薩摩藩戦死者の墓 その4
薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか)その4 2010年1月17日訪問
薩摩藩戦死者の墓 その3では、薩摩藩戦死者の墓に祀られている人々の中で、甲子戦争戦死者の行動と靖国神社への合祀について書いてきた。この項ではもうひとつの戦いである鳥羽伏見の戦いでの戦死者について記す。
上立売通北側の林光院墓地にある薩摩藩戦死者の墓の正面は南である。墓に記された「甲子役 戊辰役 薩軍戦没者墓」も南を向いている。南側正面の墓石下の基壇部分に3枚の陶板が埋められていることは既に薩摩藩戦死者の墓で記述した通りである。3枚の内正面の1枚が甲子戦争で亡くなった7名、すなわち野村勘兵衛、野村藤七郎、松下弥七郎、赤井兵之助、宮内彦二、森喜藤太、濱田藤太郎である。彼等が靖国神社に合祀されたのは、墓碑が整備された年である大正4年(1915)4月の第39回合祀祭のことであった。この墓碑はその合祀を記念したものであったのかもしれない。
元治元年甲子七月十九日公卿御門御警護戦死
外城隊隊長 野村勘兵衛 盛芳 丗五歳
仝戦兵 野村藤七郎 盛次 廿 歳
仝戦兵 松下弥七郎 定次 廿 歳
仝戦兵 赤井兵之助 直荘 廿二歳
仝年仝月仝日未明中立売ニテ戦死
斥候役 宮内 彦二 維寧 廿六歳
大正四年乙卯四月十三日靖国神社江合祀セラレシ諸士
元治元年甲子八月九日死
森 喜藤太 廿七歳
仝年七月三十日死
濱田藤太郎
南側3枚の陶板の左右には、鳥羽伏見の戦いで戦死した薩摩兵の氏名が記述されている。ただし墓地内には立ち入ることができなく、かつ陶板前には立入りを禁ずる鎖などがあるため全てを読み取ることが困難である。正面右側は以下のように読める。
慶應四年戊辰正月伏見奉行所ニテ戦死
一番大砲隊戦兵 大山源右衛門 廿一歳
一番隊小頭見習 伊集院金次郎 丗二歳
仝 八田 幸輔 廿六歳
二番隊小頭 西 藤次郎 廿五歳
仝 戦兵 平岡彦九郎 廿五歳
仝 兵糧役 加治木清之丞 丗五歳
三番隊人馬方 堀 矢之助 廿七歳
四番隊戦兵 山内 雄助 廿一歳
外城四番隊戦兵 平原平八郎 丗二歳
これらは鳥羽伏見の戦いの初日に、幕府軍が守る伏見奉行所を攻撃した側から出た戦死者である。同じく正面左側の陶板には下記のように記されている。
慶應四年戊辰正月三日伏見奉行所ニテ戦死
外城四番隊戦兵 松木嘉右衛門 廿八歳
中村源吾従卒 月野徳次郎 丗一歳
二番隊夫卒 休八
仝日鳥羽街道ニテ戦死
一番隊小頭見習 山田孫一郎 廿七歳
外城一番隊戦兵 入田新左衛門 廿二歳
仝日竹田街道ニテ戦死
外城一番隊戦兵 中原 八郎 丗 歳
兵具隊旗手 篠嵜 勘七 丗 歳
仝年正月四日伏見三雲橋ニテ戦死
三番隊戦兵 宅間惣左衛門 廿二歳
かろうじて読めるのはここまでである。恐らく鳥羽伏見の戦いの戦死者は右側の陶板から始まり、中央の甲子戦争の陶板を越えて、左側の陶板につながるのであろう。いずれにしても南に面したこの2枚の陶板が、薩摩藩にとって戊辰戦争最初の犠牲者達である。この後、陶板は墓の基壇の三面に恐らく最大でも3枚ずつ配置されていると想像されるが、確認する術がない。
