百々橋 その4
百々橋(どどばし)その4 2010年1月17日訪問
百々橋 その3では、応仁の乱の火種となった畠山家のお家騒動の続きを中心に、文正の政変直前の対立構造を書いてきた。ここでは政変前後の権力関係の変化から御霊合戦そして応仁の乱の初戦までを書いていく。
文正元年(1466)夏の時点で、第8代将軍・足利義政の幕府内に大きく分けて3つの勢力が存在していた。一つは将軍・義政の幕府権力伸長を目指す側近集団で、伊勢貞親と季瓊真蘂が中核となり、赤松政則と斯波義敏を取り込んでいた。この集団は将軍・義政を中心とした政治体制を目指したため、他の2派の勢力を削減するための方策をとってきた。すなわち守護大名家への積極的な介入を繰り返すことで、内紛によって自らの勢力の衰退を招くにように仕込んできた。さらに次の将軍には義政の弟の義視ではなく実子の義尚に継承させること目指していたので、ともかく現状の義政政治の継続を望んでいた。
この側近集団に最も敵対したのが、山名宗全を中心とする集団であった。山名家を牽制するために、側近集団は嘉吉の乱で滅亡した赤松家の再興を図るために赤松政則を陣営に入れている。この連携に宗全は強く反発し、側近集団を最も敵視していた。宗全が目指す政治体制は、義政を引退させ次の将軍に弟の義視を就かせること、さらには管領に斯波義廉を据え、自らの影響を与えられる傀儡政権の樹立であった。この点からしても側近集団と相いれることは全くなかった。側近集団が支持した斯波義敏と敵対する斯波義廉を次期管領候補として陣営に加えたことで、両者の対立構造は更に明確なものになった。
残る一派は元管領の細川勝元を中心とする集団で、政治的には側近集団と宗全派の中間に位置していた。勝元は宗全の養女を正室に迎え、細川家と山名家の諸守護大名の二大勢力が対立しないような融和策がとられてきた。
これら3つの勢力の拮抗を破壊する事件、すなわち文正の政変が起こる。先ず、文正元年(1466)7月23日、側近集団の要請により将軍・義政は、斯波家の家督を義廉から義敏に交替させている。この仕打ちに山名宗全、一色義直、土岐成頼等は義廉支持の動きを見せている。さらに同月30日には大内政弘にも赦免を与えている。正弘は寛正6年(1465)10月、伊予の河野通春討伐に逆らい通春を支援したことが元で討伐命令が出されていた。つまり幕府の命令に反して反逆者を支援した人物である。これが1年を経ずして赦されたことになる。この処遇に不服を表明するように、細川勝元は隠居の願いを将軍に申し出ている。大内家と細川家は日明貿易を巡って競い争った経緯がある。そのため、上記のように細川勝元と敵対する伊予の河野通春をわざわざ支援を行っている。側近集団は大内政弘を赦免することで、勝元に対しても宣戦布告している。さらに寛正4年(1463)の大赦で斯波義敏とともに畠山義就も赦免されている。これら一連の動きは勝元や宗全等の守護大名へ対抗するための勢力を囲い込み作戦である。
文正元年(1466)8月25日は、将軍・義政が斯波義敏に越前・尾張・遠江の守護を与えた日であった。その同じ日に畠山義就は兵を挙げている。呉座勇一氏著の「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」(中央公論新社 2016年刊)は、この義就の行動は山名宗全の挙兵に呼応するものではなく、伊勢貞親、季瓊真蘂等との連携を視野に入れた行動と見ている。政変の結果から見る限り、貞親等が採った山名宗全と細川勝元の両家を敵に回す行動は、余りに無謀なものに感じる。しかし赤松政則、斯波義敏、大内政弘そして畠山義就という反山名、反細川の武力を集結すれば十分に対抗できると踏んでいたのであろう。
同年9月5日夜、足利義視が急遽細川勝元邸に入っている。伊勢貞親の讒言により、義政に誅殺されると義視は訴えった。翌6日に勝元、宗全等は将軍・義政に抗議を申し入れ、伊勢貞親、季瓊真蘂を追放させることに成功する。軍を動かすこともなく、政権側の人々を排除することに成功したので文正の政変と呼ばれた。貞親等にとっての最大の誤算は、大内政弘や畠山義就の兵力を京に招き入れる前に。細川勝元と山名宗全に手を組まれてしまったことにあるだろう。細川派と山名派が協調するには時間を要すると見ていたのであろうか。
文正の政変により側近を失った義政は、自らの力だけでは政治を執り行うこともできなくなった。これに代わったのが勝元邸に入った足利義視であった。義視は事実上の将軍として政務を執り、勝元と宗全が大名頭として義視を支える暫定政権が出現した。
