文書と写真・地図による「記憶」の再現

持明院仙洞御所跡



持明院仙洞御所跡(じみょういんせんとうごしょあと)2010年1月17日訪問

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持明院仙洞御所跡

 光照院門跡の山門右脇に持明院仙洞御所跡の石碑が建つ。後伏見上皇の皇女・進子内親王が泉涌寺の無人如導によって落飾し、自本覚公尼となったのは、延文元年(1356)のこととされている。この時に室町一条北に光明院が創建されたと考えられている。その後、応仁の乱によって光明院が焼失すると、文明9年(1477)頃に後土御門天皇から安楽小路に寺地を賜わっている。光明院の開山となった自本覚公尼の父である後伏見天皇が持明院統であったことから、この所縁のある土地を賜ったのであろう。
 もともと持明院は藤原基頼の邸宅であった。基頼は平安時代後期の公家、武人。上流貴族の家に生まれたが、弓や馬、鷹、犬といった武芸を好み、むしろ武人としても活躍した人物である。康和5年(1103)に陸奥守に任じられ、翌6年(1104)には陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の将軍を兼ね、天永2年(1111)頃には東北の蝦夷を討つなどの武功をあげている。基頼は康和年間(1099~1104)に京の邸内に持仏堂を営み、持明院と名付けている。
 持明院を基頼から受け継いだのは、次男の藤原通基であった。通基は天治年間(1124~26)に持明院の改築・拡張を行っている。この時、九品仏を安置し安楽光院と改名している。大治5年(1130)には供養を遂げ、法筵を演じている。また鳥羽上皇が行幸し舞曲が行われ、物を賜ったという記録も残されている。これ以降、持明院は邸宅の名として残り、通基の子孫の家号となる。そして持明院は、通基の三男・藤原基家に継承される。

 久安元年(1145)11月、基家は従五位下に叙爵し、能登守、美作守、左近衛中将などを歴任した後、承安2年(1172)正月、従三位に叙されている。更に治承三年の政変の後に右京大夫に任じられ、寿永元年(1182)10月には参議に任ぜられる。
 平頼盛の娘を妻とし守貞親王の乳母人となり、その養育に当たっていた。しかし寿永2年(1183)の平家一門の都落ちに際しては、これに供奉せず都に留まっている。そして同3年(1184)木曾義仲によるクーデターにより解官すると、舅の頼盛や甥の一条能保の後を追って関東に下っている。義仲及び平家が滅亡した後、再度都に戻り西海から戻った守貞親王に再び仕える。基家は持明院を守貞親王の居所として提供し、娘の陳子をその妃としている。文治6年(1190)には正二位まで昇り、建仁元年(1201)出家して真智となる。そして建保2年(1214)死去。

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後堀河天皇 觀音寺陵 2008年12月22日撮影
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後堀河天皇 觀音寺陵 2008年12月22日撮影

 藤原基家が仕えた守貞親王と娘の陳子の間には茂仁王が生まれる。守貞親王は高倉天皇の第二皇子であり、安徳天皇の異母弟、後鳥羽天皇は同母兄に当たる。承久3年(1221)の承久の乱により、鎌倉幕府は後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇の三上皇を配流し、仲恭天皇を退位させる。次代皇位継承者には、乱の首謀者である後鳥羽上皇の直系子孫を排除し、守貞親王の第三皇子であった茂仁王を即位させている。これが後堀河天皇である。さらに不在となった治天の君には、太上天皇号(後高倉院)を奉った守貞親王を据えている。天皇として即位した経歴が無い後高倉院が、法皇となり院政を行うということである。
 以上の経緯により、藤原基頼の一族から天皇が即位することとなった。しかし、院政を敷いた後高倉院も貞応2年(1223)5月には崩御している。貞永元年(1232)10月、後堀河天皇は、まだ2歳の四条天皇に譲位し、後高倉院に代わって院政を敷くこととなった。その後2年足らずの天福2年(1234)8月、法皇は23歳で崩御している。元々病弱であったが若くして急な死を迎えたため、僧正仁慶の怨霊だとか、後鳥羽上皇の生霊のなせる怪異と噂された。

 承久の乱終結から後堀河上皇が崩御されるまでの約13年間、持明院は後高倉上皇の仙洞御所を始めとして北白河院(持明院陳子)そして後堀河上皇の仙洞御所として使われた。このことが、持明院仙洞御所跡の石碑が示すところである。藤原基頼が邸宅の中に持仏堂を建て、その息子の通基が九品仏を安置し命名した安楽光院は、この御所の氏寺として継承されてきた。
 後堀河上皇の崩御後、その皇女であった室町院(暉子内親王)がこの地に居住し、正安2年(1300)5月の没後、遺産配分によって後深草上皇の子である伏見上皇に相続されている。同4年(1302)上皇がこの持明院に再び仙洞御所を設けたことにより、後深草上皇の統を持明院統と称し後の北朝となる。これに対したのが亀山天皇の子孫の大覚寺統であり、後醍醐天皇以降の南朝を生み出すこととなる。

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後深草天皇 深草北陵 2011年12月22日撮影
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嘉祥寺 深草聖天  2011年12月22日撮影

