宝鏡寺 その2
臨済宗単立 西山 宝鏡寺(ほうきょうじ)その2 2010年1月17日訪問
宝鏡寺では、鎌倉時代後期から始まった五山制度から京都尼五山の成立、そして無外如大による景愛寺の創建、そして現在に残る大聖寺と宝鏡寺が子院として景愛寺を継承してきたことで終わった。この項では、いよいよ宝鏡寺創建の歴史に入っていく。
異説はあるものの、無外如大開山開基で景愛寺が創建されたのは、宝鏡寺が所蔵する「尼五山景愛寺伝系西山宝鏡寺逓系譜事蹟」から弘安8年(1285)と考えられる。荒川玲子氏の「景愛寺の沿革 ―尼五山研究の一齣―」(「書陵部紀要 通号28」(宮内庁書陵部編1976年刊)によれば、景愛寺の歴代住持は下記の通りである。
開 山 無外如大 安達泰盛女
二 世 月庭無忍 日野資名女
三 世 如 空 日野時光女
四 世 孤峯恵秀 日野政光女
五 世 東峰恵日 日野勝光女
六世宝鏡寺開山 華林恵厳 光厳天皇皇女
前景愛寺宝鏡寺二世 抱清院理秀 後小松天皇皇女
前景愛寺宝鏡寺三世 季光院理遠 称光天皇皇女
前景愛寺宝鏡寺四世 深思院理高 後花園天皇皇女
前景愛寺宝鏡寺五世 清居院理秀 後土御門天皇皇女
前景愛寺宝鏡寺六世 北 山 日野資康女
前景愛寺宝鏡寺七世 桂林恵昌 不 詳
これは宝鏡寺が所蔵する「尼五山景愛寺伝系西山宝鏡寺逓系譜事蹟」の記載から纏めたものである。荒川氏の調べによれば、いくつかの問題を抱えているようだ。
先ず二世の無忍は日野資名の女であるが、大聖寺開祖の玉厳悟心と同一人物であると推定している。さらに観応元年(1350)に光厳上皇の院宣が下されているので、開山の如大と二世の無忍との間に、別の住持が存在したのではないかと考えている。恐らく悟心の入寂が応永14年(1407)であったことから、観応元年時点でまだ住持についていなかったということであろう。また二世から四世にかけては日野氏の子女が住持となっていることから、景愛寺が日野氏の強力な後援を受けていたと想像している。元徳3年(1331)鎌倉幕府は、大覚寺統の後醍醐天皇を廃して持明院統の光厳天皇を擁立する。その際、無忍の父である日野資名が後醍醐天皇からの神器の伝授に関与したため、光厳天皇の寵愛を受けるようになる。そして建武2年(1335)には、後醍醐天皇から朝敵とされてしまった足利尊氏のために光厳上皇の院宣を貰い受け、尊氏に渡している。さらに娘の名子を西園寺公宗に嫁がしたことにより、持明院統及び足利幕府との結びつきを深めている。
無忍につづく3代にわたる日野家の子女についても6世の華林恵厳との年代に矛盾がある。さらに宝鏡寺の2世から5世までの皇女についても該当する皇女が見当たらないことや年代の上での問題点がある。これらの複数の問題点により、「尼五山景愛寺伝系西山宝鏡寺逓系譜事蹟」の記述をそのまま信じることは到底出来ないことが明らかになった。
そろそろ宝鏡寺の歴史について見て行く。開祖は上記の通り光厳天皇皇女の華林恵厳である。皇女・華林宮は落飾の後、景愛寺の塔頭である宝慈院に居住していた。そして景愛寺に入った後、景愛寺の子院である建福尼寺を改営して西山宝鏡寺と成したとされている。展示会のカタログ「尼門跡寺院の世界-皇女たちの信仰と御所文化」(産経新聞社 2009年刊)には、「近代に編纂された寺伝によれば」西山宝鏡寺の創建地は不明としている。その上で天龍寺所蔵の「応永鈞命絵図」に宝鏡寺と建福寺の両方が描かれていると記している。確かに宝鏡寺は天下龍門と鹿王院の間、現在の右京区嵯峨天龍寺今堀町に、建福寺も二尊院の南、小倉池あたりに描かれていることが確認できる。「応永鈞命絵図」は応永33年(1426)頃の嵯峨諸寺の寺領を明示したものであり、恵厳が入寂したのが至徳3年(1386)であるから少なくとも40年間は嵯峨にあったと考えているのであろう。そして宝鏡寺が現在の寺之内通に移ったのは応仁の乱(1467~77)の後としている。京都の西にあった寺院も多くが灰燼に帰し、足利家と関係が深かった大慈院の近くに移転してきたのであろう。国立歴史民族博物館に所蔵されている「洛中洛外図 歴博甲本」には宝鏡寺と大慈院が並んで描かれていることから15世紀末には移転している。