しかし同月11日、義政が義視に対して危害を与えないことを誓ったため、勝元は警護を付けて義視を自邸に戻している。宗全と勝元は貞親を含む伊勢一族を政治の場から追い出しに成功した。そして勝元は、一連の反山名、反細川政策の首謀者を貞親一人に押し付ける形をとったことで、義政の立場を損なわないように配慮した。これにより勝元等の諸大名は、再び義政に忠誠を誓うという確認儀式を通じて、義政は政治に再び戻ることができた。勿論、これは細川勝元が周旋したものであり、将軍・義政は大きな借りを負うこととなった。義政を引退に追い込み義視を将軍にすることを望んだ宗全にとっては、完全に思惑外れの幕引きであった。そして三極の勢力構図の一角が崩れ去ったことにより、勝元派と宗全派の衝突は時間の問題となった。
政変前の8月25日に挙兵した畠山義就は河内の金胎寺城に入り、9月3日には烏帽子形城を攻め落としている。紛争の長期化を恐れた細川勝元は、筒井順永に対して義就軍との交戦を禁じ河内情勢の安定化を望んだ。政変が失敗に終わったため義就軍も上洛を諦め、大和での勢力拡大に方針を変更したようである。勝元は義就軍鎮圧のために、畠山政長、京極持清、山名教豊に出陣を命じている。大和における政長方は、筒井順永、成身院光宣、箸尾宗信と布施、高田、多武峰などであった。これに対して義就方は越智家栄、吐田、曽我。高田、小泉、高山、万歳、岡などであった。
同年10月16日畠山義就は越智家栄と共に布施城を攻め、落城させている。高田も高田城から逃げ出したため、城は曽我が占領している。敗れた布施と高田そして筒井順永が箸尾城に入ることとなった。この日の戦闘で戦果を挙げた畠山義就は河内に戻っていった。11月に入り越智家栄と筒井順永の間で和睦が成立している。政変の鎮静化を望む勝元は義就を再討伐して戦火を拡大する必要性を感じておらず、義就も京都での政権争いに乗じた戦であったため、世の中が平静に戻れば軍事活動の継続が困難になることが分かっていた。
このようにして文正元年(1466)の政変後の混乱は、勝元によって解消されていったように見えた。政変により、一時は義視が将軍政務を担ったものの、数日後には義政を将軍の座に戻した勝元の政治手腕を見せられた宗全にとって、この時点で今後の採るべき方策が決まったのではないかと思われる。
呉座勇一氏は「応仁の乱」で、山名宗全が畠山義就との連携を始めたのを文正の政変以降と考えている。その根拠として義就を陣営に迎えることは畠山政長を支持している細川勝元に対して明らかな敵対行動をとることになるためである。少なくとも政変前夜までは勝元と宗全は、お互いに手を組むことができる関係にあった。そのため文正元年(1466)8月の義就の行動を山名宗全と斯波義廉に呼応したものではなく、側近集団の伊勢貞親の勧誘によるものと見ている。
このようにして、政変後の混乱が収拾すると、伊勢貞親に誘われていた赤松政則、斯波義敏の反山名派は細川陣営に、そして畠山政長の居る細川派に反目する畠山義就と元から細川家と紛争関係にあった大内政弘は山名陣営に入り、東西の対立構造が明確になった。12月25日には、宗全の要請を受けた義就が河内から上洛し、同月27日には千本釈迦堂に入っている。これが御霊合戦前夜の状況である。
あくる文正2年(1467)1月2日、将軍・足利義政は畠山政長邸を訪問する予定であったが急遽中止となった。代わりに義就との対面により、畠山家当主は再び義就に替えられている。同6日には政長に屋敷を義就に明け渡す命令が発せられ、8日には管領職を罷免している。そして後任の管領には山名派の斯波義廉が就任している。これを通じて宗全を中心とする山名派は、主流派として幕府の権力を握るに至った。義政による畠山家当主の変更は、義就の上洛によって山名派の軍事力が細川派を上回ったと考えた結果と呉座氏は見ている。同月15日、畠山政長、細川勝元、京極持清、赤松政則等は軍勢を率いて将軍御所に押し寄せ義政から義就討伐命令を引き出そうとしたが、事前に細川派の動きを察知した山名派は山名宗全、斯波義廉、畠山義就が警備の名目で御所を占拠した。義政確保に失敗した勝元は、弟の足利義視擁立を計画した。しかしこれも宗全に見破られ、義視等の足利一族を将軍御所に移している。このようにして、宗全等による政権奪取はほぼ成功した。
事態を打開すべく、将軍は1月17日に勝元に政長援助の中止を命じている。勝元も宗全による義就援助の中止を条件に承諾している。義政が山名派に取り込まれた上、勝元の支援を失ったと思い込んだ政長は、翌18日早朝に自らの屋敷に火をかけ、北上して上御霊神社に陣を張った。これに対して、宗全も午後2時頃に後土御門天皇・後花園上皇らを内裏から花の御所へ避難させている。そして午後4時頃に義就が上御霊神社へ進軍して合戦が始まった。政長は義就方と戦い、翌19日の午前4時頃まで持ちこたえたものの、孤立無援な状況は変わらなかったため、上御霊神社の拝殿に放火して細川勝元の屋敷へ逃げ延びた。
