仁和寺
真言宗御室派総本山 仁和寺(にんなじ) 2008/05/14訪問
再び北野天満宮の一の鳥居を潜り、今出川通に出る。北野天満宮前停留所から市バス10号に乗り、10分ほどで6つ先の御室仁和寺に着く。
仁和寺は真言宗御室派総本山で山号は大内山。平成6年(1994)に世界遺産に登録される。
仁和寺は光孝天皇の勅願で仁和2年(886)に建立が始められた。
北野天満宮の項で触れたように、元慶8年(884)藤原基経によって陽成天皇が廃位された後に光孝天皇は即位する。天長7年(830)仁明天皇の第三皇子として生まれているので、即位した時は既に55歳となっていた。16歳で元服し四品親王となって以来、中務卿・式部卿・相撲司・大宰帥・常陸及び上野国太守と親王が歴任する官職をほぼ全てを歴任し、53歳のときに一品親王となって諸親王の筆頭となった。即位後、自分を天皇としてくれた藤原基経を関白に任命し、政務を執らせた。これが日本史上初の関白の就任となった。
光孝天皇は宮中行事の再興に務めるとともに諸芸に優れた文化人でもあったとされている。和歌・和琴などに秀で、桓武天皇の先例に倣って鷹狩も復活させた。晩年は親王時代の住居であった宇多院の近くに勅願寺の創建を望んだ。しかし天皇は寺の完成を見ずに、翌仁和3年(887)崩御した。
仁和3年(887)に即位した宇多天皇により、仁和4年(888)に落成し、西山御願寺と称された。その後、年号より仁和寺という寺号となった。宇多天皇は寛平9年(897)醍醐天皇に譲位し、出家する。法皇は仁和寺伽藍の西南に御室と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、御室御所の別称もある。地名の御室もここから生じている。
応仁の乱によって仁和寺の伽藍は全焼した。その後およそ150年間は仁和寺の南にある双ケ丘に堂宇を建て移転していた。江戸時代に入り、第21世門跡覚深法親王と3代将軍家光の間に復興援助が約束されたことから仁和寺の再興が始まる。覚深法親王は仙洞御所の項でも少し触れた後陽成天皇の第1皇子 良仁親王である。後陽成天皇は秀吉の勧めで良仁親王を跡継ぎと決めていた。しかし秀吉が亡くなると自らの弟である八条宮智仁親王への譲位を望むようになる。これは豊臣家との距離を置くために行ったとも考えられるが、智仁親王もまた秀吉の猶子となった経歴があるため、幕府は難色を示した。関ヶ原の戦いで家康が勝利すると、慶長6年(1601)良仁親王は仁和寺真光院に入室、落飾して覚深法親王となる。後陽成天皇は慶長16年(1611)皇位を第3皇子政仁親王、すなわち後水尾天皇に譲り自らは上皇となった。覚深法親王は慶長19年(1614)一品に叙せられて法中第一座の宣下を受けた。寛永年間(1624~1644)の御所の建て替えに伴い、紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜されると共に、徳川幕府より金20万両もの再建資金が仁和寺に渡され、伽藍の整備が行われた。 慶応3年(1867)第30世門跡の純仁法親王は朝廷より復飾を命じられた。仁和寺宮嘉彰親王と名乗り、議定、軍事総裁に任命され、奥羽征討総督として官軍の指揮を執った。その後も明治7年(1874)の佐賀の乱において征討総督として、また、明治10年(1876)の西南戦争にも旅団長として出征し乱の鎮定に当たった。維新以来の功労を顕彰され、明治14年(1881)世襲親王家に改められた。翌年に宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで小松宮に改称した。しかし仁和寺にとっては純仁法親王が還俗したことにより、皇族が門跡となる宮門跡の歴史を終えることとなった。
きぬかけの道に面して巨大な二王門が建つ。江戸時代初期の和様様式の建築で門跡寺院の雰囲気を伝えている。この門の両脇には二王像が安置され、仁和寺を護持している。二王門を潜ると幅の広く長い参道が続く。西側には宇多法皇が建立した僧坊の跡に、御殿と呼ばれる建築群が建てられている。東側には御室会館と宝物館として霊宝館がある。参道の先は石段となり、その上に中門がある。中門を潜ると正面に金堂、右手に五重塔、左手に観音堂が現れる。
国宝の金堂は桃山時代に建てられた御所の紫宸殿を移築したもので、現存する最古の紫宸殿の遺構となっている。京都御所の項でも書いたように、京都御所は天明8年(1788)の大火で焼失後、老中 松平定信が総奉行となり、故実家 裏松固禅らの考証によって紫宸殿を含む多くの殿舎の意匠を平安の古制に復元した。この金堂はそれ以前に御所に建てられていた紫宸殿であるため、現在私たちが京都御所で見る復元後の紫宸殿とはかなり異なった様相となっている。 五重塔は寛永21年(1644)の建立で、塔身は約32.7メートル。各層の屋根の大きさをあまり変えていないことが特徴となっている。
