妙覺寺
日蓮宗本山 具足山 妙覺寺(みょうかくじ)2010年1月17日訪問
是より洛中碑の室町小学校の校門より北西の下清蔵口町に向う。この辺りには日蓮宗の寺院がいくつかあるが、その内の妙覺寺を先ず訪れる。
妙覺寺は日蓮宗の本山、山号は具足山で通称北竜華。妙顕寺、立本寺とともに日蓮宗の名刹三具足山の一つ。日像の法孫、竜華院日実が創立。日実は鎌倉時代の日蓮宗の僧で生没年不詳。紀州に生まれ、妙顕寺の大覚に師事。備前及び備中に布教を行う。永和4年(1378)1月18日、弟日成とともに妙顕寺を出て、同年中に四条大宮に妙覺寺を開く。なお寺伝では日像を開山、日実を第4世としている。外護者は日像、日実に帰依していた小野明覚。妙覺寺開創にあたり、備前・備中の妙顕寺末寺の多くが当寺に移ったとされている。
日実の跡を継いだ日成は、不受不施をすすめ、応永20年(1413)6月、同寺門流法式・法華宗異体同心法度を定めている。不受不施義とは、日蓮の教義である法華経を信仰しない者から施しを受けたり、法施などをしないということである。日成の法度は九ヶ条からなり、この不受不施制誠を確立しようとしたものであった。特に謗法社参寺詣の禁止、謗法供養の制禁を説くものである。しかし公武の祈願、寺領・官位などの受用を認めるなど公武除外のものであった点は、桃山時代に住持となった日奥とは異なっている。以後洛中の日蓮宗のなかにあって不受不施を主張する中心的な寺院となった。
寛正7年(1466)2月16日、日住が中心となって洛中法華寺院の不受不施と受不施の和解盟約、寛正の盟約に成立させている。これは前年の寛正6年(1465)1月より始まった延暦寺による本願寺破却事件に影響を受けている。大谷本願寺の蓮如が天台色を一掃し、延暦寺に対する上納金の支払いを拒否したことに端を発し、延暦寺は同年1月8日に本願寺と蓮如を仏敵と認定する。早くも翌9日には西塔の衆徒が大谷本願寺を破却するという暴挙に出ている。3月21日にも再度破却し、蓮如は祖像を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とすることとなった。
洛中の法華寺院達にとって、延暦寺の襲来は他人事ではなかった。何度も過去より被害を受けてきたことから、今回も法華寺院が狙われることが想像できていた。そんな緊張関係の中で本覚寺の住持であった日住が同年10月15日に鹿苑寺参詣の途上の足利義政を待ち伏せ、妙法治世集という書物を手渡している。これに激した延暦寺は日住の本覚寺のみではなく、糾弾の書を洛中の法華諸寺院に送り付け寺院を破却すると脅した。
当時の京の町衆の半数が法華寺院に帰依していたため、山門が予告通りに破却に及んでいたら洛中で想像を絶するような戦いが行われただろう。そのために教義の違いによって反目し合っていた法華寺院も互助しあうようになった訳である。なお、この寛正7年に妙覺寺は本覚寺と合併し寺域を広げている。
文明15年(1483)足利義尚の命で寺地を二条衣棚に移している。現在もこの地に上明覚寺町と下明覚寺町の地名が残る。明応5年(1496)には妙蓮寺との間で宗旨に関しての争いが発生し、幕府が和解させている。この時既に妙覺寺の武装化がかなり進んでいたと考えられる。そして天文5年(1536)7月に天文法華の乱が発生する。
京都では六条本圀寺などの法華寺院を中心に、日蓮宗の信仰が多くの町衆に浸透し強い勢力を誇るようになっていた。天文元年(1532)、本願寺の門徒の入京の噂が広がると日蓮宗徒の町衆は、細川晴元・茨木長隆らの軍勢と手を結んで本願寺寺院に対する焼き討ちを行っている。これが山科本願寺の戦いである。この後、法華衆は京都市中の警衛などの自治権を獲得して地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都での勢力を拡大させていった。
天文5年(1536)2月、延暦寺の僧侶が日蓮宗の一般宗徒に論破されるという松本問答が起こる。延暦寺は日蓮宗が法華宗を名乗るのを止めさせるよう室町幕府に裁定を求めたが、この裁判でも敗れている。同年7月、遂に延暦寺は実力行使に出た。僧兵と宗徒に加え近江の大名・六角定頼の援軍を動員、入京して日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払っている。法華衆徒は洛外へ追放となり以後6年間京に於いて日蓮宗は禁教となる。天文11年(1542)11月14日に京都帰還を許す勅許が下り、天文16年(1547)に延暦寺と日蓮宗との間に和議が成立する。この乱で二条衣棚から追い出された妙覺寺は堺に逃れたが、和議が結ばれた後の天文17年(1548)に再び旧地に戻り、妙覺寺を再建している。
天正10年(1582)6月2日本能寺の変で織田信長が討たれた時、妙覺寺には織田信忠が宿泊していた。そのため明智軍の攻撃を受け一部の塔頭が炎上したとされている。信長が上洛の際の宿舎として妙覺寺をよく利用したのは、妙覺寺が自らの防御のために城塞化していたためである。本能寺の変の知らせを受けた信忠は、儲君である誠仁親王の居宅である二条新御所に移っている。そのため妙覺寺は全焼を免れたのであろう。信忠は親王の安全を確保した上で、二条新御所に篭城しこの地で自害している。この二条新御所は御池之町や二条殿町の残る烏丸御池の西北角にあり、妙覺寺に面していたため移動が容易であった。
妙覺寺が現在の下清蔵口町に移ったのは、天正11年(1583)に羽柴秀吉が行った洛中寺院整理令によるものであった。文禄元年(1592)日典の後を継いだ日奥は不受不施を強力に推進した。同4年(1595)9月12日、秀吉が建立した方広寺の大仏千僧供養出仕の命令を拒否、同月25日の法会に出席せずに寺を出て丹波に隠遁している。しかし慶長4年(1599)徳川家康により大阪城に召され、方広寺供養出仕拒否について改めて詰問を受け、対馬への流罪に処せられている。日奥は同17年(1612)に赦免され、妙覺寺の脇坊円蔵院の住持となり、元和2年(1616)に本坊に移っている。この年の4月17日に徳川家康が死去している。日奥は寛永7年(1630)に妙覺寺で入寂している。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会には妙覺寺の境内が描かれている。そして下記のように記されている。
具足山妙覚寺は新町頭に有、法華宗にして、開基は日実上人なり。楼門の金剛力士は弘法大師の作なり。祖師堂には日蓮日朗日像三師の像を安置す。〔此堂は飛騨の工み造立にして恰好比類なし、諸堂建立の規矩とす〕花芳塔には日蓮自筆の法華経を収む、紫印金の曼荼羅角龍の曼荼羅は共に日蓮の筆にして当寺の什宝なり。
〔此寺いにしへは衣棚二条の南にあり、今妙覚寺町といふ。天正年中秀吉公の命によつて此地にうつす。又当寺に画工狩野古法眼元信其外狩野家数代の墓あり〕
本堂、祖師堂、二重宝塔、花芳堂、楼門、番神社、鬼子母神堂、拝殿、鐘楼などが見えるが、天明8年(1788)に発生した天明の大火で堂舎は悉く焼失している。現在の伽藍はその後の再建による。善明院、玉泉院、実成院が塔頭として残る。
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