元々、畠山政長は軍事力を以って畠山義就に打ち勝つことは困難な状況にあった。この御霊合戦の先にも後にも、両者の戦闘は常に義就が勝利を収めているので、両軍の軍事力にはかなりの差があったようだ。その上、御霊合戦にあって、両者への助太刀を行わないように、将軍・義政が命じたのにも関わらず、山名宗全と斯波義廉は義就を支援している。援軍の朝倉孝景が戦場に到着した時には、既に義就が政長を打ち破っており、孝景は敗走する政長を追撃してしまった。
この両者に戦いを任せておけば、必ず義就軍が勝つはずであったものを余計な手助けをしたことによって細川勝元を刺激してしまったと、呉座氏は指摘している。つまり勝元は将軍との約定を守り両者による決着に任せたのに対して、宗全は明らかに援助してしまった。他者から見れば、勝元は友軍を見捨てたこととなる。これは東軍の大将としては受け入れ難い世間からの評価であろう。義就軍と政長軍だけの戦いで政長が敗退したのなら、勝元としてもその結果を受け入れざるを得ないが、約定を破った助太刀があったならば、そうはいかない。このようにして、次第に東西両軍の対決は避けられない状況に陥っていった。
応仁の乱の前哨戦となる御霊合戦の戦局が拡大しなかったのは、足利義政による諸大名への調停活動があった。ただし戦闘は避けられたものの、細川、山名の両派は京都への軍勢召集を続け、同年5月に勝元が山名派の領国に与党の軍勢を派遣し、同月26日の上京の戦いへとつがっていった。
既に中昔京師地図によって両軍の本陣を見てきたが、改めてここで確認しておく。畠山政長を支援する細川派は勝元邸と花の御所を中心とした京都北部から東側を占めたことにより東軍と呼ばれた。一方、畠山義就の後ろ盾となった山名派は京都西部を流れる堀川西岸に建てられた宗全の屋敷と京都中央にある斯波義廉の屋敷を拠点に西部と中央を固めたことにより西軍となった。西軍が陣を敷いた場所が現在の西陣の地名となったのは有名な話しである。
文正2年(1467)5月26日、東軍の武田信賢は夜明け前に小川西岸の実相院を、畠山政長の側近成身院光宣は東岸の正実坊を占拠している。花の御所の西隣には西軍の一色義直の屋敷があり、武田軍は夜明け頃に一色邸を奇襲、義直は山名邸へ逃げ込むしかなかった。この緒戦の勝利により東軍は将軍・足利義政を確保し、西軍討伐の大義名分を得ることとなった。山名軍は実相院・正実坊の奪還を試みたが、東軍の反撃に遭い、山名邸付近までの退却を余儀なくされた。一色義直の屋敷は花の御所の四足門の向かいにあったとされているので、今出川通から上立売通までの間の室町通西側に存在していたのであろう。また実相院・正実坊の実相院は、岩倉の実相院門跡の旧地である。白峯神宮の北側に実相院町の町名が残ることから、この地に存在していたことが分かる。中昔京師地図でも飛鳥井町の飛鳥井殿と並んで実相寺殿と記されている。
東軍による一色邸攻略に続いて、中央の一条大宮で市街戦が行われた。細川勝元の同族の備中守護細川勝久の屋敷が堀川西岸にあり、西軍の勢力圏にあり孤立していた。西軍はこの邸宅を襲撃した。攻撃側は斯波義廉が家臣の朝倉孝景と甲斐敏光を引き連れて勝久邸へ向かった。対する東軍は勝久の救援に京極持清が出動、一条通りを西進して斯波軍に攻めかかったが、朝倉孝景の反撃に遭い敗走した。京極軍の敗走後に赤松政則は一条通りから南に下がった正親町通りを進み迂回して斯波軍と交戦、斯波軍は長期戦で疲労していたため退却、屋敷で抵抗していた勝久は屋敷を焼いて脱出、同族の阿波守護細川成之の屋敷へ逃れた。
5月26日午前4時から始まった戦闘は、翌日の27日午後6時まで行われた。両軍共に疲弊して戦線は膠着、28日に義政の停戦命令が出され両軍は戦闘を止めている。東軍は花の御所を押さえ、西軍は突出していた勝久の屋敷跡を占拠しただけに終わった。明確な勝敗はつかなかったものの、東軍が優位に立った。さらに6月3日には義政が勝元に将軍家の旗を与え、官軍と認めたことにより東軍の優位は一層際立った。
百々橋でも上記の5月26日に戦闘が行われたようだ。細川勝元は三宅、吹田、茨木、芥川氏など摂津の武将を布陣させ、山名方の平賀氏を迎え撃ったというのは、下記の「応仁記 2巻」の記述によるものである。
百百ノ透ラハ三宅 吹田 茨木 芥川等ノ諸侍ニ仰せテ態成寺ヲ南へ平賀カ所ヲせメヨト也
この応仁の乱の初戦において、百々橋から南一条戻り橋付近までが主戦場となり付近一帯が戦火で焼失したとされている。
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