本光寺
日蓮宗 実相山本光寺(ほんこうじ) 2009年1月11日訪問
正面通を過ぎてさらに油小路通を南に下ると七条通に出る。現在の七条通は4車線の大通りとなっているが、これは大正から昭和に入ってから行われた都市計画事業によって西大路通までが拡幅された結果である。そして京都市電七条線が敷設された。そのため幕末の七条通は現在の中央線から南側で、北側に向かって拡幅されたようだ。新選組はこの七条油小路に伊東甲子太郎の遺骸を移し、御陵衛士をおびき出した。油小路事件の後半部分は、時系列に合わせて記すため本光寺の項の後に触れることとする。
七条通を渡りさらに油小路通を進むと、油小路町の地名が見える。木津屋橋通の手前左手に本光寺の小さな山門が現れる。慶応3年(1867)11月18日の夜、この門前で伊東甲子太郎は絶命している。
既に高台寺塔頭や禁裏御陵衛士墓所の項で触れたように、伊東たちが御陵衛士を拝命したのは慶応3年(1867)3月10日のことであった。この前年末の12月25日に孝明天皇が崩御し、慶応3年(1867)1月27日 後月輪東山陵に奉葬されている。御陵衛士はこの孝明天皇陵を護ることを目的として結成されている。しかし御陵の警備や守衛という意味ではなかったようだ。確かにヒロさんのHP 誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士に掲載されている御陵衛士の年表を見ても、そのような形跡がないほど多くの政治活動をこなしていることが分かる。伊東等が懇意にしていた泉涌寺の塔頭・ 戒光寺の堪念長老に頼み、朝廷に掛け合い拝命に至ったとされている。身分としては、幕府山陵奉行・戸田忠至の配下となっている。山陵奉行とは山陵の管理と修補を行う江戸幕府の職であったが、任命権は朝廷にある。そのため御陵衛士は朝廷と幕府の両面を兼ね備えた位置づけであった。拝命後の慶応3年(1867)3月12日、伊東は近藤らと分離策について話合い、了承を得ている。また15日には京都町奉行大久保主膳、会津藩公用人野村左兵衛と会談し、離脱は了承されている。そして伊東甲子太郎を始めとして、実弟の鈴木三樹三郎、篠原泰之進、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助、富山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、加納鷲雄、中西昇、橋本皆助、清原清、新井忠雄、そして斎藤一が新選組から離脱して御陵衛士を結成する。
新選組離脱後の御陵衛士は、三条城安寺、五条善立寺(あるいは長円寺)に屯所を設けている。そして有名な高台寺月真院に移ったのは慶応3年(1867)6月のこととされている。
伊東甲子太郎は、天保6年(1835)常陸志筑の鈴木専右衛門忠明の長男として生まれている。父忠明の隠居を受けて家督を相続するも、父の借財が明らかになったことから志筑を追放されている。その後、水戸へ遊学し金子健四郎より神道無念流の剣術を学ぶ。この時期、水戸藩士でない伊東も水戸学に触れることで勤王思想に深く傾倒している。遊学の後、父の開いた村塾の教授を経て江戸に出る。深川佐賀町の北辰一刀流剣術伊東道場に入門している。時期不明であるものの文久2年(1862)頃には、師匠の伊東精一に力量を認められ婿養子となっている。後に同志となる加納鷲尾、内海次郎、中西登そして藤堂平助らが伊東道場に出入りしていたのもこの頃である。元治元年(1864)天狗党筑波挙兵の報せを聞き助勢に傾くも、挙兵自体が藩内の内部抗争であり真の攘夷でないことに気付いたのか断念している。伊東の考えの根底には水戸学があるが、天狗党のような激派とは異なっていたようだ。このあたりの志向が直線的な尊王倒幕ではなく御陵衛士へとつながっていったのではないか?
