地蔵寺
浄土宗 久遠山 地蔵寺(じぞうじ) 2009年12月20日訪問
春日神社・下桂から、再び京都府道142号沓掛西大路五条線に出て、阪急嵐山線の桂駅を目指して進む。桂川街道を越えてすこし歩くと、右手側に地蔵寺が現れる。門前に立てられた京都市の駒札によると、浄土宗の寺院で、京都六地蔵巡りの霊場であることが分かる。
京都六地蔵巡りは、8月22日、23日の両日に都の入口にあたる街道にある六ヶ所の地蔵を巡拝ひ家内安全、無病息災を祈願する風習。各寺で授与された六種のお幡を住戸の入り口に吊すと、厄病退散、福徳招来するといわれいる。六ヶ所の地蔵尊とは以下のとおりである。
奈良街道 大善寺 伏見六地蔵 伏見区桃山町西町24
西国街道 浄禅寺 鳥羽地蔵 南区上鳥羽岩ノ本町93
丹波街道 地蔵寺 桂地蔵 西京区桂春日町9
周山街道 源光寺 常盤地蔵 右京区常盤馬塚町1
若狭街道 上善寺 鞍馬口地蔵 北区鞍馬口通寺町東入ル上善寺門前町338
東海道 徳林庵 山科地蔵 山科区四ノ宮泉水町16
一般的に言われている京の七口とは一致しないが、奈良街道・五条口(伏見口)、西国街道・東寺口(鳥羽口)、丹波街道・丹波口、周山街道・長坂口、若狭街道・鞍馬口、東海道・三条口(粟田口)に割り当てることが出来そうだ。
大善寺に残る「山城州六地蔵菩薩縁起」(寛文5年(1665))によると、平安時代の参議小野篁と満慶上人が共に冥土に赴き、そこで出会った生身の地蔵の姿をこの世に帰って後に六体の像に写したものが六地蔵であった。木幡に建てられた六地蔵堂に安置されていたが、後白河院の御世に京中六ヶ所の街道の入り口に移されたとしている。松山由布子氏の「京都の都市民俗と伝承世界─民俗行事における小野篁伝承の役割とその展開について」によると、後世の地誌によって六地蔵は小野篁の作で、これを保元2年(1157)平清盛が移したとしていることが分かる。例えば「山州名跡志」(新修 京都叢書第十八巻 山州名跡志 乾 光彩社 1967年刊 411頁)にも、大善寺の条の次に六地蔵堂として小野篁伝を引用して下記のように記している。
文徳天皇ノ御宇仁寿二年壬申二月三日ニ当テ小野篁冥土ニ至ルニ。地蔵薩捶諸罪人ノタメニ。分身シテ済渡シ玉フヲ親リ拝シ皈テ。其結縁ヲ以テ末世ノ群生ニ施ンタメ。一木ヲ以テ手ラ六道能化ノ姿ヲ造立ス。然後同二十二日ニ卒ス五十一歳
天皇詔ヲ下シテ於二テ此地一ニ仏閣ヲ建立シテ件ノ六体ヲ安置シ玉フ。是故ニ里ヲ六地蔵トイフ。余五体像如レ今他所ニ置クコトハ。保元二年春平清盛入道ノ志願ナリ。其所レ安諸方ヨリ帝都ニ至ル路口也。絡繹ノ道俗ヲシテ。弘ク可レ令二結縁謂一ナリ。毎歳七月二十四日当国ノ男女其所々ニ巡詣ズ云二フ六地蔵巡一ト。
其地
山科 御菩薩池 鳥羽 常磐 桂 当寺是也。相国公造営ノ堂形皆六角也。今尚所レ存スル 当寺 山科 常磐ナリ余ハ改造ル
「山州名跡志」は坂内直頼が元禄年間に実地踏査を行ったものを正徳元年(1711)に刊行したものであるので、江戸時代の前期には既に現在に伝わる由緒となっていたようだ。
以上の六地蔵信仰に対して、「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)では少し異なった記述となっている。小野篁の六地蔵を平清盛が分配したとする寺伝を紹介した後に、「桂川地蔵記」と「看聞御記」を取り上げ、応永23年(1416)頃に桂の地蔵が祀られたと推測している。この「桂川地蔵記」には上記のような小野篁や平清盛が無く、
爰応永二十三年次二内申一、秋七月四日、当二ニ甲午之日一、故平安城今西ノ宮之御縁日也、乃各各欲レ致二終夜之参籠一
という記述がある。これが「看聞御記」の七月十六日の条に記された同月四日の瑞祥記事と一致することから、この時期に“石地蔵”がこの地に祀られ参籠者が雲の如く集まったとしている。
当時、疫病が流行し各地の地蔵に風流踊を奉納して災厄を祓おうとした動きが桂の地蔵にも現れたのであろう。「桂川地蔵記」によると、午の日の礼奠の後に参籠の衆が拝殿に集い、互いに古今伝聞した事を語っている。暁天に及び一人の巫女が霊夢により石体の地蔵菩薩が西方に現れると告げている。翌日桂川のほとりに一石の地蔵尊が現れ、光明を放っていたというのが桂地蔵の由緒とされている。信心する人々が仮装し囃子とともに集まった様が描かれている。
育徳財団編「桂川地蔵記解説」(尊経閣叢刊 1929年刊)では、作者不詳で本文中に何度か現れる応永23年(1416) の年号が成立した時期で、奥に記された弘治4年(1558)は書き写した時期と推測している。また前記の「山州名跡志」や「山州名勝志」の六地蔵としての桂地蔵と同一であるとは考えていないようだ。
伏見宮貞成親王の「看聞御記」には阿波のある貧人の夢に地蔵が現れたとする伝聞が記されている。露座荒廃している桂里の地蔵を修復するように告げられた阿波男は、居を桂に移し地蔵に仕えた。たまたま通り懸かった西岡の竹商人によって、地蔵は侮辱され阿波男も刀で斬り付けられる。しかし突然、竹商人の腰は萎え、地蔵の霊験により商人は改心し、阿波男とともに地蔵に勤仕するようになる。霊験を伝え聞き、貴賎を問わず多くの人々が地蔵詣に集まるようになる。
しかし、この地蔵譚には後日談が残されている。「看聞御記」の応永23年(1416)10月14日の条によると、阿波男等7人は実は近郷の者で、申し合わせて地蔵の霊験を騙る謀計であったことが露見する。第四代将軍足利義持の命により、自称阿波男とその与党は捕縛されたと記されている。竹職人は同心でなかったことより赦免された。そしてその後も地蔵に仕えたとしている。
これ以外にも「看聞御記」には将軍や斯波氏等が参詣し自ら風流拍物を演じたことが記されているように、この時期、地蔵信仰が非常に盛り上がりを見せていたことが良く伝わる。地蔵盆の8月22・23日には、鉦や太鼓を打ち鳴らし念仏を唱えながら躍る桂六斎念仏が行われることでも有名である。現在は、京都の六斎念仏として国の重要無形民族文化財となっている。
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