惺窩先生幽栖址是より西二町
惺窩先生幽栖址是より西二町(せいかせんせいゆうせいしこれよりにしにちょう) 2010年9月18日訪問
鞍馬街道(京都府道40号下鴨静原大原線)を南に歩いて行くと、観音道是より三町の道標が目に入ってくる。この道標については市原の町並みで記したように小字堂山にある帰源寺の本尊十一面観音立像を詣でるためのものと思われる。同じ民家の南端の軒下に惺窩先生幽栖址従是西二丁という小さな自然石の道標がある。勿論、惺窩先生とは戦国時代から江戸時代前期にかけての儒学者・藤原惺窩のことである。
藤原惺窩は永禄4年(1561)公家の冷泉為純の三男として下冷泉家の所領であった播磨国三木郡細川庄(現在の兵庫県三木市)で生まれている。
冷泉家でも記したように、2代目為秀、3代目為尹が継ぎ、為尹の子供の時代に上冷泉家と下冷泉家に分かれている。嫡流を長男の為之に継がせたが、次男の持為も足利将軍家から独立して一家を設けることが認められたため、為尹は応永23年(1416)播磨国細川荘等を持為に譲り分家させている。2つの冷泉家を区別するために為之の家を上冷泉家、持為を下冷泉家とするようになった。
下冷泉家は所領地の関係で播磨守護の赤松氏とも親しい関係にあったが、戦国大名に所領を横領されるのを防ぐため細川庄に下向し直接当主が荘園管理を行っていた。天正6年(1578)4月1日、冷泉為純とその子・為勝が戦国大名の別所氏に殺され荘園も横領されるという事件が発生する。所謂、三木合戦とよばれる戦いの緒戦の出来事である。この後荒木村重の離反もあり、三木城が陥落するのは天正8年(1580)1月17日のことであった。
断絶の危機を迎えた下冷泉家は、嫡男・為勝の弟である為将が京都に戻り7代目となっている。この下冷泉家再興の裏には惺窩の尽力があったとされている。また後年、子が無いまま亡くなった為将のために自らの長男・為景を下冷泉家の当主としたのも惺窩であった。為純の三男であり庶子であった惺窩は下冷泉家を継ぐことなく、7歳で仏門に入り播州龍野の景雲寺で一山派の東明宗旲に学んでいる。太田青丘著の「人物叢書 藤原惺窩」(吉川弘文館 1985年刊)によれば、惺窩は景雲寺で宗旲に次ぎ一山派の文鳳宗韶に師事し、元亀3年(1572)に法縁を結んだとしている。なお一山一寧の法孫からは虎関師錬、中巌円月、夢想疎石、雪村友梅など五山文学を代表する俊秀を輩出している。さらに中巌以下多くの儒学に通じた禅僧を生み出したことも惺窩が朱子学の道を歩むことの遠因となっている。
朱子学は南宋の朱熹によって構築された儒教の新しい学問体系である。儒教が紀元前500年頃の孔子やその後の儒者によって確立されたことを考えると実に新しいかが分かる。朱熹は建炎4年(1130)に南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)の山間地帯で生まれている。ちなみに朱子とは朱熹の尊称である。19歳で科挙試験に合格して進士となり以後各地を転々とする中で当時道学の中心的存在であった湖南学に対して疑義を呈し、南宋の思想界で勢力を広げていった。朱熹は思想家であるとともに地方官としての業績もあげてきたが、晩年偽学の禁と呼ばれる道学排斥運動に巻き込まれ慶元6年(1200)不遇の中で71歳で生涯を閉じている。
朱子学が日本に渡来したのは比較的早い時代であったと考えられている。正治元年(1199)入宋した俊芿が儒教の典籍250巻を持ち帰っている。これが日本に伝わった最初期と見られている。俊芿は、肥後国飽田郡出身の鎌倉時代前期の僧で泉涌寺の実質的な開山でもある。以後、渡宋した円爾弁円、白雲慧暁、高峰顕日、無象静照そして中巌円月らの禅僧や南宋から渡ってきた蘭渓道隆、兀庵普寧、大休宗休、無学祖元、鏡堂覚円などの渡来僧や知識人によって広められた。そして正安元年(1299)元より来日した一山一寧がもたらした注釈によって学理が完成されたといわれる。このため一山派と朱子学との結びつきは当初より強いものであったが、日本においてはあくまでも禅僧が学ぶべきとした思考方法であり仏教世界から切り離されることはなかった。
