八番楳木 戊辰之役東軍戦死者埋骨地
八番楳木 戊辰之役東軍戦死者埋骨地(はちばんうめき ぼしんのえきとうぐんせんししゃまいこつち) 2008/05/11訪問
2日目は淀→宇治→山城→墨染とかなりの強行軍となる。伏見桃山のホテルを5時にチェックアウトし京阪電鉄伏見桃山駅5:23発淀屋橋行きの普通電車に乗ると淀駅には5:30に到着した。
京阪電鉄淀駅は2011年3月予定で高架化工事がすすめられていた。淀屋橋方面のホームはまだ地上レベルにあったが、京都競馬場の下車駅となるため巨大なホームとコンコースが用意されていた。踏切を渡り納所の交差点を目指すが、途中で道路幅が広くなる場所がある。どうも単純な構成の町並みではなさそうだ。もともと明治以前の淀の大部分は宇治川と巨椋池とその湿地帯で占められていた。淀城とその周辺の古い町並みを除くと明治以降の開拓によって出来上がった町と言うこともできる。そのため現在の全ての道が昔から使われていた訳でもなく、昔の河川のなごりが町並みに残っていたりしているようだ。
納所の交差点から注意深く確認しながら府道124号に入る。100メートルくらい進むと淀小橋の石標が左手に現れる。この部分には府道と平行して生活道が一段高い場所にある。言い換えれば府道が左手の民家より低いレベルを通っている。淀小橋についてはこの後で考えることとし、さらに住宅地の中を進むと右手の民家がなくなり、京阪本線が現れる。
競馬場関連施設と思われる建物の先に京阪本線を跨ぐ大きな鉄製の橋があり、これをくぐったすぐ左手に八番楳木 戊辰之役東軍戦死者埋骨地がある。
ここにたどり着いたのがまだ朝の6時前で前日から引き続き天気も悪く、それほど明るくない。信じていないとはいえ幽霊話を思い出しながら、1人墓石に向かい合うと言いようのない恐怖感が湧き上がってきた。やがて駐車場を
管理すると思しき人が現れ、裏の小屋のあたりで何か作業を始めたので、気を取り直しあらためて周囲を眺める。
向かって左側に「昭和四十五年春 中村勝五郎識す」と記した慰霊碑がある。Wikipedia等には昭和四十四年とあるが、明らかに昭和四十五年春と書かれている。碑文の中に「然るに流れ行く一瞬の時差により或るは官軍となり又或るは幕軍となって士道に殉じたので有ります」というくだりある。現在の新選組人気の基礎を築き上げた司馬遼太郎の「燃えよ剣」と「新選組血風録」は昭和39年(1964)に書かれている。そして昭和45年(1970)までにはどちらもテレビドラマ化されている。この碑が建てられた頃は、まさに新選組に対する認識が変わりつつあった時期とも言えるだろう。その中でも「一瞬の時差により」という歴史認識は、現在から見ても非常に客観性を伴ったものであると思う。
右側に戊辰之役東軍戦死者埋骨地の碑が立つ。幕末史蹟研究会の「淀」によると納所の妙教寺にある榎本武揚書による「戊辰役東軍戦死者之碑」の碑文(明治40年(1908)建立)には、「戦死者埋骨地三所一在下鳥羽村悲願寺墓地一納所村愛宕茶屋堤防一八番楳木」と書かれていたようだ。この三箇所の内の八番楳木がこの地をとなる。
慶応4年(1868)1月3日夜半に、伏見方面の幕府軍は炎上した伏見奉行所を後にし、翌4日は東高瀬川あたりで新政府軍と交戦するが、千両松まで引き下がる。そのため1月5日は朝から新選組・会津藩別選隊を中心に千両松で新政府軍を迎え撃つこととなる。千両松は太閤堤の築防用に植えられた松並木であり、その見事さから千両松と呼ばれていた。淀川三十石船舟唄にも「淀の上手の千両の松は、売らず買わずで見て千両」と唄われている。激戦地となった場所は現在の伏見水環境保全センターから横大路運動公園のあたり、慰霊碑のある八番楳木の東側500メートルから1キロメートルではないかと思われる。当時はこのあたり一面湿地帯で大規模な会戦ができるような状況でなかった。そういう意味で伏見での市街戦と同じように組織的な攻撃でなく、各隊・各局面で個々の判断で戦わなければならなかったように思われる。
新政府軍側では薩摩藩十二番隊隊長の伊集院与一、長州藩第一中隊半隊司令の藤村英次郎、第五中隊司令の石川厚狭助が戦死するなどの大打撃を受けている。藤村英次郎と石川厚狭助は共に九條陵の脇にある鳥羽伏見戦防長殉難者之墓に葬られている。
一進一退の攻防の中、福田侠平指揮による長州藩第一中隊の突撃が功を奏し、新政府軍が全面攻勢に移り、幕府軍を撃破する。この日の戦闘により特に会津藩別選隊や新選組は壊滅的な打撃を受け、淀城を目指し撤退を行わざるを得なくなる。八番楳木は千両松の激戦地と淀城に渡る淀小橋の中間地点にあたる場所と考えてもよいだろう。新政府軍の進撃を受け、多くの戦死者を出しながら撤退していく状況が想像できる。新選組六番隊組長・井上源三郎も千両松の戦いで戦死している。市川三千代氏の「井上源三郎埋葬地を訪ねて」(井上源三郎資料館)では妙教寺の位牌には、八番楳木 士三十八名 卒三名、愛宕茶屋 士十七名 卒十八名と彫られていると書き記している。おそらく1月4・5日の伏見方面の激戦地千両松で41名、そして鳥羽方面の富の森で35名が戦死したのだろう。それにしても幕府軍の戦死者は氏名不詳のまま数で表現するしか方法がないという事実に気が重くなる。
妙教寺にある戊辰役東軍戦死者之碑は建立年も建立者も明らかであるが、八番楳木の戊辰之役東軍戦死者埋骨地の碑には建立者も建立年もない。愛宕茶屋も悲願寺墓地も同様である。現在の碑がいつからあるのかは明らかでない。隣の慰霊碑が昭和45年(1970)に建立されたのだから、同時期かそれ以前ということとなる。
八番楳木の場合は京都競馬場の改修工事に伴い慰霊碑等が削られたことから、事故が続出しついには新撰組隊士の幽霊が「元の所に返せ!」と夜な夜な現れるという噂も出るようになった。工事関係者は慰霊碑の管理を行っていた妙教寺に依頼し供養を行い、拡張工事の終了後同所に墓を整備した。それ以後、幽霊話は出没しなくなった。慰霊碑の結びの言葉である「在天の魂依って瞑すべし」がまさにこのエピソードをよく物語っている。
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