少し調べている内に、自然堂~幕末史蹟訪問~というブログに薩摩藩士墓所を2007年に訪問した方が居られることが分かりました。それを参考に考えると、陶板は11枚あるように思われる。最初に戦死した人々の年月日と場所が記述されているので、慶応4年から始まる所が11ある。これが陶板の始まりであり、同じ陶板内は「仝日」や「仝年正月六日」という表現になっている。自然堂さんは南側正面の右から左に向かって書き始めているが、その後の順番が不明である。恐らく基壇の周囲を順番に書き取って行ったと思われるが、時系列的に見て行くと前後逆になる箇所が見受けられる。陶板の配置には意図した順番があったのであろう。 また自然堂さんが正確に読み取ることができなかったと思われる箇所がいくつかあるように思われる。そのため、ここでは自然堂さんの記述は「誰がこの墓所に祀られていたか」の資料とさせていただき、表記に関しては明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊 以降、全殉難者名鑑とする)を参考に書いて行く。
正面右 1月3日伏見奉行所での戦闘で戦死
大山源右衛門 行安 源七郎の長男。大砲第一隊。
明治元年一月三日夜伏見御香宮下で戦死。
二十三歳。京都・相国寺に墓。
伊集院金次郎 正雄 小銃第一隊小頭見習。
明治元年一月三日伏見で戦死。
三十二歳。京都市上京区・相国寺に墓。靖国。
八田 幸輔 知古 喜左衛門の二男。小銃第一隊小頭見習。
明治元年一月三日伏見で傷、十七日死。
二十六歳。京都・相国寺に墓。靖国。
西 藤次郎 長孝 小銃第二隊小頭。
明治元年一月三日伏見奉行所で戦死。
二十五歳。靖国。
平岡彦九郎 之綱 小銃第二隊。万之助の弟。
明治元年一月三日伏見御香宮下で戦死。
二十五歳。京都・相国寺に墓。靖国。
加治木清之丞 兼文 甚右衛門の長男。小銃第二隊兵糧役。
明治元年一月三日伏見で戦死。
三十五歳。京都・相国寺に墓。靖国。
堀 弥之助 金隆 善太郎の父。小銃第二隊人馬方。
明治元年一月三日伏見で戦死。
二十七歳。京都・相国寺に墓。靖国。
山田 雄助 弘道 安藤直左衛門の子。小銃第四隊。
明治元年一月三日伏見で傷、三月四日死。
二十一歳。京都・相国寺に墓。靖国。
平原平八郎 定正 出水郷士。竜助の養子。外城第四隊。
明治元年一月三日伏見傷、二十六日死。
三十二歳。京都・相国寺に墓。靖国。
正面左 1月3日伏見あるいは竹田での戦闘で戦死
松木嘉右衛門 重秀 出水郷士。仲之進の養子。外城第四隊。
明治元年一月三日伏見で傷、二月一日死。
二十八歳。京都・相国寺に墓。靖国。
月野徳次郎 中村八郎左衛門家来。小銃第二隊夫卒。
明治元年一月三日伏見で戦死。
三十一歳。京都・相国寺に墓。靖国。
休 八 小銃第二隊夫卒。明治元年一月三日伏見で戦死。
京都・相国寺に墓。靖国。
山田孫一郎 有清 松次郎の父。小銃第一隊小頭見習。
明治元年一月三日伏見で傷、十日死。
二十七歳。京都・相国寺に墓。靖国。
八田新左衛門 親賀 高田郷士。七郎左衛門の子。外城第一隊。
明治元年一月三日鳥羽街道で傷、三月三日死。
二十二歳。京都・相国寺に墓。靖国。
中原 八郎 景全 高岡郷士七左衛門の子。外城第一隊。
明治元年一月三日夜伏見竹田街道で戦死。
三十歳。京都・相国寺に墓。靖国。
篠崎 勘七 知明 二見浦之助の弟。兵具第二隊。
明治元年一月三日伏見竹田街道で戦死。
三十歳。京都・相国寺に墓。靖国。
宅間総左衛門 道治 坂元源五左衛門の子。小銃第二隊。