この元治元年(1864)6月5日に池田屋事件、そして7月19日に禁門の変が起きている。新選組も新規隊士の募集を行い、組織の拡大を図っている。同年9月頃、近藤勇と出会い新選組へ合流し、10月27日上洛している。この10月には第一次長州征討が行われるが、国司信濃・益田右衛門介・福原越後三家老の切腹と三条実美ら五卿の他藩への移転により12月には終結している。
新選組合流後の伊東は長州訊問使・大目付永井尚志に随行として、近藤と共に慶応元年(1865)11月京都を出立し、広島に向かった。さらに岩国において長州入りを交渉するが拒絶され、同年末に京都に戻っている。翌慶応2年(1866)1月、再び近藤と共に長州処分通達のため広島に派遣される。近藤は土方に新選組を任せ、2度に渡り伊東と共に長州との交渉に臨んでいる。伊東の見識の広さと弁舌に期待したのであろう。既に新選組を運営していく上で政治的な行動も要求されるようになり、武辺一辺倒では立ち行かなくなっている。
この時も前回同様、不調に終わり3月末には伊東は京に戻っている。実際に長州戦争が始まるのは、さらに先の6月7日である。そして7月20日には第14代将軍徳川家茂が亡くなっている。代わって徳川慶喜が全軍の指揮を執るも挽回を果たせず、9月2日に幕府と長州藩の間に停戦が合意される。
離脱後の伊東達は、大宰府で七卿落ちした三条実美や東久世通禧への面談、京で陸援隊の中岡慎太郎と会談を行っている。そして長州寛典の建白書をまとめている。この建白書の主旨は島津久光、伊達宗城、山内容堂、松平春嶽達の四侯会議の意見に近いものがある。四候会議は慶応3年(1867)5月に行われるが、徳川慶喜の巻き返しにあい5月23日の朝議によって兵庫開港および長州寛典論を奏請し、明治天皇の勅許を得ることが決定する。これを以って四候会議は崩壊し、薩摩藩は公議路線から倒幕路線あるいは、反一会桑色を強めていく。伊東の意見は、必ずしも薩摩藩の倒幕路線と一致するものではなく、むしろ松平春嶽や山内容堂に近かったようにも思える。
慶応3年(1867)11月18日、新選組局長の近藤勇は、国事談合を口実に伊東を七条醒ヶ井の妾宅に呼び寄せた。11月15日に坂本龍馬と懇意にしていた中岡慎太郎が襲撃され絶命しているにも関わらず近藤の申し入れを受け入れたのには、危険を感じていたものの志士として国事談合を避けることが出来なかったのであろう。また伊東にとって新選組の標的となるような過激な倒幕活動を行ったという認識がなかったのかもしれない。しかし新選組に反復した斎藤一に依ってもたらされた近藤暗殺計画あるいは新選組屯所襲撃計画が伊東暗殺に導いたとされている。このような計画が実在したかは疑問である。また反復した斎藤の捏造説や、新選組による油小路事件の真相捏造かも知れないが、この幕末の情勢にあって、そのような情報が新選組に入れば反撃行為に出ることは想像に難くない。政治的には排除する必然性がなくても、組織防衛あるいは伊東に対する近親憎悪の念によって伊東暗殺計画は実行に移された。
現在では堀川通が6車線に拡幅されたため、堀川通と油小路通の間に存在していた醒ヶ井通の痕跡を七条で見つけることは困難である。もともと平安京には醒ヶ井通は存在していなかった。豊臣秀吉による天正の地割で新設されている。堀川五条にあり名水として知られた井戸「佐女牛井」が通り名の由来となっている。そのため近藤の妾宅があったとされる七条醒ヶ井は現在の七条堀川の交差点の近傍であったと思われる。
歓待された伊東甲子太郎は酩酊し、帰営するため木津屋橋通を東に歩を進めていた。禁門の変で焼けた跡を囲んだ板塀の内側から繰り出された槍によって喉を突かれた。北辰一刀流の腕前を持つ伊東も抜き合って戦うものの、瀕死の重傷を受け本光寺の門前にある題目石に倒れ掛かり、「己れ奸賊ばら」の一言を残し絶命する。
石田孝喜氏の幕末京都史跡大辞典(新人物往来社 2009年刊)によると、天和元年(1681)日尭の開基で、本尊に題目宝塔釈迦多宝仏像を安置する実相山本光寺は、日蓮宗の尼寺であったため俗称法華寺と呼ばれていた。この一帯の町は、慶長7年(1602)に二条大宮付近の人家を移した頃に始まる。
訪問した時は山門前の鉄扉は開いていたものの木戸が閉まっていた。インターホーンを押してみたものの反応はなかった。京都観光Naviによると、拝観は9時30分から17時で事前に予約しておいたほうが良かったようだ。伊東が倒れ掛かった門前の題目石塔は山門内に移され、その替わりに門前には伊東甲子太郎外数名殉難跡の石碑が昭和46年(1971)に建てられている。
なお伊東を襲撃したのは大石鍬次郎、宮川信吉、横倉甚五郎らとされている。宮川は近藤の従弟で、12月7日に先に触れた天満屋事件で討ち死にしている。日数にして1ヶ月先、距離にして500メートル先の場で命を落とすとは思ってもいなかったことであろう。
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