出雲路鞍馬口
出雲路鞍馬口(いずもじくらまぐち) 2010年1月17日訪問
光格天皇御胞塚の石碑の建つ護浄院の境内から河原町通に出る。ここより市バスを使い出雲路橋に向う。鴨川の西岸に沿った道の内、葵橋西詰から京都産業大学総合グランドの北にある高橋の西詰までを加茂街道と名付けている記事を見かけたことがある。ただし「日本歴史地名大系27 京都市の地名」(平凡社 1979年刊)に掲載されていないので、どこまで一般化した名称なのか分からない。高橋より先、加茂街道は東西に分かれる。西は雲ヶ畑へ向う府道61号京都京北線、東は鞍馬を通る府道38号京都広河原美山線である。なお葵橋西詰から始まり鞍馬へ至ることから、これを鞍馬街道とする記述も目にする。今回はこの鞍馬街道について調べてみる。
バス停の出雲路橋で下車して橋の西詰にあたる交差点に向う。橋の南側には官幣大社賀茂御祖神社の社号標が建つ。出雲路橋を渡ると東鞍馬口通が始まり、やがて下賀茂神社に至るので、出雲路から来る参拝者のためにこの地に社号標を置いたのであろう。ここより下賀茂神社までは五町と記されている。反対側の北側にも2つの石碑がある。ひとつ目の自然石を使用した石碑は師範桜碑である。碑文が草仮名で記されているので、現地では何の石碑か分からなかった。この石碑については次の項で書く予定である。2つ目の石碑は師範桜碑の裏側に建てられたもので出雲路鞍馬口と記されている。まだ新しい石碑のように見えるが、昭和45年(1970)3月に京都市が建立している。
この出雲路鞍馬口の石碑を考える上で、先ず前半部分の出雲路について調べてみる。前記の「京都市の地名」では、出雲路とは賀茂川の西畔、現在の北区と上京区の区境辺り一帯を指し示す地名としている。元々出雲路は、路あるいは街道であったが現在では出雲路松ノ下町から南に出雲路神楽町まで出雲路が頭に付く4つの町の地名として残っている。
「和名抄」によると、愛宕郡出雲郷は賀茂川を挟んだこの辺り一帯に広がっていたと考えられている。これが出雲路の由来となっている。「和名抄」には、出雲(以都毛)郷「有上下」と記されていることから上出雲郷と下出雲郷に分かれていたようだ。元々山陰道より移動してきた出雲地方出身者達がこの地に住みついたことにより形成された郷である。これは神亀3年(726)の山背国愛宕郡雲上里計帳と山背国愛宕郡雲下里計帳に多くの出雲姓が見られることから明らかである。
「延喜式」の神名帳によると、出雲郷には出雲井於神社と出雲高野神社が存在していた。現在でも上高野の崇導神社の式内社に出雲高野神社が残っている。そのため出雲郷の北限は現在の左京区高野に及んでいたとされている。ちなみに賀茂川の東岸も出雲郷の範囲であったとしている根拠も出雲井於神社が下鴨神社の式内社になっているからであろう。
2つの神社以外にも「延喜式」には出雲寺についての記述がある。また「今昔物語」巻20において以下のように記されている。
今昔、上津出雲寺ト云フ寺有リ。建立ヨリ後、年シ久ク成テ、堂倒レ傾テ、殊ニ修理ヲ加ル人尤シ。
出雲寺もまた上出雲、下出雲と同様に上下二寺あったことが推定されている。上出雲寺は上御霊社を鎮守とする寺院で、天皇や上皇の死後に誦経していることから御霊を鎮める役割を担っていた寺院であったのかもしれない。さらに前記の「今昔物語」から、荘厳な伽藍を誇った上出雲寺も平安末期にはかなり荒廃するようになっていたことが伝わる。そして上御霊社の神宮寺と化し一観音堂として残ったことが「山州名跡志」に記されている。
下出雲寺の鎮守社も下御霊神社となったとされている。現在、下御霊神社は寺町通丸太町下ルの下御霊前町にあるが、元は出雲路の上御霊神社の南にあり、後に新町出水に移りさらに天正18年(1590)豊臣秀吉の都市整備にともない現在地に遷座している。下御霊神社の公式HPの由緒・沿革には下記のように記されている。
初め愛宕郡出雲郷の下出雲寺(のちに廃絶)の境内に鎮座されたと伝わっております。今で申しますと寺町今出川の北辺りと考えられます。後に新町出水の西に移り天正18年(1590)に現在地に鎮座されました。
かなり大まかな記述であるが上御霊神社より南の相国寺あたりにあったと思われる。いずれにしても両出雲寺ともに既に廃絶し出雲寺を冠する地名も残っていない。そのため特に下出雲寺の正確な所在地を特定することは困難なようだ。この件については項を改めて考えて行くこととする。