明治元年一月三日伏見三雲橋で戦死。
二十二歳。京都・相国寺に墓。靖国。
1月4日伏見あるいは鳥羽街道での戦闘で戦死
白尾孫兵衛 幸政 七之助の義父。小銃第三隊。
明治元年一月四日伏見三雲橋で戦死。
二十四歳。京都・相国寺に墓。靖国。
堀添清左衛門 篤行 小左衛門の弟。遊撃第一隊。
明治元年一月四日伏見で傷、三月二日死。
二十七歳。京都・相国寺に墓。靖国。
溝口雄四郎 俊粋 十兵衛の四男。一番遊撃隊。
明治元年一月四日鳥羽街道で戦死。
二十歳。京都・相国寺に墓。靖国。
肥後 嘉二 盛徳 甚之丞の弟。小銃第六隊。
明治元年一月四日鳥羽街道で戦死。
二十歳。京都・相国寺に墓。靖国。
前谷宗智 惟則 一兵衛長男。茶道家か。小銃第六隊。
明治元年一月四日鳥羽街道で傷、六日夜死。
十九歳。京都・相国寺に墓。靖国。
平田喜右衛門 正次 嘉右衛門とも。喜次郎の兄。小銃第六隊。
明治元年一月四日鳥羽街道で傷、十七日死。
二十二歳。京都・相国寺に墓。靖国。
関十郎左衛門 長信 十郎の兄。遊撃第一隊。
明治元年一月四日鳥羽街道で戦死。
二十一歳。京都・相国寺に墓。靖国。
川西与十左衛門幸実 佳左衛門の長男。大砲第二隊。
明治元年一月四日鳥羽街道で戦死。
二十一歳。京都・相国寺に墓。靖国。
1月4日鳥羽街道での戦闘で戦死
岩山左平次 直義 勇之助の兄。小銃第五隊。
明治元年一月四日鳥羽街道で戦死。
二十三歳。京都・相国寺に墓。靖国。
毛利強兵衛 元景 英助の父。外城第一隊監軍。
明治元年一月四日鳥羽で傷、二月十四日死。
三十四歳。京都・相国寺に墓。靖国。
橋口彦四郎 兼隆 源右衛門の弟。遊撃第三隊。
明治元年一月四日鳥羽街道で戦死。
三十五歳。京都・相国寺に墓。靖国。
野村清兵衛 盛英 小銃第六隊。
明治元年一月四日鳥羽街道で戦死。
二十一歳。京都・相国寺に墓。靖国。
鮫島十郎兵衛 宗弼 加世田郷士六郎左衛門の長男。外城第二隊。
明治元年一月四日鳥羽街道で戦死。
京都・相国寺に墓。靖国。
藤崎甚四郎 敬直 八郎左衛門の養父。浜田甚八の弟。兵具第二隊。
明治元年一月四日鳥羽街道で戦死。
二十五歳。京都・相国寺に墓。靖国。
竹下平左衛門 種氏 覚一の子。兵具第二隊。
明治元年一月四日鳥羽で傷、十一日死。
二十三歳。京都・相国寺に墓。靖国。
塩田 雄蔵 国幸 郷左衛門の長男。小銃第一隊。
明治元年一月四日鳥羽街道で傷、二月十一日死。
十九歳。京都・相国寺に墓。靖国。
1月5日鳥羽街道あるいは淀での戦闘で戦死
伊東強右衛門 祐啓 強兵衛とも。矢八郎の弟。大砲第二隊。
明治元年一月五日鳥羽街道で戦死。
京都・相国寺に墓。靖国。
中島弥次郎 広庭 健彦の子。大砲第二隊分隊長。
明治元年一月五日鳥羽街道で戦死。
二十三歳。京都・相国寺に墓。靖国。
四本左平次 英風 休左衛門の子。大砲第二隊。
明治元年一月三日鳥羽街道で戦死。
二十三歳。京都・相国寺に墓。靖国。
大場 軍輔 景弘 景広とも。三島善兵衛の従弟。大砲第二隊。
明治元年一月五日鳥羽街道で戦死。
二十九歳。京都・相国寺に墓。靖国。
入佐 助八 兼友 小銃第三隊。
明治元年一月五日鳥羽で戦死。
二十四歳。京都・相国寺に墓。靖国。
福田喜左衛門 政清 喜十郎の兄。小銃第三隊。
明治元年一月五日鳥羽で戦死。
二十歳。京都・相国寺に墓。靖国。
椎原小弥太 国寧 薩英戦争、禁門変に活躍。
明治元年一月小銃五番隊監軍として伏見出陣。
