文書と写真・地図による「記憶」の再現

満願寺



日蓮宗 満願寺(まんがんじ) 2008/05/12訪問

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満願寺 山門

 白河院から1ブロック、北西100メートルの場所に満願寺がある。ここは観光寺ではなく、自由に境内に入れる。山門をくぐると正面に大きな本堂があり、その本堂の前左手に文子天神、右手に閼伽井がある。
 山門を見れば分かるように満願寺の山号は示現山、日蓮宗に属する寺院である。
 寺伝によると天慶3年(940)多治比文子が菅原道真の霊夢を感じ、北野朝日寺の僧最珍を開基に請じて西ノ京北町に堂宇を建立し、道真自作の天満自在天像を安置したことに始まる。

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満願寺 文子天神

 多治比文子は生年も没年も不詳の平安時代中期の女性である。童女とも巫女とも道真の乳母とも言われ、右京七条二坊十三町に住んでいたとされている。右京七条二坊十三町は現在の西大路七条あたりとなる。
 北野天満宮のご由緒には
「平安時代中期多治比文子らによって北野の右近馬場に菅原道真公の御霊をお祀りしたのが始まりとされています。」

とあり、北野天満宮の創設に携わったことが分かる。

 文子天満宮旧址が上京区北町にある。旧址というように明治6年(1873)に北野天満宮の境内に遷宮するまでは、この地に文子を祀る社があった。遷宮後の明治35年(1902)に小祠を建て御旅所とし、4月12日から16日まで神輿を奉安した。北野天満宮の公式HP(http://www.kitanotenmangu.or.jp/news/11.html : リンク先が無くなりました )では、文子天満宮祭を紹介するとともに、この地(西ノ京七条二坊十三町)に多治比文子が住んでいたと記している。天暦元年(947)に北野天満宮に祀るまでの間、文子は自分の邸内に仮の叢祠を作り祭祀したといわれているので、その点では一致するが、地理的にはどうも説明ができないように思う。北野天満宮が創設されるまでに祠が何回作られたかは分からないが、西ノ京北町に文子天満宮が存在し、それを北野天満宮が認めて遷宮したことは事実である。
 満願寺の寺伝は、この西ノ京北町に文子天満宮が創設されたことに関係しているようにも思えるが、どうも多治比文子と満願寺創設の関係が良く分からない。上京区今小路通御前通西入上ル観音寺門前町に朝日山 東向観音寺が現在もある。延暦25年(806)桓武天皇の勅願により藤原小黒麿らが皇城鎮護のために建立され「朝日寺」と称されていた。後に北野天満宮に携わった最珍もこの朝日寺の僧である。応和元年(961)筑紫の観世音寺より、菅原道真作の十一面観音菩薩を請来し安置している。このように満願寺の寺伝によく似た経緯が東向観音寺にも残されている。なお東向観音寺は応長元年(1311)無人如導宗師により中興された際に、筑紫の観世音寺に因んで観世音寺または観音寺と改称している。また天満宮御本地仏、北野神宮寺または奥之院とも呼ばれ、神仏習合思想に基づき北野天満宮と強い結びつきがある神宮寺のような存在であったと思われる。

 満願寺は、はじめ真言宗であった。元禄10年(1697)宗遍僧正が遠沾院日享上人に帰依して日蓮宗に改宗し、同13年 東山天皇のとき勅願寺となり、同14年にこの地に移って堂宇を建立した。
 この地は日蓮上人が吉田の神道伝授のとき寄宿したところといわれ、本堂には法華首題牌と釈迦・多宝両如来像のほか、祖師堂に本妙寺分身の日蓮像を安置している。

 境内の南にある閼伽井は法勝寺の井戸といわれ、法勝寺執行俊寛僧都の住んだ跡という石碑もある。俊寛僧都とは、平安時代後期の真言宗の僧。村上源氏の出身で、木寺(仁和寺院家)の法印寛雅の子にあたる。後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあったが、安元3年(1177)6月に鹿ヶ谷で行われた平氏打倒の密議に加わったことが露見して、藤原成経・平康頼と共に薩摩国 鬼界ヶ島へ配流された。平家物語巻第一の「鹿谷」、「俊寛沙汰」には、事件の経緯とその後の俊寛が記されている。

 白河院のところでも触れたように、この満願寺も法勝寺の境内だったことは十分に考えられる。

拾遺都名所図会には、
「満願寺〔下岡崎東側にあり。開基は日亨上人、元禄年中の建立なり〕
閼伽井〔堂前の南にあり、是法勝寺の閼伽井といふ〕
文子天神〔当寺の鎮守なり、堂前の北にあり。初は北野にあり、後世こゝにうつす。中御門院御祈願ありて社壇拝殿御造営あり〕」

と記され、ほぼ現在の満願寺と同じ図会が見える。これと花洛名勝図会に記されていることを加えるとほぼ寺伝の内容が現れてくる。
 満願寺の妙見様は当初、法勝寺旧跡にあった本光寺に祀られていたが安永3年(1774)の大火により本光寺が焼失したため移され、洛陽二十八宿妙見の一つに数えられていた。
 北極星は地軸の延長上にあるため常に北天の中央に位置し、他の星や星座は北極星を中心として回転してきた。古代中国では全宇宙を司る星として見なされ、最高神が割り当てられ崇拝されてきた。
 このような思想が仏教に受け継がれ、妙見菩薩は天帝と見なす北極星を神格化したものとなった。もともと「妙見」とは「優れた視力」を意味し、善悪や真理をよく見通す者を指し示す。そのため妙見菩薩は他のインド由来の菩薩とは異なり、大黒天・毘沙門天や弁才天などと同じ天部に分類される。
 日本においては密教や修験道で、妙見菩薩を勧請しての国家鎮護・除災招福の祈願が盛んに行われたようだ。また日蓮上人が伊勢常明寺に滞在中、北辰妙見菩薩が姿を顕したという伝承もあり、妙見菩薩と日蓮宗の関わりは深かったと思われる。現在も妙見菩薩は密教系の真言宗、天台宗と並び日蓮宗の寺院に祀られていることが多い。

 江戸時代初期、能勢妙見には近畿一円より人々が訪れるなど妙見詣が広まっていった。江戸時代中期には、京でも妙見巡りが盛んになり、文政年間(1818~1829)には洛陽二十八宿妙見ができたと言われている。しかし明治の廃物棄釈・神仏分離によって忘れ去られていった。昭和61年(1986)、妙見菩薩を祀る日蓮宗の11寺院と臨済宗1寺の12の寺院により、江戸中期の妙見巡りを参考にして洛陽十二支妙見巡りが復興された。これは京都御所を中心に十二支の方角に祀られた妙見菩薩を十二支の順にお参りするものである。
     01 子 西陣の妙見宮     善行院

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満願寺 本堂

「満願寺」 の地図


大きな地図



満願寺 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
 満願寺 35.0149 135.7867
01  洛翠 35.0127 135.7895
02  白河院 35.0137 135.7878

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