詩仙堂丈山寺 その2
曹洞宗大本山永平寺派 詩仙堂丈山寺 (しせんどうじょうざんじ) その2 2008年05月20日訪問
山茶花の樹の元に小有洞の扁額が掛かる表門がある。これを潜り境内に入っていくと、両側の竹林の中を石段と真直ぐ伸びる参道が見える。突き当りの石垣を左に曲がると老梅関という中門が建物の前に現れる。雲形の2つの窓の左側は、蜂腰の額の架かる玄関である。この玄関はやや低く、蜂のように腰をかがめて出入りしたため名付けられている。残念ながら現在の拝観順路から外されているため、この玄関から入ることは出来ないが、この玄関越しに詩仙堂の有名な庭園が開けている。
建物の内部に入る。西側の8畳と6畳間を合わせた座敷は、縁が南側から東側に巡らされている。この座敷の名称は何と呼ぶのだろうか?詩仙堂の公式HPの写真のキャプションには至楽巣あるいは猟芸巣と書かれているが、境内図では詩仙堂の東側の座敷を指している。増田建築研究所の公式HP内に掲載されているJAPANESE ARCHITECTURE IN KYOTOの詩仙堂(http://web.kyoto-inet.or.jp/org/orion/jap/hstj/sakyo/shisendo05.html : リンク先が無くなりました )では書院 祠仙頑としているので、こちらが正しいのではないかと思う。ところで詩仙堂の公式HPの記述はどうも良く分からないことが多い。蜂腰は玄関のこととも読めるが、安永9年(1780)に刊行された都名所図会には詩仙堂について下記のようなことが記されている。
「詩仙堂は一乗寺村天王に至る南方にして、石川丈山の山荘なり。表に小有洞の額あり、中門の額は梅関、路次の額は凹凸■、詩仙堂の額、上は嘯月楼下は蜂要、四壁には漢晋唐宋の詩人三十六輩の像を画、則其人の詩を丈山みづから書して、画は狩野尚信とぞ、故に詩仙堂といふ。」
ここでは蜂腰は建物の1階部分の名称としている。確かに2階部分の名称を嘯月楼とするとそれに対するものが見当たらないのも不思議である。また都名所図会では36歌仙を描いたのを狩野探幽の弟の尚信としているのも面白い。
この書院と広縁の欄間部分には障子が入れられているため、白砂の照り返しを室内に良く取り込めるようになっている。特に外壁に障子を入れるのは珍しい例だと思う。外部に面した開口部の建具は一重なので、雨戸を入れるのみであると推測する。この辺りは、撮影した写真では分りづらいので、tolliano-papanさんのブログ トリアーノ・リーヴ・ゴーシュ に掲載されたパノラマ写真をご参照下さい。この書院の西南には床が作られ、福・禄・寿の三幅対の軸が掛けられている。これは丈山が寛文3年(1663)に隷書で書いたものとされている。
書院の東の4畳半の座敷は、この寺院の寺号のもととなる詩仙の間と呼ばれている。中国の漢晋唐宋の詩家36人の肖像を狩野探幽が描き、丈山が詩を書いて長押の上部の小壁に9枚づつ四面に掛けてある。これは日本の36歌仙に影響を受けたものと思われる。この36詩仙の選定にあったては親交のあった林羅山にも意見を求めたらしく、詩人の特徴によって2人ずつ対になるように選定し、堂内でもそのように掲げている。ちなみに丈山の選定した36詩仙とは下記の通りである。
蘇 武-陶 潛 謝霊運-鮑 照
杜審言-陳子昂 李 白-杜 甫
王 維-孟浩然 高 適-岑 参
儲光羲-王昌齢 韋応物-劉長卿
韓 愈-柳宗元 劉禹錫-白居易
李 賀-盧 仝 杜 牧-李商隠
寒 山-霊 澈 林 逋-邵 雍
梅尭臣-蘇舜欽 欧陽脩-蘇 軾
黄庭堅-陳師道 陳与義-曽 幾
この部屋にも床が設えられ、丈山の書が掛けられているが、もうひとつ印象深いものは壁に掛けられた大きな木製の扇の飾りである。何でこのようなものがあるか分らないが、非常に存在感がある。
詩仙の間の東に続く6畳間の至楽巣は丈山の書斎として使われていたもので、初めは猟芸巣と呼んでいた。
この至楽巣と隣の6畳間(名称不明)も開け放たれているので、一つの部屋として使われることがあったのだろうか。
さらに祠仙頑の北側にある階段を昇ると2階の嘯月楼に至る。勿論拝観順路に入っていないため、実際に見ることはできない。この嘯月楼は東に円形の開口部、それ以外の3方向も開口部を持つ構造で、望楼建築の特色を良く表している。現在とは異なり、当時は京都市内の眺めは素晴らしかったものと思う。
ところで庭園側から詩仙堂の建物を見ると、瓦葺部分と萱葺き部分が合わさっていることに気がつく。玄関から祠仙頑と嘯月楼までの西半分は瓦葺となっているが、詩仙の間と至楽巣から東側は萱葺きとなっている。そして、萱葺きの北側の公開されていない部分と詩仙の間と至楽巣の縁に掛かる屋根部分は再び瓦葺となっている。
瓦葺屋根は比較的屋根勾配が浅くても構わないが、萱葺き屋根だと屋根勾配をきつくしなければならない。もし詩仙堂の建物を全て萱葺きで計画したら、2階の嘯月楼の位置が現在の位置より、かなり高くなると思う。そのため瓦葺と萱葺きを合わせて使用したのではないだろうか?
