京都の神社巡り その6
京都の神社巡り(きょうとのじんじゃめぐり) その6
祭 神: 不明
社 格: 不明
所 在: 不明
「山城志」では、
在所未レ詳
「山城名跡巡行志」(「京都叢書 第10巻 山城名跡巡行志 京町鑑」(光彩社 1968年刊行))も、
在二乙訓郡一其所不レ詳
とあるが、「山城名勝志」(新修 京都叢書 第7巻 山城名勝志 乾(光彩社 1968年刊))では、
土人云スハラト云所水垂村西北ニアリ此所ナルニヤ
と簀原神社が水垂村の西北にあったことを記している。水垂村は現在の伏見区淀水垂町の大部分であり、桂川の右岸に位置する。また淀城址に遷座した與杼神社の旧地でもある。
ただし「神社覈録」では、この水垂村に簀原の地名を見つけることが出来ず、築山村の田圃の中にある簀原古墳を簀原神社の旧跡と考えている。築山村は現在の南区久世築山町にあたり、かつては樫の木と椿の木が一本ずつ生えていた古墳は出雲路森と呼ばれていた。「神社覈録」は簀原神社の地に菱妻神社が勧請されたとしている。
祭 神: 天児屋根命 武甕槌命 斎主命
比売大神
社 格: 旧郷社
所 在: 乙訓郡大山崎町円明寺鳥居前83
小倉神社は、大山崎町字円明寺小字鳥居前で第二大山崎小学校の西南にある。「雍州府志」(「京都叢書 第3巻 近畿歴覧記 雍州府志」(光彩社 1968年刊行))によると、
小倉明神 在二大山崎北円明寺村西一
「扶桑京華志」」(「京都叢書 第2巻 扶桑京華志 日次紀事 山城名所寺社物語 都花月名所」(光彩社 1967年刊行))も、
小倉神社 在二山崎ノ北神足村ノ南ニ一
延喜式ニ曰山城ノ国乙訓ノ郡小倉神社
さらに「山州名跡志」(「京都叢書 第18巻 山州名跡志 乾」(光彩社 1967年刊行))でも、
小倉神社 在二神足村ノ南五町計街道ノ西ノ山下ニ一
とほぼ現在の社地を記している。「式内社調査報告 第1巻 京・畿内1」(皇學館大學出版部 1979年刊)では遷座地を移動した形跡がないと考えている。なお明智光秀の山崎合戦と幕末維新の戦火によって社の旧記は悉く失われている。
祭 神: 天児屋根命
社 格: 旧村社
所 在: 西京区大原野上羽町192
上羽集落の南、善峰川の北、大歳神社より数百メートル下流の上川原に鎮座する。上羽村は善峰川の中流域に位置し、北と東は上里村、西と南を灰方村に接する。中世は小塩庄内の一部であったと考えられており、付近には業平伝説に因んだ古跡もあり、王朝貴族の別業が営まれた地でもあった。
現在の入野神社の祭神は、武甕槌命、斎主命、天児屋根命そして姫大神の四神。社伝によれば旧鎮座地は現在の西京区大原野神社の地とも元の大原野神社の御旅所ともいわれている。
祭 神: 大山祇神
素盞嗚尊、奇稲田姫、
天忍穂耳尊・天穂日命・天津彦根命・
活津彦根命・熊野久須毘命・
市杵蔦姫命・多紀理比売姫・
多岐都比売姫の八王子
社 格: 旧郷社
所 在: 乙訓郡大山崎町大山崎天王46
酒解神社の正式名称については、「山城名勝志」では、
山崎ノ神社 神名帳云自玉手祭来酒解神社 元名二山崎社一
「山城名跡巡行志」では、
天神八王子又号二山崎天王ト二
自二玉手一祭リ来ル酒解ノ神社 元ト名二山崎ノ社ト一神名帳
「扶桑京華志」は、
山崎神社 在二離宮ノ側ニ一乃大山祇命也
延喜式ニ曰山城ノ国乙訓ノ郡自玉手祭来酒解神社元名山崎社
「山州名跡志」は、
山崎ノ神社 今不レ詳
神名帳ニ曰ク自リニ玉手一祭リ来ル酒解神社
元ト名クニ二山崎ノ社ト一
としている。なお先に挙げた「山城名勝志」と「山州名跡志」では、山崎神社とは違う項目として下記のように記している。
天神八王子社 在大山崎北山上 (「山州名跡志」)
さらに「雍州府志」でも山崎明神と牛頭天王社を下記のように区別している。
山崎明神 在二離宮傍一面所レ祭二大山祇命一也
牛頭天王社 在二山崎山上一 創建不レ詳レ為二何年一(中略)
在二本妨一本社両座
東称二東天王八王子一西号二天神八王子一 供僧毎日修二護摩一
これらを纏めると、離宮八幡の傍らに大山祇神を祀る山崎明神があり、それとは別に天王山中に天王社が存在していた。天王社は二座あり東側を東天王八王子、西側を天神八王子と読んでいたようだ。
「式内社の研究」では、大山崎の氏神であった山崎社に後に酒解神を合祀し、中世に天王と称した推定し、玉手自リ祭リ来レル酒解神社の名称に従い、酒解神が来た玉手という地名を探している。
酒解神社は天王山山頂への道程の約100メートル手前に位置する。社殿に大山祇神、相殿に素盞嗚尊、奇稲田姫と八王子を祀る。
祭 神: 天神立命
社 格: 旧村社
所 在: 長岡京市東神足二丁目15-15
神足神社の現在の祭神は天神立命であるが、「山城名跡巡行志」で、
鎮座不レ詳
「山州名跡志」でも
鎮坐ノ記未ダレ考
と記されているように明らかではない。氏子は神足村と長岡京以来の古市村である。神足集落の東端にあり、現在の社地は小高く東側は湿原地となり小畑川に近い。なお、元禄年間(1688~1703)から宝永2年(1705)にかけて纏められた「山城名勝志」では、
神足村ノ氏社坐>二村艮杜ノ内>一
と村の東北の杜の中にあるとしているが、正徳元年(1711)年に刊行された「山州名跡志」では、
在リ二同所民居ノ巽ニ一
と神足村の東南へと位置関係が変わっている。「式内社調査報告」では行政領域の変更か小畑川の氾濫によるものと推測している。また明治5年(1872)東海道本線建設のため鉄道敷地内の樹木の伐採が行われている。この時にやや東側の現在地に移されてようだ。その後も境内の建物の移築もあったが、境内地の移動はなかった。
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