文書と写真・地図による「記憶」の再現

鞍馬寺

鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら) 2010年9月18日訪問

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鞍馬寺 寺号標と仁王門

貴船での最後の訪問地・貴船神社結社の参詣を終え、京都府道361号上黒田貴船線を南に戻る。再び叡山電鉄貴船口駅より電車に乗り一つ先の終着駅・鞍馬駅で降りる。

駅の改札口を抜けると大天狗のモニュメントが観光客を迎える。鞍馬の自治会が平安建都1200年を記念して1994年に製作、2002年より鞍馬駅前に設置されている。鼻の長さ2.3mの大天狗の面は発泡スチロール製であったことから劣化が進み、ついに2017年1月17日の朝、積雪の重み耐えられず鼻から先が折れてしまった。この事故とともに補修されるまでの間に貼られた絆創膏の映像がニュース等で広まった。同年3月に補強を施し元の形状に戻されたが、2019年10月叡山電鉄開通90周年(昭和2年(1928)鞍馬線 市原~鞍馬仮駅間開通)を期に発泡スチロールの芯にFRPを巻いた新たな大天狗の面が製作された。現在はこの二代目の大天狗が駅前に設置されている。

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鞍馬寺 叡山電鉄鞍馬駅
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鞍馬寺 叡山電鉄鞍馬駅 駅前風景

すでに鞍馬の項でも書いたように、貴船神社と鞍馬寺のある地域はかつて山城国愛宕郡に属し鞍馬とよばれてきた。そして古来より京と若狭そして丹波を結ぶ要衝の地でもあった。若狭から京へ魚介類を運搬するための物流ルートは近年鯖街道と呼ばれるようになったが、京都と若狭の間にはもともと複数の街道が存在していたことが分かっている。小浜から東に向かい今津、木津、勝野、堅田そして大津を経由する西近江路。保坂から朽木、花折峠そして大原を経由する若狭街道・敦賀街道。遠敷、根来、張畑峠、久多、花背峠そして鞍馬に出る鞍馬街道。この他にも祖父谷峠・雲ケ畑街道とつなぐルートや美山・深見峠と静原・原峠を経て周山街道に至るルートなどが存在していたようだ。このうち鞍馬を経由するルートは京と若狭を結ぶ最短ルートであったため若狭からは海産物、そして鞍馬の北に位置する広河原、久多、花背の林産物が京に運ばれてきた。

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鞍馬寺 叡山電鉄鞍馬駅の大天狗

江戸時代初期の医者であり、歴史家でもあった黒川道祐は「近畿歴覧記」の東北歴覧之記(「新修京都叢書第三巻 近畿歴覧記 雍州府志」(光彩社 1968年刊))で下記のように記している。

樓門ノ前ニ家アリ、酒食ヲ賣リ、幷ニ山椒ノ皮、木ノ目漬黒木薪柴炭等ノ物ヲ賣レリ 木ノ目漬ハ通草蔓嫩葉ノヨシ  顕註密勘ニミエタリ

木ノ目漬は木芽の葉を塩漬けにしたもので、平安末期の「続詞歌集」にも鞍馬のめつけとして詠まれている。また顕註密勘とは鎌倉時代前期に藤原定家によって書かれた「古今和歌集」の注釈書のことである。既に鎌倉時代には鞍馬の名産品になっていたことが分かる。

鞍馬の別当のしたしき人のもとよりめつけといふものこのほどおほかた見えねばえ奉らずと言へりけるに  弁 乳母
いとほしや鞍馬のめつけいかなれば ふつと見えずと言ふにか有るらむ

牛若丸の鞍馬寺修行の際に、通草(あけび)の蔓と山椒を漬けこんだ木の芽漬けを常食にしていたと言われていることから、現在の製法とはやや異なるものの平安時代後期には存在していたようだ。

また黒川道祐が記したように、鞍馬に集められた炭は鞍馬炭と呼ばれるようにブランド化され都へ運ばれていた。そのため鞍馬街道に面する鞍馬村の多くは鞍馬寺の門前村だけでなく炭問屋が多くあったようだ。このことは鞍馬の町並みに特徴を与えた。主屋の横に薪炭の収納倉庫としての納屋が街道に面して建てられた。さらに薪炭を積んでおくために軒・庇の出がかなり深いなっている。しかし近代に入り薪炭の使用量が激減し、このような納屋が居室や車庫に転用されていった。南西の端にある地蔵堂から北東端の岩上地蔵尊までの約1.4kmの間に民家が軒を並べている。かなり建替えや改修が進んだものの、まだ街道沿いにかつての炭問屋の名残を見つけることができる。

