文子天満宮
文子天満宮(あやこてんまんぐう) 2008年05月18日訪問
東本願寺の御影堂門の前から、再び正面通を東に進むと、正面に渉成園の黒い冠木門が現れる。開園時間は9時からとなっているので、まだ少し開園まで待たねばならない。そこで先に文子天満宮に向かう。間之町通を北に進み、上数珠屋町通を越えた左手に、天満宮と書かれた額の架かる小さな石の鳥居が建つ。このあたりが天神町と呼ばれていることも、文子天満宮に因んだものであることが分かる。
菅原道真と文子については満願寺、北野天満宮で既に触れている。文子天満宮の公式HPでは、祭神は、本殿が菅原道真、相殿が文子比売、道真の父母である菅原是善と伴真成の娘。天満宮では、相殿に祀られている文子比売は菅原道真公の乳母をつとめていた多治比文子とし、自らの家の庭に小さな祠をもうけ、道真公を拝んでいたとしている。
陽成天皇を廃し光孝天皇を即位させ、さらに次の宇多天皇の時には阿衡事件を起こした関白藤原基経が寛平3年(891)亡くなる。宇多天皇は摂関を置かず源能有を事実上の首班として藤原時平と菅原道真、平季長等の近臣を重用し政治改革を開始している。この時、道真は46歳になっていたのに対して時平はまだ21歳であった。そのため時平には基経が掌握していた政治的権限が与えられていない。これは藤原氏の影響を排除し親政を行うために、宇多天皇が阿衡事件から学んだ結果であっただろう。
寛平6年(894)の遣唐使廃止、寛平8年(896)の造籍、私営田抑制、清涼殿を警護する滝口の武士の設置等に加え、国司に一国内の租税納入を請け負わせる国司請負や、位田等からの俸給給付等を民部省を通さずに各国で行う等、国司の権限を強化する改革を次々と行ったとされている。この宇多天皇による親政が行われた治世を寛平の治と呼ぶ。この動きは、有力貴族や寺社などの権門を抑制し律令制への回帰を強く志向した王朝国家体制への再確立だったと考えられている。これを推進したのが菅原道真であり、この動きに危機感を感じたのが藤原時平であったとも言える。
そして寛平9年(897)宇多天皇は醍醐天皇に譲位し、その2年後には自ら造立した仁和寺で出家し法皇となる。即位した醍醐天皇は父帝の訓示に従い、藤原時平と菅原道真を左右大臣とし、政務を任せている。先に述べたように宇多天皇が道真を重用することで藤原氏の政治的権限の拡大を抑えてきたのに対して、醍醐天皇は藤原氏との結びつきを強くすることで、宇多法皇の院政を排除しようと考えていた。このような政治環境の変化の下で、昌泰4年(901)左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰権帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にする昌泰の変が起こり、道真は延喜3年(903)に大宰府で亡くなる。
道真の死後、京には異変が相次ぐ。延喜9年(909)藤原時平が39歳の若さで病死、延喜23年(923)醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が薨去、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王も延長3年(925年)に病死。そして延長8年(930)朝議中の清涼殿の南西の第一柱に落雷し、大宰府に左遷された道真の動向監視を命じられていた藤原清貫をはじめ、朝廷要人に多くの死傷者が出ている。このような異変の連続に醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御されている。これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行い、子供たちも流罪を解かれ京に呼び返している。
満願寺の寺伝によると天慶3年(940)多治比文子が菅原道真の霊夢を感じ、北野朝日寺の僧最珍を開基に請じて西ノ京北町に堂宇を建立し、道真自作の天満自在天像を安置したことに始まる。また北野天満宮のご由緒には
平安時代中期多治比文子らによって北野の右近馬場に菅原道真公の御霊をお祀りしたのが始まりとされています。
とあり、多治比文子が北野天満宮の創設に携わったことが分かる。
多治比文子は生年も没年も不詳の平安時代中期の女性である。童女とも巫女とも道真の乳母とも言われ、北野天満宮の公式HP(http://www.kitanotenmangu.or.jp/news/11.html : リンク先が無くなりました )でも、西ノ京七条二坊十三町住んでいたとしている。この右京七条二坊十三町は現在の西大路七条あたりとなり、この文子天満宮からかなり西に外れている。また菅原道真が生まれたのが承和12年(845)で、北野朝日寺の僧最鎮と相談して祠を設けたのが天暦元年(947)とされている。この時間の流れからすると、多治比文子が道真の乳母であったとは、とても考えることができない。この二つの点は、どうしても説明がつかない。
このような経緯から文子天満宮は北野天満宮の前身神社と称されている。
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