詩仙堂の書院南庭園は、多くのテレビCMに出たため、非常によく知られている。白砂を敷き詰めた庭の向こうには、躑躅の刈り込みが配され、その先は濃い緑の木々が植えられている。1階の書院からは木々の先にある京都市内の眺めは得られない。見えるものは白砂と刈り込み、そして木々である。白砂は書院から刈り込みに向かい砂紋が作られているため、庭を眺める者は縁の先端で左右を見渡すと言うよりは、少し書院の奥に座り砂紋に沿って庭と正対する。白砂の部分は方形でもなく、面積もそれ程大きなものではない。詩仙堂の建物が建てられている平面がそれ程広くなく、刈り込みの先は棚田状態になっていることは、庭園に下りてみると分かる。この庭は狭小な土地を工夫して見せている。石川丈山は東本願寺の渉成園の作庭も手がけたとされている。市内の平坦で広大な土地での作庭と、この詩仙堂の作庭ではかなり異なる。特にこの地形では、小川の流れは引き込めても大規模な池泉を築くことが容易でないことは修学院離宮の上御茶屋を見れば分かる。一介の隠居した老人の棲家にそのような作庭は不可能である。それでも渉成園と詩仙堂に感じる共通点は、丈山風に解釈された中国趣味の建築ではないだろうか? 書院南の庭園の東側は白砂を敷かれず、刈り込みのみの庭となっている。手水鉢といくつかの石組み、小ぶりな石塔、そして詩仙の間の縁の足元には小さな池が作られている。これらが広い刈り込みの面の中に顔を出している。特に石塔は緑の刈り込みの中に頭だけを出し、座敷からの眺めのアイストップ役となっている。
建物から庭園に出ると、丈山が凹凸窠と呼んだ理由がすぐに分る。書院南側に広がる美しい白砂と刈り込みの庭園の先に進むと、石垣を築いて盛土をして台地を作り出していることが見て取れる。さらに滝水が流れ込む浅い池である流葉はく(さんずいに陌)の先には僧都が設けられている。添水あるいは鹿威しは、時折り響く高い音により、鹿や猪の進入を防ぐという目的で使われてきたが、この庭園に敢えて置いた丈山のセンスは素晴らしいと思う。人里から離れた地に庵を結び、この下部の庭園部分を民家の農地と見立てた演出である。遠く下のほうから響く鹿威しの音を聞くことにより、世俗から離れた我が身を確認できたのではないか。また静寂な書院と庭園の中に音を持ち込むことで時間の流れを意識できるようにしているとも言える。この後、鹿威しを庭園に持ち込む事例が増えてくる。
百花塢と呼ばれる下段の様々な花を配した庭は、現在は綺麗に整備されているが、当時はもう少し野趣に富む庭であったのではないだろうか。また詩仙堂の庭には残月軒という比較的新しい建物や十方開坐禅堂、供養塔が建てられている。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会には詩仙堂の図会は、庭園側が見えないものの、小有洞、梅関、嘯月楼などの位置関係が正確に描かれている。
石川丈山を後水尾上皇や公家の動きを監視していたという説が江戸時代の頃から囁かれてきたようだ。これは修学院離宮の南、白川通を望む高台を選び、嘯月楼という楼閣を建設している。その上、東側に明けられた丸窓を含めると4方向を眺めることが可能となっている。
確かに丈山は寛永18年(1641)に詩仙堂を建設し、その後寛文12年(1672)90歳で没するまでの生活費をどこで得ていたか分からない。徳川幕府の朱子学を築いた林羅山と親交が深く、また先にもあげたように徳川幕府と関係が強い渉成園の作庭も手がけている。このように状況が揃うと丈山スパイ説も真実味を持ってくる。
修学院離宮は明暦2年(1656)に着手し、万治2年(1659)に第1期として下御茶屋が完成している。そして第2期の浴龍池造成が寛文元年(1661)に竣工している。そして第3期として止々斎、洗詩台ならびに雄滝を加えることで、寛文3年(1663)に造営が完了したとされている。そして中御茶屋は寛文8年(1668)より後水尾院の皇女の緋宮光子内親王の山荘として営まれている。この時間の流れから分かることは、後水尾上皇が修学院離宮の造営を思い立つ以前に、石川丈山は既に詩仙堂を建立していたことだ。決して修学院離宮を監視するために嘯月楼を建設した訳ではない。
では後水尾上皇と石川丈山の接点がなかったかと言えば、寛政10年(1798)三熊花顛による続近世畸人伝に以下のような逸話が残されている。
「後水尾帝其風流を聞し召てめされしかど、固く辞奉りて、
わたらじなせみの小川の浅くとも老の波たつかげははづかし
と申上ければ、燐み思し召、心にまかせよと勅ありしが、殊に此歌の波たつを、波そふ。と雌黄を下し給ひしも忝し。」
なお丈山は詩仙堂の望楼から狼煙を上げ、鷹峯の野間三竹と互いの無事を伝え合うため連絡をとっていたという説まである。いずれにしても謎が多く、常人には考え及ばない人物であったため、いろいろな噂が立ったのであろう。
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