国立京都国際会館
国立京都国際会館 (こくりつきょうとこくさいかいかん) 2008年05月20日訪問
宝ヶ池の北側に昭和41年(1966)建設された国立京都国際会館へは、いつかは訪れなければいかないと思いつつ、なんとなく足が向かないまま未訪問のままであった。それは地理的な理由もあったが、むしろどうしても見なければという積極的な気持ちを欠いていたためであろう。今回も近くまで来たついでに遠くからだけでも眺めておこうという気楽な気分になれたためである。
戦後の建築設計競技は、昭和23年(1948)の世界平和記念聖堂と広島平和記念公園、昭和27年(1952)丸の内の東京都庁舎、昭和29年(1954)国立国会図書館、そして昭和38年(1963)の京都国際会館と国立劇場、昭和43年(1968)最高裁判所庁舎、昭和45年(1970)箱根国際観光センターなどは、建築を学ぶ以前に行われたもので、設計者としての目で見たというよりは教科書の中の出来事という感が強い。だから自分の中では、自ら手を動かした昭和61年(1986)の新国立劇場や平成元年(1989)の東京国際フォーラムなどとは、区別する意識が強くある。
上記のように国立京都国際会館は昭和38年(1963)に建築設計競技が行われ、大谷幸夫案が選出される。この設計競技は京都という立地のため、日本的デザインの現代化がひとつのテーマとなった。1950年代の伝統論争は既に峠を越したものの、東京オリンピックや大阪万国博覧会のような国家的プロジェクトが計画される中、どうしても日本的ということを無視する訳にはいかなかったのが1960年代だったように思う。また審査員に丹下健三や前川国男が入ったため、建築設計競技はメタボリズムを推進する若手設計者達の登竜門と化した。
台形を組み合わせた大谷案は、農村に見られる稲掛けをモチーフとしたとされている。菊竹清訓案の斗供で迫り出した構造体は巨大でありながら細部に日本建築を思わせるものがあった。その他にも芦原義信の低層案、大高正人の祠状の大屋根を持った大会議場案など、実に多彩な提案がなされた。その中で六次に渡る審査会を通して大谷案が選出され、現在私達の眼前に建つ。この時代、日本的と言うことを真剣に考え熱く語り合ったが、私達はその結実を得ることができたのであろうか?
7人の設計者による国際指名コンペ方式で設計されたJR京都駅も平成9年(1997)に竣工する。機能と場所的なものから、都市の城門という暗喩が多発し、「日本的なものとは?」が薄らいでしまった感が強い。また一般の論調も平成6年(1994)に竣工した京都ホテルの高層棟が影響し、高さ制限と景観論争に終始したという印象が残る。
また落選したにも関わらず、建築界には菊竹案に対する評価が高かった。そのため設計競技において当選案が一番優れたものとは限らないということも語られた。事実、その後の最高裁判所庁舎における渡邊洋治案、箱根国際観光センターにおける吉阪隆正案、そして東京都庁舎における磯崎新案などが、実現した優秀案を超えるものとされてきた。確かにこの宝ヶ池の地には、菊竹清訓による設計案が建つべきであったと今でも信じている。
そのような遠い昔のことが残滓と残るこの地に足が向かなかったのかもしれない。
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