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洛中の町並み その11 油小路通2



洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ)その11 油小路通2 2009年1月11日訪問

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洛中の町並み 油小路通 正面通の町並み

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洛中の町並み 油小路通 天満屋事件跡

 中井正五郎殉難地を過ぎてさらに南に進む。正面通と交わる角に伊東忠太が設計した西本願寺伝道院が建つ。改修工事の仮囲いがあったためか、撮影した写真の中に映像が残っていなかった。現在(2011年8月)は改修工事も終了し、一般に公開されているようだ。日を改めて訪問したい建物のひとつである。
 伝道院は明治45年(1912)に真宗信徒生命保険会社の社屋として建築されている。レンガ造りの2階建で正面および東面に塔屋が付き、また北面および西面には通りに面して石造柵柱が配されている。明治28年(1895)伊東は平安神宮を木子清敬のもとで手掛けている。そして明治26年(1893)に法隆寺建築論を発表し、同30年(1897)帝国大学工科大学講師に就任している。明治35年(1902)から建築学研究のため、中国、インド、トルコを廻る3年間留学に出ている。そして明治38年(1905)欧米経由で帰国し、東京帝国大学教授に就いている。伊東の作品が世に出るのは、この後である。大倉喜八郎の求めに応じ昭和2年(1927)大倉集古館と祇園閣を設計している。昭和5年(1930)には震災祈念堂と靖国神社の遊就館、昭和9年(1934)に築地本願寺と湯島聖堂を創っている。この伝道院は、これらの伊東の作品群の中では比較的初期のものに入る。

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洛中の町並み 油小路通 正面通の町並み

 上記のように伊東は、明治35年(1902)から中国、インド、トルコを巡る旅に出ている。この時期は、浄土真宗本願寺派(西本願寺派)第22世法主・大谷光瑞による大谷探検隊(第1次)にも一致するため、この旅で伊東は大谷光瑞に出会ったとされている。それが明治41年(1908)神戸六甲山麓岡本に立てられた二楽荘につながっていく。もともと、探検収集品の公開展示・整理のため建てられた施設であるが、その構想は拡がり学生の教育をおこなう私塾・武庫中学、図書館兼宿舎(巣鶴楼)、測候所なども持つ大谷の文化活動の拠点となっていった。伊東忠太は、この二楽荘の設計に携わったとされている。
 しかし大正3年(1914)本願寺に関する疑獄事件が起こり、同年3月には二楽荘と武庫中学も閉鎖されている。大谷光瑞も西本願寺住職・本願寺派管長を辞任し、二楽荘を大阪の富豪で旧知の久原房之助に売却している。その後、二楽荘は荒廃し、昭和7年(1932)に不審火で焼失している。

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洛中の町並み 油小路通 西川油店
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洛中の町並み 油小路通 いろいろな種類の油

 話を再び伝道院に戻す。伝道院は二楽荘に次いで、浄土真宗本願寺派が伊東忠太に設計を依頼した作品となる。そして大谷光瑞が失脚した後も、昭和9年(1934)の築地本願寺建設へと関係はつながっていく。
 伝道院は昭和63年(1988)に京都市の指定有形文化財として指定されている。この頃から雨漏りが生じるなど建物の老朽化が進み、ついに平成11年(1999)外壁のテラコッタが落下する恐れから、足場が架けられるようになっている。ここからおよそ10年間、改修工事も着工されることなく、据え置かれていたように見えた。しかし平成17年(2005)年に親鸞聖人750回大遠忌宗門長期振興計画が策定され、伝道院の新たな活用計画が見出されて、かつての姿を取り戻すこととなった。

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洛中の町並み 油小路通 七条通の辻
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洛中の町並み 油小路通 本光寺の山門

 正面通を過ぎ、さらに油小路通を南下していくと、小さな寺院の山門が左手に現れる。慶応3年(1867)11月18日伊東甲子太郎が新選組による襲撃を受け、本光寺の門前で絶命したとされている。おそらく、伊東甲子太郎外数名殉難跡の石碑が建っていなければ、通り過ぎてしまうくらい目立たない寺院である。そして新選組は伊東甲子太郎の遺体を七条通の辻に移動し、御陵衛士が現れるのを待ったとされている。いわゆる油小路事件である。本光寺は七条通と塩小路通の中間にあるため、これから行く不動堂村屯所の近くにあった近藤勇の妾宅から出て、すぐに暗殺されたのであろう。そして遺体を目立つように屯所から離れた七条通の辻に移動させている。 そして塩小路通を過ぎると右手にリーガロイヤルホテル京都が現れる。このホテルのエントランス前に、新選組の不動堂村屯所の跡を示す碑が建つ。

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洛中の町並み 油小路通 リーガロイヤルホテル京都
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洛中の町並み 油小路通 不動堂村屯所跡の碑
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洛中の町並み 油小路通

 不動堂村に新選組の屯所が建てられたのが慶応3年(1867)6月15日とされている。油小路通事件が起きたのが同年11月18日で、天満屋事件は12月7日。そして新選組が不動堂屯所を閉め、伏見奉行所へ移ったのが12月14日のことである。そして慶応4年(1868)1月3日に鳥羽伏見の戦いが始まり、2度と新選組として京の地を踏むことはなかった。この僅か6か月の間には、大政奉還(10月14日)や王政復古(12月9日)という歴史の変革を告げるものもある。実に濃密な時間帯であるにも関わらず、新選組はこの油小路通の近くの不動堂村屯所を本拠地とし、内部抗争に近い暗殺に終始している。万民が良く知る新選組であっても、歴史家によって適正に評価が行われてこなかった一因でもあるだろう。

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洛中の町並み 油小路通 不動堂村屯所跡の碑

「洛中の町並み その11 油小路通2」 の地図





洛中の町並み その11 油小路通2 のMarker List

No.名称緯度経度
 中井正五郎殉難地(天満屋跡) 34.9921135.7537
 本光寺 34.9881135.754
 リーガロイヤルホテル京都(不動堂村屯所の碑) 34.9865135.7528
  油小路通01 34.9937135.7537
  油小路通02 34.9903135.7537
  油小路通03 34.9882135.7538
  油小路通04 34.9864135.7537
  油小路通05 34.9856135.7537
  油小路通06 34.985135.7536
  油小路通07 34.982135.7537
01  顕道会館 34.9929135.7539
03   伝道院 34.9913135.754
04  七条油小路の辻 34.9893135.7538

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