上御霊神社
上御霊神社(かみごりょうじんじゃ) 2010年1月17日訪問
閑臥庵の山門前を過ぎてすぐに鞍馬口通を南に折れる。閑臥庵を含めてこの辺りは北区新御霊口町で、寺町通より西側の鞍馬口通の両側町である。複雑なことに、この北区新御霊口町の南東、西園寺の寺町通を挟んで西側には上京区新御霊口町がある。その西側の上京区上御霊馬場町は上御霊前通の両側町、そして現在の上御霊神社の境内を含む上京区上御霊竪町、さらに西側の上京区上御霊前町と上京区上御霊中町、北区上御霊上江町と御霊を冠する町名が複雑に入り組んでいる。この内、新御霊口町と上御霊上江町の2つの町が北区に属し、それ以外の5町が上京区に組み込まれている。 新御霊口町の住宅街を南に下っていくと道幅のある上御霊前通に出る。この辺りは上御霊馬場町とあるが、上御霊神社にあったとされている馬場の名残とされている。上御霊前通の幅員が広い部分は上御霊馬場町から上御霊神社の上御霊竪町にかけてだけであるので、この通りが神社の馬場であったということも分かる。
上御霊前通を西に進むと上御霊神社の南門が現われる。祭神は八所御霊、旧社格は府社。上御霊神社の現在の法人名は御霊神社である。上御霊という社名は、中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町にある下御霊神社に対するものである。創建の歴史は明らかではないが、出雲氏の氏寺として平安遷都前からあったと伝わる上出雲寺の鎮守社とされている。今は既に失われた出雲寺については、出雲路鞍馬口の項で少し触れている。「延喜式」七寺の内の御霊寺であり、「今昔物語」巻20に以下のように記されている。
今昔、上津出雲寺ト云フ寺有リ。建立ヨリ後、年シ久ク成テ、堂倒レ傾テ、殊ニ修理ヲ加ル人尤シ。
上出雲寺は天皇や上皇の死後に誦経を行っていることから御霊を鎮める役割を担っていた寺院であった。しかし平安末期にはかなり荒廃するようになったようだ。やがて出雲寺自体が上御霊社の神宮寺と化し一観音堂として残ったことが「山州名跡志」に記されている。つまり上出雲寺とその鎮守社であった上御霊神社は、その立場を入れ替えたことで残ったのである。
「日本歴史地名大系27 京都市の地名」(平凡社 1979年刊)の上御霊神社の項には、「山城名勝志」所引の「出雲寺流記」に平安遷都の折、大和国宇智郡より遷座したと記されている。「山城名勝志」(新修 京都叢書 第7巻 山城名勝志 乾(光彩社 1968年刊))を探したが、そのような記述を確認できなかったので、ここでは孫引きに留めておく。宇智にあった頃の祭神は井上内親王とされている。
井上内親王とは第45代聖武天皇の第1皇女であり、第49代光仁天皇の皇后となった人物である。宝亀3年(772)光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、実子の他戸親王も皇太子を廃さるという事件があった。さらに翌4年(773)には光仁天皇の同母姉である難波内親王が亡くなられると、またも呪詛の嫌疑が掛けられる。これにより他戸親王と共に庶人に落とされ大和国宇智郡の没官の邸で幽閉される。そして同6年(775)4月25日あるいは27日、宇智郡の幽閉先で他戸親王と共に薨去する。同日に2人が一度に亡くなったため、暗殺説も残されている。井上内親王と他戸親王の死は、天武天皇の皇統が完全に絶えたことであり、これより天智天皇、光仁天皇そして桓武天皇へと続く皇統に替わる。二人の死後、藤原蔵下麻呂の急死や天変地異が続き、祟りを恐れた光仁天皇は宝亀7年(776)に秋篠寺建立の勅願を発している。