幕軍と折衝後開戦。五日淀で戦死。
二十九歳。京都・相国寺に墓。贈従五位。靖国。
市来勘兵衛 政武 政正とも。一兵衛の嫡子。元治元年禁門で功あり。
明治元年、小銃第六隊監軍として伏見に戦い、
五日鳥羽街道富ノ森で戦死。
三十歳。京都。相国寺に墓。贈従五位。靖国。
1月5日伏見淀川堤、同6日八幡での戦闘で戦死
太郎 大砲第一隊石神万右衛門従卒。
伊集院野田村、農武助の子。
明治元年一月五日淀川堤で戦死。
十五歳。京都・相国寺に墓。靖国。
坂元仲左衛門 安容 仲右衛門とも。伊作郷士仲兵衛の養子。
外城第二隊。明治元年一月五日淀小橋で傷、
三月十二日死。京都・相国寺に墓。靖国。
伊集院与一 兼豊 相良左衛喜の三男。軍賦役。小銃第十二隊長。
明治元年一月五日淀川堤で戦死。
三十七歳。墓は京都・相国寺と鹿児島・隆盛院。
贈従五位。靖国。
平川助左衛門 常行 助七の長男。小銃第十二隊小頭。
明治元年一月五日淀川堤で戦死。
二十六歳。京都・相国寺に墓。靖国。
大河原壮之助 隆近 才吉の子。遊撃第三隊。
明治元年一月五日淀川で戦死。
二十一歳。京都・相国寺に墓。靖国。
竪山卯一郎 利意 郷之丞の二男。遊撃第三隊。
明治元年一月五日伏見淀川堤で傷、六日死。
十九歳。京都・相国寺に墓。靖国。
肥田雄太郎 景直 都城島津久静家来。景正の長男。
安政二年江戸へ出て西郷隆盛に兄事。
文久二年上京。明治元年一月都城一番隊小頭。
同月五日淀川堤で戦死。
二十六歳。京都・相国寺に墓。贈従五位。靖国。
村尾十次郎 将直 島津右門家来。徳蔵の子。私領第二隊。
明治元年一月五日伏見淀川堤で傷、十三日夜死。
二十歳。京都・相国寺に墓。靖国。
有川嘉吉郎 貞直 喜入多門家臣。市郎右衛門の子。私領第二隊。
明治元年一月五日伏見淀川堤で戦死。
二十二歳。京都・相国寺に墓。靖国。
宅万栄之丞 道近 伴助の弟。小銃第三隊。
明治元年一月六日八幡で傷、十六日死。
十九歳。京都・相国寺に墓。靖国。
平川 丈助 常尚 助七の子。小銃第三隊。
明治元年一月六日八幡で傷、二十四日死。
二十四歳。京都・相国寺に墓。靖国。
柳田藤之丞 安則 藤左衛門とも。万右衛門の三男。小銃第四隊。
明治元年一月六日八幡で戦死。
二十五歳。京都・相国寺に墓。靖国。
鎌田 尚円 政厚 与左衛門の子。小銃第八隊。
明治元年一月六日八幡で戦死。
十九歳。京都・相国寺に墓。靖国。
阿多孫次郎 実輝 源七の長男。小銃第九隊。
明治元年一月六日八幡で傷、二十六日死。
十七歳。京都・相国寺に墓。靖国。
赤井 清心 直正 清七郎の弟。小銃第五隊。
明治元年一月六日八幡で戦死。
二十一歳。京都・相国寺に墓。靖国。
1月6日八幡、橋本での戦闘で戦死
田中直次郎 守時 清之丞の義父。遊撃第二隊。
明治元年一月六日八幡で戦死。
二十五歳。京都・相国寺に墓。靖国。
上村戸左衛門 清香 萩原十吉の弟。兵具第二隊。
明治元年一月五日鳥羽で傷、十日死。
二十歳。京都・相国寺に墓。靖国。
浜田才之丞 義秀 島津元丸家来。財部禎輔の弟。第一隊伍長。
明治元年一月六日橋本で戦死。
二十六歳。京都・相国寺に墓。靖国。
江口幸右衛門 盛吉 島津元丸家来。与一郎の弟。私領第一隊。
明治元年一月六日橋本で戦死。
二十三歳。京都・相国寺に墓。靖国。
大阪営中陣没他
野元源左衛門 綱直 喜納次の甥。小銃八番隊。