これも鞍馬の項で書いたように、「角川日本地名大辞典26 京都府上巻」(角川書店 1982年刊)は鞍馬の地名の由来について下記のように記している。

地名由来は「都花月名所」に、天武天皇が大友皇子に追われて当地に逃れ、鞍をつけた馬をそのままつないだことによるとあるが、一般には鞍馬寺の寺名によるという。

出典となった「都花月名所」は秋里籬島が寛政5年(1793)に刊行した名所図会である。秋里は「都名所図会」の著者であり名所図会あるいは地誌の先駆者でもある。「新修 京都叢書 第2巻」(光彩社 1967年刊)に所収されている「都花月名所」を参照すると、「看花」の条で御室、嵐山、華頂山、醍醐などに続き鞍馬が以下のように記されている。

鞍馬 北山
昔天武帝大友王子に襲れ此所まで逃のぶ給ふて鞍をける馬を繋ぎしよりくらまと呼ぶ。

ただし「角川日本地名大辞典」もこの天武天皇の故事が地名となったのではなく、鞍馬寺の寺名が地名が派生したと考えているようだ。ただし同書の鞍馬寺の条には寺名の起源を記していないので確認の方法がない。京都出身の郷土史研究家 竹村俊則は、「昭和京都名所圖會 洛北」(駸々堂出版 1982年刊)で下記のように記している。

『大和本紀』によれば、鞍馬というのは天武天皇が大友皇子に追われ、矢背(八瀬)の里よりこの地に逃げのび、城を構え、馬に鞍を置いたままでつないでおかれた故に因るといわれるが、これは地名付会の説で信じられない。「くらま」は闇部・暗部の転訛したもので、樹木がうっそうと生い茂り、昼なお暗いところから称したものであろう。後世、山谷の形に付会して鞍馬の字を当てたものとみられる。

天武天皇白馬伝説を否定することに関しては上記の「角川日本地名大辞典」と同様である。竹村は昭和34年(1959)に刊行された「新撰京都名所圖會」でも同じことを記しているので、最初から天武天皇の白馬伝説ではなく闇部転訛説を推していたとみてよいだろう。
竹村の「昭和京都名所圖會」よりさらに新しい「京都の地名 検証2」(勉誠出版 2007年刊)の鞍馬の条(木村恭造著)では、天武天皇の白馬伝説や闇部転訛説を簡単に紹介した上で、朝鮮語の谷や渕という「コル」が「クラ」に転じたという吉田金彦氏の説(「京都の地名を歩く」(京都新聞出版センター 2003年刊))を採用している。つまり鞍馬川流域の北東から南西に連なる谷の地形が地名の由来となっているという。さらにその谷の地域とか周辺を意味するzoneが「マ」という語となったと推測している。この後半の「マ」の部分については吉野政治氏の「古代の基礎的認識語とその敬語の研究」(和泉書院 2005年刊)を参考としているようだ。
さらに続編となる「京都の地名 検証3」(勉誠出版 2010年刊)でも鞍馬(綱本逸雄氏著)を取り上げ、次の3つの説を整理している。第1の説は鞍馬の「クラ」に着目し「全国のクラ地名と同様に崖や谷を意味し岩場の多い峻険な山とか、朝鮮語の「コル」(谷・渕)から転訛した説」。上記の「京都の地名 検証2」の説はここに含まれるようだ。第2は「木々に覆われていて、いつも暗い所という意味で「暗部(闇部)」の読みが鞍馬に転じたとする説」。竹村俊則の説や歌枕として用いられてきた「くらぶ山」もこの説に含まれる。「日本歴史地名体系 京都市の地名」にも「暗部山」という条が鞍馬山の次に記されているが「著名な歌枕だが所在不明。」としている。つまり近世の地誌においても鞍馬山から貴船山そして嵯峨野まで諸説があり、同定できていないということらしい。第3は「「鞍馬蓋寺縁起」に載る白馬伝説が由来とする説」である。「京都の地名 検証3」は第2の暗部説については暗部山が鞍馬山に断定できないこと、第3の白馬伝説も鞍馬寺の縁起を史実とする裏づけが得られないことから採用していない。そして同書は第1の谷を意味する「クラ」説を採用している。鞍馬寺が建立される以前から鞍馬山一帯は神の住む場所として信じられ、そのことが白馬伝説を産み出したとしている。「神の座す場を馬具の鞍に見立て」たことから鞍馬の地名が生じ、鞍馬山周辺の地形と馬具の鞍の形状が一致することも確認している。

以上のことから、鞍馬寺の寺名の由来は地名としての鞍馬であり、それは天武天皇の故事より前から存在する地形の特徴から名付けられたものと考えるのが自然である。つまり諸説あるものの太古より鞍馬と呼ばれてきた地域に創建された寺院であったので鞍馬寺となったということのようだ。

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鞍馬寺 仁王門

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