惺窩が叔父にあたる相国寺塔頭普広院第八世住職の清叔寿泉を頼って相国寺に入寺したのは父為純と兄為勝が戦死した後の天正6年(1578)のこととされている。前後関係は「人物叢書 藤原惺窩」と異なるが、相国寺の公式HPに所収されている関連資料 相国寺と藤原惺窩によれば、玉龍庵(現玉龍院)第五世住職文鳳宗韶の弟子となり、口蕣と名のり字を文華としたようだ。また当時の相国寺には九十一世仁如集尭と九十二世西笑承兌が住持を務める時代であった。
藤原惺窩によれば、玉龍庵(現玉龍院)第五世住職文鳳宗韶の弟子となり、口蕣と名のり字を文華としたようだ。また当時の相国寺には九十一世仁如集尭と九十二世西笑承兌が住持を務める時代であった。
藤原惺窩によれば、玉龍庵(現玉龍院)第五世住職文鳳宗韶の弟子となり、口蕣と名のり字を文華としたようだ。また当時の相国寺には九十一世仁如集尭と九十二世西笑承兌が住持を務める時代であった。
惺窩にとって禅学を通じて触れた中国の文化や思想はかなり新鮮なものであったと思われる。また相国寺の住持・西笑承兌は禅僧でありながらも豊臣秀吉や徳川家康のブレーンの一人として、幕府の諸法度や外交文書の起草、学問奨励策や寺社行政の立案、法要などの仏事の運営に重要な役割を果たしていた。
そして惺窩が儒学に傾注し始めたのは、恐らく天正16年(1588)から天正18年(1590)頃と思われる。この天正18年、惺窩は朝鮮国使の宿舎となっている大徳寺へ頻繁に出向いている。副使の金誠一は、朝鮮王朝の代表的な儒学者・李退渓の高弟でもあり、惺窩は詩文を応酬することで朝鮮の朱子学者に心を寄せていったと思われる。さらに文禄2年(1593)にも肥前名護屋で明国使節とも出会っている。この地で徳川家康に謁した惺窩は同年12月に江戸に招かれ「貞観政要」を講じている。そして翌3年(1594)3月17日、江戸に於いて京都よりの母の訃報に接する。この頃、儒者としての信念をほぼ固めていた太田氏は見ている。
この後、明に渡る決心をし慶長元年(1596)6月28日に京を発ち、閏7月薩摩より入明の使船に乗る。しかし風濤に遇い船は喜界が島に漂着してしまう。翌2年(1597)夏、喜界が島より帰洛すると、他人に頼らず直接六経等の文献を学び始める。これは朱子学を究める覚悟の現れと見ることもできる。慶長3年(1598)伏見の赤松広通邸で朝鮮役の捕虜姜沆と出会っている。ここより姜沆の帰国が許される慶長5年(1600)春までの約1年半の間惺窩はこの朝鮮国の朱子学者と交流を続けている。僧籍を捨て儒者の道を選んだ惺窩は、この年の冬深衣道服を着用し再び家康に謁している。
さて惺窩が林道春(後の羅山)に出会ったのは、惺窩44歳の慶長9年(1604)8月24日のことであった。惺窩の友人にして後援者であった賀古宗隆の家で、道春は初めて惺窩に対面した。時に道春22歳であった。道春は天正11年(1583)京都四条新町で生まれている。文禄4年(1595)建仁寺で仏教を学ぶも僧籍に入ること辞し、家に戻り朱子学を独学で学んでいた。博覧強記で既にひとかどの見識を持った人物と目されていた。惺窩は、すぐに道春の学力を認め子弟の契りを結ぶに至った。そして道春を推挙し、翌10年(1605)4月12日に徳川家康に引き合わせている。
