗差物の見ゆるに、長州国司信濃朝相と記したる文字明にして、毛利家の紋所まで顕然たれば、すは大変こそ出来たりと思ひしかども、尚も辺近く進みよりて、其行勢を伺ふに、紛ふ方なき嵯峨天龍寺に屯したる長州の家老国司信濃なり。

 「野史台 雑五」(「野史台 維新史料叢書 雑五」(東京大学出版会 1975年覆刻))に所載されている「京都戦争見聞録」にも以下のような記事が見られる。

十九日今暁八ッ時比かと覚へしか街路通行の人足音繁く聞ゆ夜明るに随ひて益しけけしとは何事にやあらむと表の方に出て風説を聞に堺町通り御池の御所八幡なる桑名藩旅宿より今暁甲冑の兵士繰出せしと云にすはや事ありと御池通に出るに柳馬場通を甲冑の兵士登ると云に急き馳至りて見るに長人の先隊半ハ登し処なり

 「京都戦争見聞録」は作者未詳であるが、その註にあるように当時在京の学生による実記であることは明らかである。また、「官武通紀」(「続日本史籍叢書 官武通紀 二」(東京大学出版会 1913年発行 1976年覆刻))にも開戦直前の状況が記されている。

一 七月十九日暁八ッ半頃、京都御留守居御長屋え黒澤可守大番組、下立売御固場常番也、罷越申聞候は、下立売御問前え大勢提灯を附け罷越候者有之候に付、立向承候得ば、長州家中に候処、歎願之次第は御留守居衆迄申上置候間、御承知も可有之候、右御門を通し呉れ候様申聞、何れも抜槍鉄砲杯提居、可守を取巻居、大凡五六十人程度と見受候由

 九門の守衛は下記の通りであるから、上記より仙台藩の対応状況が分かる。

宮門
  中立売門                 築前藩
  蛤門                   会津藩
  蛤門内南                 藤堂藩
  清和院門                 加賀藩
  下立売門                 仙台藩
  堺町門                  越前藩
  寺町門                  肥後藩
  石薬師門                 阿波藩
  今出川門                 久留米藩
  乾門                   薩摩藩
宮門外
  南門前                  水戸藩
  其東                   尾張家老 渡辺飛騨守
  公家門前                 会津藩
  台所門前                 桑名藩
  日門前                  尾州藩
  其南                   紀州藩
  其北                   小田原藩
  猿ヶ辻                  岡藩
  朔平門前                 彦根藩

 「官武通紀」では続いて下記のような記述が見られる。

夫より御屋敷詰御人数繰出之儀、隊長手前より申渡、具足等渡方之儀御役人共え申談、立懸夫々相渡遣申候処、七ッ半時頃にも候哉、鉄砲打合、御屋敷屋根之上を鉄砲玉飛行、御人数之内途中それ玉危く、烏丸通には長州人押寄候に付、一両人杯に而は罷越兼候勢に付、御人数は町家之裏杯より出張仕

 遂に下立売御門で長州藩と守衛の仙台藩の間で戦闘が開始する。長州藩は会津藩以外を敵とせず、着京以来自らの主張を諸藩に回覧していることから、先ずは九門内への進入を諸藩に申し出ている。そのため開戦までに時間がかかり、「元治夢物語」に見られる町人などの野次馬も多数出ていたと考えられる。

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京都御苑 中立売御門

 国司軍が御所西側の烏丸通に集結したのに続き、ここからは中立売御門と下立売御門の状況を見て行く。
中立売御門の19日早朝の状況について、加太邦憲の維新史料編纂会講演速記録(「続日本史籍協会叢書 維新史料編纂会講演速記録 一」(東京大学出版会 1911年発行 1977年覆刻))より開戦前の緊張する状況が伝わる。

