鳥羽伏見戦防長殉難者之墓
鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 (とばふしみせんぼうちょうじゅなんしゃのはか) 2008/05/10訪問
皇嘉門院月輪南陵を過ぎ、仲恭天皇陵に至る参道の途中を右手に入ると鳥羽伏見戦防長殉難者の墓地がある。上り勾配の参道の途中にあるため仲恭天皇陵より一段低い場所ではあるが、かなり広い面積の平地が確保されている。 仲恭天皇陵と同じく西側に面するように整然と2列に並べられた墓石は、陵の主を護る衛士のようにも見える。もちろん仲恭天皇については、東山本町陵墓参考地の項でも触れたように鎌倉時代の天皇であり、鳥羽伏見の戦やその戦没者とは全く関係がない。しかし鬱蒼とした木立により外界から完全に切り離されたこの場所に立つと650年以上の時の離れたものが見事に一体化しているように思えるから不思議である。
この墓所には鳥羽伏見戦で戦死あるいは病死した石川厚狭介(いしかわあさのすけ 長州藩第五中隊・振武隊参謀)外48名の長州藩士が葬られている。墓石の前には、献花台、戦没者の功績を記した石碑「祟忠之碑」、そして巨大な一基の石灯籠が立っている。
鳥羽伏見戦の前年である慶応3年(1867)10月14日に第15代将軍徳川慶喜は公議政体派政権(諸侯による合議政権)の首座に就くことを新たな目標とし、大政奉還を行い政権を朝廷に返上した。倒幕勢力しも同年12月9日に王政復古のクーデターを断行したものの、新政府内部では倒幕派(薩摩藩と後に長州藩)と公議政体派(土佐・越前・尾張藩)の調整が引き続き行われていた。慶喜も新政府内の不統一を知り一時京から大阪に退去したが、新政府内の公議政体派と連携をとりつつ巻き返しの機会を狙っていた。西郷隆盛の命を受けた薩摩藩士と浪士による破壊工作が功を奏し旧幕府内の開戦派が12月25日江戸薩摩藩邸の焼き討ちを行った。この知らせは大阪にも届き、開戦の圧力には慶喜も抗し難く、ついに慶応4年(1968)正月に京への進軍が開始された。
旧幕府軍(東軍)1万5000は、明確な戦略も持たないまま鳥羽街道と伏見街道から京を目指した。これに対して薩長連合軍(西軍)も鳥羽と伏見の二方面に展開し、東軍の進撃に対する布陣を行った。正月3日の夕刻、鳥羽街道小枝橋付近での薩摩軍による砲撃をきっかけに鳥羽伏見戦とその後まで明治2年(1869)5月18日の函館戦争の終結まで続く戊辰戦争が始まった。5000余と数的には圧倒的劣勢にある西軍にとって有利戦局が展開したのは、「大軍が押し寄せれば戦わずに逃げ出すだろう」と思い込んでいた東軍の無策によるところが大であった。
引き続く1月4日も京を目指して行軍する東軍は西軍の攻撃により鳥羽・伏見から淀の東側に広がる湿地帯まで押し戻された。この日の午後には薩長連合軍に錦の御旗が翻り西軍が官軍、東軍が賊軍となった。翌5日の淀周辺での戦いに敗れると、東軍は淀城に入城することもかなわず、橋本まで退き、ここに防御ラインを敷くことで西軍の大阪への進出を阻止しようと試みる。開戦4日目の1月6日、橋本付近で西軍と一進一退の戦闘を繰り返すも諸藩の西軍への寝返りなどもあり戦況は好転せず、大阪城への撤退を余儀なくされた。
東軍の将兵が大阪城に着いた時には、すでに徳川慶喜の姿はなかった。鳥羽伏見戦の勝敗はわずか4日間で決してしまった。
長州藩兵2100は、この戦において主に東福寺を本陣とし伏見方面を守っていた。この鳥羽伏見戦で戦死あるいは病死した藩士の遺体は本陣の山上にあたる東山区東福寺恵日山南岳に葬り墓地とした。京都市観光文化情報システム(http://kaiwai.city.kyoto.jp/search/view_sight.php?InforKindCode=4&ManageCode=9000258 : リンク先が無くなりました )によると現在のような墓地に整備されたのは33回忌にあたる明治33年(1900)ということだ。またこの墓地に葬られている方の名前に関してはマルス館長のお作りになっているまほろば国立歴史資料館 維新の礎を参照されるのがよろしいかと思います。
戦死者が葬られたのはおそらく明治元年(1868)1月。仲恭天皇陵がこの地に作られたのは明治22年(1879)。そして鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 が現在のように整備されたのが明治33年(1900)ということになる。ここからは推測になるが、すでに長州藩士の墓地となっていたこの部分を避けて仲恭天皇陵が築かれ、陵の配置に合わせて墓地はあたかも衛士のように整備されたとも考えられる。
またこの墓地へは、仲恭天皇陵に至る参道の途中を右手に分け入ったが、これだけ整備された墓地への正規な入り口とは思えない。おそらく正しい参道が別にあるように思う。小雨も降り木立の薄暗い中探すのも難しいと考え、今回は再び陵の参道に戻り帰ることとする。
墓地から直接町並みをのぞむことはできないが、参道に出ると眼下に伏見街道、正面左に戊辰戦争の始まりとなった鳥羽街道、さらに左手には伏見の町並みへとつながっていく。この地を護り戦死していったものを葬る墓地として最高のロケーションではないだろうか。
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