惺窩はこの慶長10年の夏から秋にかけた頃に京都北郊市原の里に山荘を営んでいる。「人物叢書 藤原惺窩」には、相国寺で修行した惺窩は僧籍から離れた後も相国寺の東隣に住んでおり市原も相国寺の保養所のような施設があったことからこの地を選んだと記している。生涯無官であった惺窩が営んだ山荘であるのでそれほど大規模なものでも華美なものでもなかったと想像される。穏健なる学者、篤実な教育者にして孤高を愛する詩人と固陋一遍な道学者ではなかった。詩歌を好み連歌を好んだということからも、芸に遊ぶ余裕を持していた。このあたりの嗜みは惺窩の出自に関係しているのではないかとも思う。惺窩の確立した京学派は朱子学(朱熹)を基調とするものの、陽明学(陸象山・王陽明)をも受容するなど包摂力の大きさが特徴となっている。これは惺窩の人となりにも一致している。それに対して羅山は朱子学のみを信奉し、陸象山を排撃することがあった。この羅山の過度な論を惺窩が窘めている。しかし、それによって羅山が惺窩と決別したわけではなく、惺窩の死まで両人の親交は続いている。
最後に藤原惺窩の門人と交友関係を記しておく。
松永尺五は京都の人、私塾・講習堂を開き木下順庵、貝原益軒を輩出している。
堀杏庵は近江の人、初め医を学び後に尾張藩の儒官になる。那波活所は播磨の人、紀伊藩の儒官になる。
菅得庵は播磨の人、惺窩との親交が特に深かったと思われる。
石川丈山は三河の人、家康に仕え武功もあげたが退けられ一乗村に詩仙堂を営む。
林東舟は京都の人、林羅山の弟で幕府の顧問となる。
三宅寄斎は泉州岸和田の人、津、福岡の儒官となる。
吉田素庵は京都の人、角倉了以の子で父の事業を継ぐ。惺窩の経済的支援者。
武田夕佳は京都の人、医者で惺窩家の近くに居住。しばしば惺窩に薬を提供。
武田蒙庵も京都の人で医者。夕佳の弟。
吉田意庵も京都の人で医者、幕医。素庵の叔父で惺窩の主治医にして門人であり友人。
吉田如見も京都の人で素庵の子、幕医。
永田石蘊は京都の人、紀州藩の儒官になる。
次に惺窩と交友のあった人々。
木下長嘯子は北政所の兄の嫡男の木下勝俊。関ヶ原の戦いで伏見城から逃亡したため改易される。京都東山に隠棲する。
赤松広通は赤松政秀の子で戦国大名、播磨龍野城、但馬竹田城城主。因幡鳥取城攻めで城下を焼き討ちしたことで徳川家康から切腹を命じられる。惺窩は広通の死を嘆き「悼赤松氏三十首」を残している。惺窩が家康に仕官しなかった理由には広通の死が関係するのかもしれない。
姜沆は朝鮮李氏王朝時代中期の官人。藤堂高虎の水軍により捕虜とされるが、後に許され帰国する。
賀古宗隆は事蹟未詳だが惺窩と同郷で経済的な支援者。
大村由己は播州三木の学者で著述家、豊臣秀吉の近侍。秀吉のスポークスマンにして「天正記」の筆者。
中院通勝は公卿で歌人、和学者。内大臣・中院通為の三男。松永貞徳は俳人、歌人、歌学者、京都の人。母が惺窩の姉であるため、貞徳は惺窩にとって甥にあたる。また門人の松永尺五は貞徳の子。
浅野幸長は戦国武将・浅野長政の嫡男で紀伊和歌山藩初代藩主。惺窩を敬し慶長11年(1606)以来、毎年和歌山に招じ、友人であり門弟であった。慶長18年(1613)病死、享年38。男子がいなかったため次弟の長晟が家督を継いだ。安芸浅野家は長晟の時代に移封されたもので、その後和歌山は紀州徳川家となる。
「惺窩先生幽栖址是より西二町」 の地図
惺窩先生幽栖址是より西二町 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
▼ 惺窩先生幽栖址是より西二町 | 35.0871 | 135.7615 | |
01 | ▼ 市原の町並み | 35.0879 | 135.7613 |
02 | ▼ 観音道是より三町 | 35.0872 | 135.7615 |
03 | 帰源寺 | 35.0873 | 135.7553 |
04 | 此付近藤原惺窩市原山荘跡 | 35.0883 | 135.7561 |
05 | 此付近藤原惺窩市原山荘跡 旧所? | 35.0887 | 135.757 |
06 | 老人ホーム市原寮 | 35.0905 | 135.7616 |
07 | 恵光寺 | 35.0849 | 135.7612 |
08 | ▼ 補陀洛寺 | 35.0852 | 135.7617 |
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