他戸親王が廃された後に皇太子となったのは、百済系渡来人氏族の出身である高野新笠を母とする山部王であった。生母の出自が低かったため、立太子は予想されていなかったが、藤原百川等による擁立があったとされている。そして父である光仁天皇より譲位され桓武天皇に即位したのは天応元年(781)であった。立太子に尽力した藤原百川は、既に宝亀10年(779)に没していたので、その即位を見ることはなかった。天皇は自らが即位した翌日に同母弟の早良親王を皇太子と定め、11日後に即位の詔を宣している。
延暦3年(784)、桓武天皇は長岡京造営に着手する。しかし翌4年(785)9月23日の夜、造営の実質的な責任者である藤原種継が矢で射られ、翌日死去するという事件が発生する。暗殺犯として先ず大伴竹良が捕縛され、取調べにより大伴継人・佐伯高成ら十数名が関与していたことが判明する。さらに首謀者として、事件直前の8月28日に死去した大伴家持の名前も出るに至った。五百枝王は伊予国への流罪、大伴家持は官位剥奪、大伴継人、大伴竹良は斬首に処せられる。
事件はこれに留まらず、桓武天皇の皇太弟であった早良親王も関わっていたという嫌疑が生じ、親王は長岡京の乙訓寺に幽閉される。親王は無実を訴え絶食したため、淡路国に配流される途中の河内国高瀬橋付近(現在の大阪府守口市高瀬神社付近)で憤死する。 事件の終結後、安殿皇太子(後の平城天皇)の発病、桓武天皇妃の藤原旅子、藤原乙牟漏そして坂上又子の病死、さらに桓武天皇と早良親王の生母である高野新笠の病死という不幸が続く。さらに疫病の流行や洪水なども生じ、世間では早良親王の祟りと噂されるようになる。延暦19年(800)早良親王は崇道天皇と追称され現在の五條市霊安寺町に霊安寺が建立される。
上御霊神社の社記については不明な点も多いが、桓武天皇の身辺で頻発する不幸によって、御霊すなわち政争に巻き込まれ非業の死を遂げた人々の霊を祀る神社として注目されるようになったと考えられている。京都府神社庁の公式HPに掲載されている上御霊神社の記述によると、「桓武天皇の御宇延暦13年5月崇道天皇の神霊を現今の社地に祀り給ひしを始めとす。」とあるので、奈良に霊安寺が建立されるより、さらに延暦13年(794)10月22日の平安京遷都よりも早く、この地に社が築かれたこととなる。
時代は下り貞観5年(863)、都に疫病が流行ったため神泉苑で御霊会が行われている。「三代実録」貞観5年5月20日の条に下記のように記されている。
廿日壬午。於二神泉苑一修二御霊会一。(中略)
所謂御霊者。崇道天皇(早良)。伊予親王。藤原夫人(吉子)。及観察使橘逸勢。文室宮田麻呂等是也。並坐レ事被レ誅。冤魂成レ厲。近代以来。疫病繁発。死亡甚衆。天下以為。此災御霊之所レ生也。
上記の京都府神社庁の作成した上御霊神社の頁では、本殿八座を崇道天皇、井上皇太后、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麿)、火雷神(以上六所ノ荒魂)、吉備大臣(吉備真備)としている。これに対して「京都・山城 寺院神社大事典」(平凡社 1997年刊)では「三代実録」の記述の内、「観察使橘逸勢」を観察使であった藤原仲成と橘逸勢に分け、崇道天皇、伊予親王、藤原吉子、藤原仲成、橘逸勢そして文室宮田麻呂の六神に井上内親王か菅原道真、吉備大臣、藤原広嗣、他戸親王の内の二柱を加えるなど諸説があって定めがたいとしている。