家老兵頭八右衛門、番頭松平左二郎、此二隊は十九日の暁七つ時に所司代屋敷を発しまして、烏丸通りを北へ上りて中立売門前に至りました所が、門前に数多の兵が留まって道を塞いで居りまするので、何藩の御方かと問ひましたけれども、一人も答ふる者が無い、それで段々様子を窺ひ見ますと、どうも長州の兵であることが察せられました故に、其中を無理に通る必要もありませぬから引返して蛤門を入り、台所門外へ達しましたのであります、

 京都所司代屋敷は堀川通の西、二条城の北に隣接する。ここから桑名藩兵が出兵したことになる。なお加太邦憲は桑名藩士であったが当時16歳で桑名にあった。そのため、この講演は実歴を述べたものではない。しかし同年10月初に出役中の父の招きで上京し、具に実地を見学し且つ実話を得ているので、他の見聞録にはない価値があることは、同書の解題で触れている通りである。ただし、この講演自体が事件から既に50余年が経過した大正9年(1920)に行われ、この間に加太が自分の記憶を確認するために他書を参考にしている点は考慮に入れておかなければならないだろう。当日の桑名藩の守衛地は台所門であるから中立売御門を入り北に折れるのが普通である。しかし中立売御門の前を既に国司隊が固めていたため蛤御門から入ったことになる。  このことから、来嶋隊の布陣が国司隊と比べ遅かったことが想像される。
 次に国司信濃の中立売御門への着陣から開戦に至る経緯を見るため、再び「元治夢物語」を参照する。

惣勢凡二百余人計り、甲冑に身を固め、中立売通を西より隊伍を備へて、禁闕の方へ押向ふ。大将信濃の出立は、萌黄威の甲冑は大和錦の直垂を着し、上には白羅紗に墨画龍の陣羽織を着し、金の采配を持て馬にまたがり、先備には旗をなびかし、野戦炮を一車引かせ、槍隊三十ばかり備へ、前後には鉄炮四、五十挺計り持せ、厳重に構へ、中立売御門の前に向ふたり。
此門の固めは、筑前の大守黒田家なり。士卒、堅固に守り、門戸をとぢて、若此手に打向ひなば、打出さんと、片づを呑てひかへたり。如何なる掛引や有ると、恐る恐る長州方の後へに付て、室町通まで伺ひ行しに、室町通南の方より一橋殿の銃手大隊一備進み来かかりし故、如何あらんと想ひ伺ひしに、長州方は残らず北の方へはたはたと寄て、道を半ばゆづりたりしかば、一橋勢は南の方を長州方の片脇通を通り過て、中立売御門前まで至るとみえしが、何れも前に竹盾を結び、備を立て、長州勢を目がけ、筒先をそろへて続けうちにうち出す。此時長州の大将国司信濃は、室町と烏丸の間なる北側、石田と云へる薬店に腰うちかけ、兜を脱ぎ、士卒に持たせ、先手蛤御門の戦を伺とみえたり。然るに一ばし勢よりうち出す筒音に思ひ掛けなくや有けん、直に又馬にうち乗り、士卒を下知す。長州方は一端は乱れかかりしかども、又備へを立直し、無二無三に一ばし勢の中へ切入と見へしが、一ばし方、間近く敵進むをみて、散々に成しを、長州方付入、切まくりければ、鉄炮を投捨、烏丸を南へなだれかかるを、長州、すかさず鉄炮閑なくうち立ければ、一ばし方、一たまりもなく、皆散々に逃失たり。

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国司軍の攻撃箇所 地図:京都 1889年製

 中立売御門の戦闘を末松謙澄は「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))で以下の様に簡潔に記している。

嵯峨方面に在りては十八日夜半国司信濃兵八百余を率ゐて天龍寺を発し途北野を経一条戻橋に至り軍を分て一と為し一は来嶋又兵衛をして率ゐて蛤門に向はしめ一は中村九郎と共に自ら之を率ゐて中立売門に向ふ時に会津の兵蛤門を守り筑前の兵中立売門を守る筑兵守うを失て走る長兵合して一と為り力を蛤門に集め門を破て入る会兵殆ど支へず桑兵の公卿門を守るもの来て会兵を援く此に於て両軍奮戦時あり