明治元年一月伏見に戦い、大坂警備中陣没。
二十歳。靖国。
椎原 助二 国澄 助左衛門の二男。小銃十番隊。
明治元年一月伏見で戦、二月二十三日病死。
二十歳。靖国。
東 熊助 長賀 正之進の長男。小銃八番隊。
明治元年一月伏見役後大坂陣営で病死。
十八歳。靖国。
野崎 直助 直義 吉兵衛の四男。小銃八番隊。
明治元年一月鳥羽伏見役後大坂営中で陣没。
十七歳。靖国。
家村彦五郎 往客 彦作の子。臼砲隊玉薬方。
明治元年一月五日伏見淀川筋松原で戦死。
二十八歳。京都・相国寺に墓。靖国。
以上、甲子戦争での7名と鳥羽伏見の戦いでの65名の計72名である。これは昭和39年(1964)に行われた戦死者追悼式典の際に建てられた駒札中の「蛤御門・鳥羽伏見の義戦に身を挺し進んで維新の大業に殉じた薩摩藩士七十二名はここに眠る。」に一致する。恐らく鳥羽伏見の戦いで戦死した65名の大部分は、明治2年(1869)6月29日に行われた第1回合祀祭で合祀された3588柱に含まれていたと思われる。
この他に自然堂さんのブログによると、
指宿五左衛門 慶應三丁卯年十一月二十日死
があるが、これは慶応3年(1867)12月20日に大阪心斎橋通りで会津藩士との斬り合いで闘死したとされる指宿五左衛門 行義 二十八歳のことと思われる。指宿については、示現流東郷財団が運営する示現流兵法所に掲載されている示現流について:門人略歴に記述がある。しかし上記の全殉難者名鑑に掲載されていないので、これ以上のことは分からなかった。鳥羽伏見の戦い直前、幕府軍側8人との斬り合いで命を落としたということなので、あるいは人数外ではあるものの一緒に林光院墓地に弔われたのかもしれない。ちなみに薩摩藩都城隊の6名の斥候が幕府軍と遭遇し銃撃を受けたのが12月21日の夜であった。6名は本隊に戻り報告、その情報を元に本営は大砲隊を派遣している。後になって都城隊の錯誤が判明して東寺へ移された。6名は悲憤慷慨、責任を負って切腹したのが12月26日のことであった、都城六勇士の墓は相国寺ではなく南区唐橋井園町の狐塚墓地内にある。旧都城隊有志によって都城六勇士殉難記命碑が建立されたのが大正13年(1924)のことである。
「薩摩藩戦死者の墓 その4」 の地図
薩摩藩戦死者の墓 その4 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
▼ 相国寺 薩摩藩戦死者墓 | 35.0321 | 135.7641 | |
01 | ▼ 薩摩藩邸跡 | 35.03 | 135.7595 |
02 | ▼ 京都御苑 中立売御門 | 35.025 | 135.7596 |
03 | ▼ 京都御所 宜秋門 | 35.0246 | 135.761 |
04 | ▼ 京都御苑 蛤御門 | 35.0231 | 135.7595 |
05 | ▼ 京都御苑 清水谷家の椋 | 35.0231 | 135.7608 |
06 | ▼ 長州藩士首塚 上善寺 | 35.0381 | 135.7635 |
07 | ▼ 相国寺 禁門変長州藩殉難者墓所 | 35.0329 | 135.7606 |
08 | ▼ 相国寺 林光院 | 35.0316 | 135.7631 |
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