平安時代から鎌倉時代にかけては神社として独立した姿で史料に現われることがなく、御霊堂・上出雲寺という表現が残されている。この御霊堂が上御霊神社のことと推測されている。つまり多くの場合は上出雲寺のみが史料に記されていた。しかし中世後期に入ると上出雲寺の衰退もあって神社の方が史料に現われるようになってくる。至徳元年(1384)9月21日に御霊神に正一位が授けられている。
応仁元年(1467)1月18日に上御霊神社のある御霊の森に陣取った管領畠山政長が畠山義就と戦う御霊合戦が発生する。これが応仁の乱の開始とされている。この戦いで政長は拝殿に放火し細川勝元の屋敷へ逃げ込んでいる。文明10年(1478)12月21日夜にも再び炎上している。この後足利氏によって再建されている。
現在の社殿は宝暦5年(1755)禁裏の内侍所を賜り造営したものとされている。これは京都御所の守護神として皇室の尊信が篤かったためであり、中世以来、神殿の改築には内裏賢所を賜るのが例とされてきた。また毎年5月18日に行われる御霊祭に用いる神輿は後陽成・後西両天皇の寄進といわれ、明治維新までは神輿が今出川御門を通る時には、天皇は朔平門内より拝されたといわれている。また所蔵する指鉾十五基は、いずれも歴代天皇の寄進によるものだが、この内永仁2年(1294)の伏見天皇寄進の太刀鉾が最も古い。このように皇室の上御霊神社に対する崇敬は古くから続いてきた。現在の本殿も享保18年(1733)寄進の旧賢所御殿を復元し、昭和45年(1970)に再建されている。桧皮葺入母屋造りで、正面に一間の唐破風の向拝を付し、上記の祭神八所の御霊と宮中に祀られていた三社明神と和光明神を合祀している。
絵馬舎には皆川淇園の筆とされる咸原図や安政年間に奉納された鴨川浚砂持ち図、小林雪山筆の騎上武者図等の絵馬がかけられている。
上御霊神社の境内には、神明神社、稲荷神社、厳島神社、花御所八幡宮、大舞神社、天満宮社、多度神社、貴船神社、粟島神社、白髪神社、長宮三十社など多くの摂社末社がある。このうち花御所八幡宮は、明治維新までは愛宕郡小山村にあった五所八幡宮を移したものと謂われている。天明7年(1787)秋に刊行された拾遺都名所図会によれば、五所八幡宮は閑臥庵の東北に位置していた。図会は下記のように記している。
五所八幡宮〔同街山口間臥庵の東にあり。祭る所は筑前大分、肥前千栗、肥後藤崎、薩摩新田、大隅正八幡、已上これを五所の別宮と号し、遠境なるゆへ、後柏原天皇勅して此地に遷し給ふ。神祇拾遺に見へたり。近年足利家の花の御所に效て御所八幡とも称す。社内に禅刹あり、絶海禅師の開基にして東寓寺といふ〕
「京都坊目誌」(「新修京都叢書第十四巻 京都坊目誌 上京 乾」(光彩社 1968年刊))の五所八幡宮の条では、上記五所の謂れを述べた後、神祇拾遺より下記のように説明している。
当時社殿壮麗なり。維新後。荒廃に及ぶ。其後上御霊社内に遷す。明治二十年十二月丹後国加佐郡由良村熊野神社に合併し。由良神社と改称す。
つまり維新後に荒廃していた五所八幡宮を一度は上御霊神社に移したものの明治20年(1887)丹後国加佐郡由良村すなわち京都府宮津市由良にある熊野神社に遷座し由良神社と称するようにしたと述べている。現在も宮津市由良には由良神社がある。さらに「京都坊目誌」は御霊神社の条で「花御所八幡宮。元小山にありしを移す。按るに五所八幡は丹後由良に合祀す。花御所八幡は当社に遷せしなり。」と説明している。つまり宮津市由良に合祀されたのは、後柏原天皇が勧請した五所八幡であり、現在の上御霊神社にあるのは足利幕府の花の御所にあった八幡宮を移したものであると碓井小三郎は述べている。それならば西門の脇に建つ花御所八幡宮の石碑は正しいこととなる。
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