徳大寺樋門の遺構
徳大寺樋門の遺構(とくだいじひもんのいこう) 2009年12月20日訪問
桂離宮の東側、すなわち桂川沿いの京都府道123号水垂上桂線を北に向かって歩いている時に見かけた遺構について記す。
桂離宮の美しい笹垣を左手に見ながら進み表門へ左に曲る直前、周囲をメッシュ状のフェンスに囲まれた敷地の端に、説明板と共に煉瓦造の門の一部のようなものが見える。近づいてみると、かつてこの地にあった桂川の樋門が保存されていた。説明板の文字や写真もフェンス越しであるため読み辛かったので、とりあえず写真だけ撮影し表門へと向かった。後でこの樋門について調べてみると以下の様なことが分かった。
先ず樋門については、京都市の公式サイト・京都市情報館に説明が掲載されている。用水の取入れ、内水の排水等を目的として、堤防を横切って設けられた水路のこと。同様な機能として水門があるが、これは水路の断面が大きく無蓋なもので、断面も小さく暗渠構造のものが樋門、さらに断面の小さなものは樋管と呼ばれている。徳大寺樋門の遺構と説明板のある敷地には桂排水機場が建てられている。
説明板の最初の三分の一は、桂離宮の歴史について触れ、その後に桂川の氾濫と徳大寺樋門を説明している。桂川に堤防が築かれると、桂離宮への引き水をするために樋門が設置されたようで、幾度かの改修を行った末の明治41年(1908)5月に現在の遺構が改築されている。門の楣に彫られた「明治四拾壹季五月改築」という文字からもその竣工年月は明らかである。
しかし流域の都市環境の変化もあり、平成5年(1993)6月に桂樋門がこの説明板のある場所から少し北の桂川に面した堤防上に新設されている。新たな樋門の建設に伴い、徳大寺樋門は廃止されたと記されている。
ちなみに徳大寺とはかつての地名である。詳しくはこの次の項で記すこととするが、桂離宮のある地域は、平安時代から公家の別荘が建てられてきた桂里の中心部分でもあった。この桂から上桂、桂東、桂西、桂南などが派生し、やがて上桂に対して下桂と呼ばれるようになっている。かつての葛城郡徳大寺村、下桂村、千代原村、上桂村、上野村の5村が明治22年(1889)の市町村制施行に伴い、桂村となっている。徳大寺村は、現在の地名に残る桂徳大寺町、桂徳大寺北町、桂徳大寺東町、桂徳大寺南町の4町以外にも桂大縄町、桂後水町、桂清水町、桂畑ヶ田町そして右京区西京極徳大寺団子田町、西京極西団子田町等が元の村の範囲であった。桂排水機場の敷地と新しい桂樋門があるのは桂清水町であるため、再び徳大寺樋門という名称が使えなかったのかもしれない。
桂離宮の項でも参照したが、「京都歴史災害研究 第14号」(立命館大学歴史都市防災研究所 2013年3月刊)に「桂離宮とその周辺の水害リスク」と題された論文が掲載されている。これには桂川流域の地形と過去に起きた地震や土砂災害、そして桂離宮周辺の水害史についても触れている。この中でも徳大寺樋門について以下のように触れている。
ちなみに、桂川の度重なる氾濫を防ぐため、徐々に堤防が整備されてきたが、桂離宮そばの堤防には徳大寺樋門が設けられていた。そして、この樋門を経て回遊庭園の池へと、桂川から引き水されていた。しかし、明治になって浚渫を含む河川整備や明治41 年の樋門の改築があり、その頃から、桂川からの引き水は井戸水に取って代わられることとなって、現在に至る。桂川右岸側にある後背地の都市化に伴い、平成5 年には徳大寺樋門の地に桂樋門が新設され、徳大寺樋門は廃止された。明治の面影を色濃く残すレンガ造の樋門遺構の一部が、離宮北東角に隣接する地に保存展示されている。
これを読む限り、この徳大寺樋門が完成した頃には、桂離宮内の池泉は、樋門よりの引き水ではなく井戸水によって賄われていたこととなる。浚渫等によって平常時の河川の水位が下がると池泉の水面の方が高くなり、注ぎ込むことが出来なかったのだろう。
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