 文和2年(1353)年2月4日に御所は炎上する。安楽光院は焼失を免れたが、中核施設である御所を失い荒廃が進んでいった。延文年間(1356~61)に広義門院の命を受けた永円寺の誠蓮上人によって安楽光院は律院として再興されている。広義門院とは後伏見天皇の女御で光厳天皇と光明天皇の実母、西園寺寧子のことである。この広義門院による安楽光院の再建は、延文元年(1356)の自本覚公尼による光明院創建とほぼ一致する。
 室町時代に入った応永29年(1422)2月16日に後小松上皇の行幸があり、正長元年(1428)8月17日にも称光天皇の57日の御法事が行われた記録が残っている。これらの史料より室町時代にも安楽光院が栄えていたことが分る。しかし文明7年(1475)2月20日の大火で安楽光院は、焼け落ち再び荒廃に帰している。応仁の乱の終結後、室町一条北にあった光照院が、この地に移転したと伝えられ、移転後の一時期は光照院も安楽光院を名乗っていたようだ。
 応仁の乱後、元から持明院にあった安楽光院は現在の京都市伏見区深草に移り深草法華堂となったという伝承があるようだ。深草の地には深草北陵があり、嘉元2年(1304)7月に崩御された後深草天皇以降、伏見天皇、後伏見天皇、後小松天皇、稱光天皇、後土御門天皇、後柏原天皇、後奈良天皇、正親町天皇、後陽成天皇が葬られている。これは宮内庁の公式HPに掲載されている天皇陵に掲載されている歴代天皇の御陵である。深草北陵は深草十二帝陵とよばれるように、十二人の天皇が合葬されている。上記10名の天皇に北朝4代の後光厳天皇と5代の後円融天皇が加わる。さらに北朝第3代崇光天皇の皇子で初代伏見宮の栄仁親王も合葬されている。ここは持明院統、北朝とそして後土御門天皇以降の室町時代の天皇の御陵である。ちなみに補足すると北朝初代の光厳天皇は京北の山国陵、北朝2代の光明天皇と北朝3代の崇光天皇が伏見の大光明寺陵、そして貞成親王の第一王子として生まれた第102代の後花園天皇は後山国陵である。後水尾天皇から後桃園天皇までが月輪陵、光格、仁孝両天皇が後月輪陵、孝明天皇が後月輪東山陵と深草から泉涌寺内に移している。

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光厳天皇・山國陵 後花園天皇・後山國陵 2010年9月20日撮影
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大光明寺陵 2011年12月24日撮影

 話が歴代天皇陵に変わってしまったが、この深草北陵に造られた法華堂が深草法華堂である。元々、後深草天皇の遺骨を葬るために営まれた法華堂で、後には深草法華堂または安楽行院法華堂と呼ばれるようになった。そして代々の山陵にあてられてきた。戦国時代に入ると深草法華堂は焼失するが、元和元年(1615)の後陽成天皇の葬送にあたって再建されている。さらに寛文2年(1662)僧・空心によって安楽行院も復興されている。また元禄年間(1688~1704)にも、再び損壊していた法華堂が建造されている。
 明治に入り安楽行院は廃仏毀釈と天皇陵整備によって排除される。明治26年(1893)取り壊され、隣接する嘉祥寺に統合されている。そして寺域は深草北陵として整備された。
 この深草の地に安楽行院が存在していたことは事実である。しかし何時の時点で持明院にあった安楽光院が深草法華堂となったかは明確ではない。元々、法華堂が深草の地に建立されたのは嘉元2年(1304)であり、その時はまだ持明院に安楽光院が存在していた訳である。安楽光院が応仁の乱以降に深草へ移転したとする説を実証する史料が見つかっていないために、伝承のまま残っていると考えたほうがよさそうだ。この2つには共通の由縁は存在するものの、明確な事実が見つからない限り混同することは避けたほうがよさそうだ。

 この他にも安楽光院の行方について記している記事はある。天明7年(1787)に刊行された都名所図会拾遺や元治元年(1864)の花洛名勝図会には明らかに持明院にあった安楽光院について記したと思われる箇所がある。以下は都名所図会拾遺からの引用である。

安楽光院〔同所来迎院の西にあり。本尊阿弥陀仏。初め上京小川上立売にあり、今安楽小路といふ、是持明院基頼卿の宅なり、後世寺となす。中興は誠蓮法師、当山再興は寛永年中にして住職微玄法師なり〕

 この来迎院は泉涌寺の塔頭の来迎院である。その来迎院の西側とは現在の同寺の塔頭・善能寺と宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所あたりである。確かにこのことは、泉涌寺 善能寺 その3で既に書いていた。 天文24年(1555)に八条二階堂にあった善能寺が、現在の今熊野観音寺の西北に移っている。安楽光院も寛永年間(1624~44)に新町通上立売上ルにある光照院門跡から来迎院の西に移されている。そして新善光寺が寛文年間(1661~73)になってから、現在の場所に移ってくる。明治になり善能寺が、現在の善能寺の地で再興される。その頃には安楽光院は廃寺となっていたのだろう。しかし少なくとも明治維新直前の元治元年(1864)までは健在であった。

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泉涌寺 善能寺  2008年12月22日撮影
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宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所  2008年12月22日撮影

 持明院仙洞御所跡の石碑が建てられた地の町名は、安楽小路町とよばれている。この地名は勿論、安楽光院に由来している。宝暦3年(1753)に成立した中昔京師地図には、安楽光院地と光照院地とある。この地図は応仁から天正年間(1467~1592)の京都の様子を現わしたとされている。又これより古い中古京師内外地図には、「持明院仙洞光照寺ノチ安楽光院堀河帝仙洞ノチ嵯峨帝以来亦仙洞」とある。こちらは平安時代から室町時代の京都の姿を現わしたものである。

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持明院仙洞御所跡

「持明院仙洞御所跡」 の地図


大きな地図



持明院仙洞御所跡 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
 持明院仙洞御所跡 35.0327 135.7558
01  光照院門跡(常磐御所) 35.0327 135.755
02  織陣 35.033 135.7561
03  織陣Ⅰ 35.033 135.7564
04  織陣Ⅲ 35.033 135.7559
05  藤井右門宅跡 35.0321 135.7592

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