 つまり「防長回天史」によれば、国司隊の一部は中立売御門の守衛の筑前兵や御所護衛の援軍として駆けつけた一橋兵を蹴散らし、御所内に入り蛤御門から突入した来嶋隊と合流を果たしたとしている。中立売御門から門内に闖入した国司隊の動きについては、山川浩の「京都守護職始末」(東洋文庫 「京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記」(平凡社 1966年刊))にも描かれている。

国司信濃は、すでに夜半に嵯峨を出で、天竜寺に屯集していた兵の一部を率いて、その一手は、中立売門の筑前兵を撃ち破り、門内に闖入してきた。また、ほかの一手は、中立売門の南にある烏丸邸の裡門から邸内に闖入し、それから日野邸の正門を押しひらき、唐門を守衛していたわが藩の内藤信節の軍に砲撃をしかけてきた。
これよりさき、唐門前に集っていた諸藩の守兵は、新在家の砲声が起こるや、ことごとく北にのがれ、いまはただ、わが内藤の一隊だけが門前を守っているばかりであった。賊兵は、日野邸の塀のうちを拠点にしてさかんにわが兵を攻撃したが、わが兵はあいにく拠るべき地物がなかった。そのうち硝薬が尽きたらしく、砲撃は数刻で止んだ。

 文久3年(1863)の「内裏圖」を見ると、中立売御門の南側に西から烏丸邸そして日野邸が接していることが分かる。烏丸邸から日野邸に入り込めば、日野邸の正門は北の台所門(清所門)と南の公家門(宜秋門・唐門)に面する。公家門はその名の通り御所への公卿の出入り口となっているため、道幅も広く御所側には遮蔽物がない。そのため日野邸から砲撃を受けると盾となるものもなく、直に受けざるを得ない状況に陥った。 長州藩兵が日野邸に立て籠もったのは、松平容保が公家門より参内すると考えたためであろう。この地を抑え参内する容保を狙ったものの、すでに容保は駕籠で凝華洞を出て築地東側の建春門、北穴門で駕籠から下り御所内に入っている。そして左右から助けられて紫宸殿の南門にあたる承明門前を過ぎ平唐門内の仮屋に辿り着いている。
 上記の「唐門前に集っていた諸藩の守兵は、新在家の砲声が起こるや、ことごとく北にのがれ」とあるが、加太邦憲の「維新史料編纂会講演速記録」にも同じ記述を見ることができる。諸藩の兵が北に逃れたことにより、一橋兵が圧迫され、桑名兵も前を塞がれ発砲できない状況となっている。隊が乱れたため桑名兵は守衛する台所門内に一度入り、隊を立て直した後、再び参戦することを試みたが、その号令も届かずさらに混乱が増している。何れにしても公家門前の広場は、戦闘に加わっていない諸藩兵によって半ばパニック状態になっていたようだ。
 また加太は中立売御門から直進した長州兵の数はあまり多くなく、台所門周辺での目立った交戦はなかったとしている。これは馬屋原二郎の「元治甲子禁門事変実歴談」(防長学友会 1913年刊行)に掲載されている地図に対する言及である。

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護王神社 烏丸通を挟んで下立売御門の前に位置する 2011年6月18日撮影

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京都御苑 下立売御門

「京都御苑 下立売御門」 の地図


大きな地図



京都御苑 下立売御門 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
赤● 京都御苑 中立売御門 35.025 135.7596
赤● 京都御苑 凝華洞跡 35.0214 135.7625
01 京都御苑 今出川御門 35.029 135.7624
02 京都御苑 乾御門 35.0275 135.7596
03 京都御苑 蛤御門 35.0231 135.7596
04 京都御苑 下立売御門 35.0195 135.7596
05 京都御苑 堺町御門 35.0177 135.7632
06 京都御苑 寺町御門 35.0199 135.767
07 京都御苑 清和院御門 35.0233 135.7668
08 京都御苑 石薬師御門 35.0277 135.7668

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