もともと御殿には御所の清涼殿や常御殿が移築されたが、明治20年(1887)の火災で失われている。現在この御殿に建つ建築群はその後に再建されたものである。順路に沿って建物を見ていくと、玄関、白書院、宸殿、黒書院そして霊明殿となる。
御殿入口を入ると玄関前庭の先に玄関がある。この前庭は塀で区切られており、南庭とは門でつながっている。玄関を上がり回廊を進むと白書院に入る。白書院は東面し、南庭の東に建てられた勅使門に正対する。この白書院は明治20年(1887)の火災の後、最初に再建された建物である。非公式の面会所として使用されていた。本来白木の柱を用いたところから白書院と呼ばれていた。この御殿では宸殿の北にある庭を北庭、南の庭を南庭としている。南庭は白砂が敷き詰められ、宸殿前には右近の橘、左近の桜が植えられている。白書院の右手、宸殿の正面と勅使門の回りには松や杉が植えられ、非常に簡素であるが趣のある庭となっている。
宸殿は御室御所址を代表する建物であり、門跡の御座所、儀式や式典に使用される建物である。桃山様式を取り入れた本格的な書院造りで床・棚・帳台構・付書院の3部屋により構成されている。現在この建物の正面は北庭を眺められるように北となっているが、昔は東向きであったことが古図より分かる。北庭は白砂を敷き詰めた南庭とは対照的に、池泉鑑賞式の雅やかな庭園となっている。宮元健次氏の「[図説]日本庭園のみかた」(P60~61)によると現在の庭は仁和寺創建時のものではなく、元禄3年(1690)に大幅に手を入れたものであるとされている。白井童松、如来道意という名の庭師によって二尊院や栂野、高雄などから庭石や松、楓が運び込まれて造られたことを示す文献が残されている。池泉は宸殿の北側から東側へ建物を回り込むように広がっている。宸殿の正面には石の平橋が架かり、西の丸い池と東の三角形の池をつなぐ様にも見える。この平橋の奥には滝が作られ、池の西側に注ぎ込んでいる。平橋の東側には亀島が浮かび、その先に茶席 飛濤亭、さらには五重塔を借景としている。ここからの眺めはこの庭の代表的な構図となっている。飛濤亭は江戸末期に光格天皇の好みで建てられた草庵風の茶席。内部は明るく、変化のある天井と洞床及び貴人口などに特徴がある茶室。
宸殿の北側正面に出ると左手に黒書院、その北に霊明殿が現れる。本来黒書院は柱や格子などに黒漆による色付けが施された建物である。この黒書院は明治の火災後、花園にあった旧安井門跡の寝殿を移築改造したものである。一番上手の秋草の間には、最後の門跡となった30世門跡純仁法親王の御真影が掲げられている。霊明殿は御殿内にある唯一の仏堂で、本尊は国宝の薬師如来で両脇には歴代門跡の御霊が祀られている。建物は単層の宝形造、檜皮葺きで宸殿、黒書院から一段高いところに建てられている。そのため、見上げて見る檜皮葺き宝形屋根は勾配も薄く軽やかな印象を与える。霊明殿の奥にもうひとつの茶席 遼廓亭がある。遼廓亭は江戸時代の画家・尾形光琳の屋敷を移築したもの。葺下し屋根の下に袖壁を付け、その中に躙口を開いている。織田有楽好み如庵を模して造られている。飛濤亭とともに重要文化財に指定されている。
「仁和寺」 の地図
仁和寺 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 仁和寺 二王門 | 35.0281 | 135.7138 |
02 | ▼ 仁和寺 中門 | 35.0295 | 135.7137 |
03 | 仁和寺 金堂 | 35.031 | 135.7138 |
04 | ▼ 仁和寺 五重塔 | 35.0302 | 135.7143 |
05 | ▼ 仁和寺 勅使門 | 35.0286 | 135.7135 |
06 | 仁和寺 白書院 | 35.0287 | 135.713 |
07 | ▼ 仁和寺 宸殿 | 35.0289 | 135.7131 |
08 | 仁和寺 黒書院 | 35.029 | 135.7129 |
09 | ▼ 仁和寺 霊明殿 | 35.0292 | 135.713 |
10 | ▼ 仁和寺 南庭 | 35.0287 | 135.7133 |
11 | ▼ 仁和寺 北庭 | 35.0291 | 135.7132 |
12 | ▼ 仁和寺 飛濤亭 | 35.0293 | 135.7135 |
13 | 仁和寺 遼廓亭 | 35.0295 | 135.7127 |
この記事へのコメントはありません。