これに対して「京都・山城寺院神社大事典」(平凡社 1997年刊)は、(建)福尼寺は五辻大宮北西の景愛寺の境内(この条では上京区西五辻東町としていない)に建立され(「延宝伝灯録」)、応安年間(1368~75)恵厳禅尼によって百々橋で再興された(「平安通志」)という説を採用している。宝鏡寺には継孝院、養林庵、大慈院、恵聖院、瑞花院などの末寺が存在したが、昭和36年(1961)に恵聖院は上京区新町通上立売上る安楽小路町の光照院(常盤御所)に併合、瑞花院は廃されて現存しない。大慈院は明治維新の際に宝鏡寺に併合されたとしている。
本法寺の項でも触れたように、応仁から天正にかけての京都を表わしたとされる中昔京師地図の百々橋周辺には惣持寺地、瑞花院地そして大慈院が描かれている。惣持寺は臨済宗の尼門跡寺院であったが現存しない。日野榮子(浄賢竹庭)を開基とした門跡尼寺・総持院、やはり浄賢竹庭によって開創された慈受院、そして曇華院を加え通玄寺の三子院として本山が衰退した後も存続した。総持院と慈受院は、浄賢竹庭とその跡を継いだ二世桂芳宗繁(足利義持の娘)によって兼帯されてきたが、その後はそれぞれ住持を迎え独立した。しかし明治時代に入り衰退したため、大正8年(1919)に総持院を併合、慈受院が再興されている。つまり中昔京師地図に記された惣持寺は、宝鏡寺の西側、堀川通に面して薄雲御所という名でかつての慈受院が継承され、瑞花院は廃され,大慈院は宝鏡寺に併合されている。
江戸時代に入った正保元年(1644)後水尾天皇の第5皇女・理昌女王が入寺して20世久巌理昌禅尼となると、24世光格天皇皇女・理欽までの5代は代々皇女が住持を務めている。特に22世後西天皇の第11皇女・理豊女王は天和3年(1683)宝鏡寺に入り、元禄2年(1689)22世住持・徳巌理豊となっている。寺勢の興隆につとめ宝鏡寺中興の祖とされている。宝永4年(1707)景愛寺住持となり紫衣を許されている。尼門跡内での地位も向上し、明和元年(1764)には百々御所の御所号を拝領している。
天明8年(1788)1月30日、鴨川東側の宮川町団栗辻子の町家から出火した火災は、後に京都三大大火のひとつ天明の大火となる。御所、二条城、京都所司代などの要所が焼失しただけに留まらず、京都の8割以上の市街地が被災したとされている。宝鏡寺も類焼し、書院、本堂そして阿弥陀堂などの諸堂が再建されたのは天保元年(1830)のことであった。阿弥陀堂は24世霊巌理欽禅尼(光格天皇皇女)が宮中より移築されたもので、光格天皇自らの作とされる阿弥陀如来立像を兄の仁孝天皇崩御後に安置したことから勅作堂とも呼ばれている。天保13年(1842)に霊巌理欽禅尼が入寂すると無住となる。明治時代になると皇族の出家が禁止となり、相国寺派の管理下に置かれた時期もあった。明示6年(1873)に新たな住持を迎え、以後現在に至る。宝鏡寺が春と秋に由緒ある人形と宝物を特別公開するのは昭和32年(1957)に花山院慈香薫尼が始めて以来続いている。
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