次に石碑の後半部分である鞍馬口について調べる。鞍馬口は京の七口の一つとして数えられている。ただし七口は必ずしも各時代で一定していた訳ではなく、時代によって数や選ばれる場所が異なることもあった。七口の名称は恐らく五畿七道の七から出たものであろう。一応、七口と称される9つの口名を下記に記しておく。
1 鞍馬口:鞍馬に至る鞍馬街道
2 大原口:八瀬、大原を経て朽木、若狭につながる若狭街道(鯖街道)
3 荒神口、今道の下口:北白川から、崇福寺に通ずる志賀峠を経て、
琵琶湖・西近江路へとつながる山中越(志賀越、今道越、
白川越)
4 粟田口、三条口:東海道・中山道
5 伏見口、五条口:伏見に至る伏見街道
6 竹田口:竹田より伏見港に至る竹田街道
7 東寺口、鳥羽口:山崎、西宮を経て西に続く西国街道と鳥羽を経て淀に
至る鳥羽街道
8 丹波口:亀岡から丹波に続く山陰街道
9 長坂口、清蔵口:京見峠を越え杉坂に至る長坂越
再び前記の「京都市の地名」を参照すると、鞍馬口とは出雲路橋西詰の鞍馬口通辺りを称する地名としている。まさに出雲路鞍馬口の石標が建つ辺りのことである。京都から上賀茂、幡枝、市原、二瀬を経由して鞍馬に至る鞍馬街道の京都側の入口にあたる。現在では下賀茂神社から北山にかけて市街化が進み新たな道が作られたため、かつての鞍馬街道がどこにあるか分かりづらくなっている。明治25年(1892)に大日本帝國陸地測量部が製作した京都を見ると下鴨周辺に田園風景が広がっていた様子が分かる。先ず出雲路橋を渡り下賀茂神社に向って下鴨村の集落に入る。そこから北に向う道に転じ、深泥池の東側を通り幡枝に出る。この道が鞍馬街道で、現在の下鴨中通に当たる。途中で塚のようなもの避けるように左に迂回している箇所があるが、これは下鴨中通の五叉路にある二本松の道標であろう。
最後に出雲路鞍馬口の御土居との関係について書いてみる。鞍馬口の御土居の出入口は出雲路橋の西詰、すなわち出雲路に設けられていた。この地には前述のように鞍馬口町の地名と西に延びる鞍馬口通と東に延びるの東鞍馬口通に名称が残る。かつての七口の中でも既に地名として残っていない場所もある中で、この鞍馬口を始め荒神口や粟田口は地名として昔の名残を留めている。 鞍馬口町は鞍馬口通に面する両側町で、鞍馬口村域に接続している。旧鞍馬口村は現在の出雲路松ノ木町、出雲路立テ本町、出雲路俵町、出雲路神楽町の出雲路が付く4つの町に旧出雲路内河原町から町名が改められた小山上内河原町と小山下内河原町を加えたものであった。この賀茂川西岸の南北に広がる鞍馬口村に対して、鞍馬口町は西側に突き出す様な形で上善寺門前町と天寧寺門前町に接している。
「坊目誌」(「新修京都叢書第十四巻 京都坊目誌 上京 乾」(光彩社 1968年刊))では、鞍馬口町を以下のように記している。
天正十八年豊臣氏前田玄以を命し開通する所なり。文禄元年大堤塘俗に大土居と云ふを築く時。京師七口の一とす。
つまり秀吉の時代に前田玄以が鞍馬街道を拡幅している。そして御土居建設の時に、その外側に町が作られたのが出雲路町ということらしい。中村武生氏の「御土居掘ものがたり」(京都新聞出版センター 2005年刊)を見ると、鞍馬口の北側の土塁は上善寺の墓地の東側に築かれている。さらに鞍馬口の南側の天寧寺は御土居の内側であるが、西光寺は外側の場所に建てられている。現在の鞍馬口町は上善寺の墓地より東側に位置するので、鞍馬口村と共に御土居の外側であった。
ただし、この鞍馬口部分の推定図には御土居の位置を示す土塁を二重に描いている。西側の土塁は御土居の本線にあたり、東側の土塁は鞍馬口を賀茂川の洪水から守るために作られたと中村氏は推測している。鞍馬口町はこの2つの土塁の間に位置している。これは鞍馬口町を守るためでなく御土居内に賀茂川の洪水が入り込むことを防ぐ目的であっただろう。
江戸時代に入り寛文9年(1669)になると、鴨川両岸の石堤築造、すなわち寛文新堤が作られる。これにより上善寺などの御土居の内側の町は、二重の御土居と寛文新堤によって三重の守りを得ることとなった。
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