応仁の乱勃発地
応仁の乱勃発地(おうにんのらんぼっぱつち) 2010年1月17日訪問
上御霊神社の西の楼門と鳥居を潜り、上御霊前通に出ると鳥居の右手側に応仁の乱勃発地の石碑がある。これは京都市が昭和45年(1970)に建てた碑である。
応仁の乱とは、室町時代の応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで続いた内乱である。そもそも室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏の家督争いから始まり、やがて細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、さらに室町幕府8代将軍足利義政の継嗣問題も加わり、ほぼ全国に紛争が拡大していった。この応仁の乱とその後の明応2年(1493)に起きた明応の政変によって、戦国時代に突入したとも謂われている。つまり室町幕府の権力が失墜し、守護大名に代わって全国各地に戦国大名と呼ばれる新たな勢力が出現する契機となった戦いでもある。
この地に応仁の乱勃発地の碑が建つのは、応仁の乱の前哨戦となった御霊合戦が文正2年(1467)1月18日から19日の朝にかけて、この上御霊神社で行われたためである。なお、御霊合戦が終息した後の3月5日に応仁への改元が行われている。そのため合戦が行われたのは応仁元年ではなく文正2年が正しい。なお、応仁から文明そして長享までの改元の理由は何れも戦乱あるいは疫病流行によるものであった。
御霊合戦の発端は、享徳3年(1454)から始まった畠山氏のお家騒動であった。そして、それを助長したのは室町幕府8代将軍足利義政の介入であった。騒動の一方の主役となる畠山義就は、室町幕府管領で河内・紀伊・越中・山城守護であった畠山持国の子供である。ただし義就(義夏)の母が側室であったことから庶子として扱われ、持国の弟であった畠山持富が後継者とされていた。文安5年(1448)持国は、持富を廃し義夏を後継と決めた。この変更に一部の家臣の反対を表明したため、新たに持富の子の弥三郎(政久)を指名するに至った。この後継問題の迷走によって家臣団は弥三郎派と義就派に分裂し、上記の享徳3年には義就派の遊佐氏が弥三郎派の神保氏の屋敷を襲撃する事件を起こしている。当初優勢だったのは義就派であったが、畠山氏の弱体化を狙う細川勝元と山名宗全の介入により弥三郎派が盛り返し同年8月には義就の屋敷を焼き討にしている。この事件により義就は京を出て伊賀へ逃れている。
義就と替わって上洛を果たした弥三郎も、後ろ盾であった山名宗全が領国播磨で挙兵した赤松則尚を討つため12月に下向すると、再び河内から上洛してきた義就によって追い落とされている。そして翌享徳4年(1455)3月に持国が死去すると、畠山家を継いだのは義就であった。
康正3年(1457)7月、大和の争乱が起こると義就は将軍の上意と偽って自らの家臣を派遣している。これが義政の怒りに触れて所領没収となった。また同年9月には細川勝元の所領の山城木津にも上意の詐称で攻撃するなど、次第に義政の信頼を失っていった。さらに長禄4年(1460年)6月、紀伊根来寺と紛争を起こした義就は、京都から紀伊へ自らの軍勢を向かわせざるを得ない状況となった。
この軍事的空白に乗じたのが細川勝元であり、弥三郎の弟の政長擁立を画策した。9月に入り、義政は畠山家の家督を義就から政長へ替えることを言い渡している。義就は再び領国河内へ逃れ、嶽山城で政長ら討伐軍を迎え撃つこととなる。寛正4年(1463)4月まで嶽山城での抗戦を続けたが、落城後は、さらに奥の吉野へと落ち延びている。新たな畠山家の当主になった政長は、翌5年(1464)に勝元の後任の管領に選ばれている。そして政長を取り込んだ勝元は、更なる勢力の拡大を果たしている。
畠山氏と同じくお家騒動を繰り返してきたのが斯波氏である。当主を務めてきた義廉も、寛正4年(1463)11月の日野重子死去による大赦に危機感を募らせていた。この大赦によって畠山義就とともに斯波義敏・松王丸父子も赦免されている。義敏は長禄3年(1459)の守護代甲斐常治との対立(長禄合戦)によって将軍足利義政の怒りに触れて罷免されている。実子の松王丸も寛正2年(1461)8月に将軍から当主を廃されている。この2人が義政により復権したこと、さらに義廉の実父である渋川義鏡が政治的に失脚したため、義政から見放されることを強く恐れた。そのため家臣の朝倉孝景と共に山名宗全ら諸大名との結び付きを強めて行った。文正元年(1466)には宗全の養女と婚約を行っている。この斯波義廉の心配は見事的中する。文正元年(1466)7月23日、幕府の裁定により義廉の出仕は停止させられる。さらに追い討ちをかけるように同年8月25日、将軍は3ヶ国の守護返還を義廉に命じている。
この義政による強引な当主変更について、諸大名が反発する。山名宗全と細川勝元が結託し、同年9月6日に文正の政変を起こしている。これにより足利義政の側近伊勢貞親、季瓊真蘂等は追放される。この政変後、実権を細川勝元に握られてしまった宗全と義廉は畠山義就にも挙兵を促す。義就は8月25日に大和壺坂寺に出頭、9月に河内へ進出し政長方の諸城を落として回る。10月には大和で義就方の越智家栄、古市胤栄等が挙兵するに至る。そして12月25日には、宗全の要請を受けた義就が河内から上洛し、同月27日には千本釈迦堂に入っている。
文正2年(1467)1月2日に行われる予定であった義政の政長邸訪問は急遽中止となり、代わりに義就との対面が行われる。将軍・義政は宗全派の勢力拡大により、畠山家当主は再び義就に替えている。さらに同6日には政長に屋敷を義就に明け渡す命令が発せられ、8日には管領職を罷免している。これを通じて宗全を中心とする山名派は、主流派として幕府の権力を握るに至った。
事態を打開すべく、将軍は1月17日に勝元に政長援助の中止を命じている。勝元も宗全による義就援助の中止を条件に承諾している。義政が山名派に取り込まれた上で勝元の支援失ったと感じた政長は、翌18日早朝に自らの屋敷に火をかけ、北上して上御霊神社に陣を張った。そして同日夕刻、畠山義就が上御霊神社へ進軍して合戦が始まった。
上御霊神社の西は今出川(中川)が流れ、南は相国寺の藪大堀が引かれていたため、攻め口は東と北に限られていたようだ。この守りやすい立地を考え、畠山政長は上御霊神社に陣取ったのであろう。しかし翌19日早朝までは持ちこたえたものの、将軍の命令により支援する大名が現われず、遂には拝殿に放火して勝元の屋敷へ逃げ延びるしかなかった。このおうにして僅か1日で合戦は終息し、畠山義就が勝利を収めた。合戦前夜、将軍による調停が功を奏し大乱への拡大は一先ず避けられた。しかし山名、細川の両派は京都への軍勢召集を止めなかったため、同年5月26日の上京の戦いへと繋がって行くことになった。
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