桂離宮
桂離宮(かつらりきゅう) 2009年12月20日訪問
桂離宮は桂大橋の西詰め、即ち桂駅から駅前商店街となっている京都府道139号桂停車場線を東に進み、三叉路で京都府道142号沓掛西大路五条線に合流した後は、北東に歩くこと200メートルで桂離宮の南端が現れる。今回は拝観許可を得ていないので、離宮の周辺を歩くのみとする。2008年に京都御所、仙洞御所、修学院離宮を拝観した際にも、桂離宮に数日にわたりインターネットで申請したが、遂に許可を得ることはできなかった。
桂離宮の建築や庭園については書かねばならないことが多くある。今回は見ることができないので、別の機会に譲ることとし、離宮の位置と歴史そして周囲の雰囲気を記すことに留める。
桂離宮は桂宮家の別荘を明治18年(1883)に離宮としたものである。桂川の右岸に位置し、13000坪の敷地を有する。桂宮家すなわち八条宮家の創始は、長岡の八条ヶ池や錦水亭でも触れたように、後陽成天皇の弟・智仁親王である。後陽成天皇と智仁親王の父は誠仁親王で、第106代正親町天皇の第一皇子であった。朝廷工作を行う足掛かりとして、織田信長は誠仁親王と親密な関係を築いていきた。しかし天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が生じ、その関係自体が大きく変化する。当夜、誠仁親王は信長より与えられた二条新御所に在宅しており、ここで明智軍の襲撃を受けている。信長の嫡男・織田信忠の交渉により親王は難を逃れたが、後ろ盾であった信長と信忠を変で失っている。そして親王も天正14年(1586)7月24日に薨去している。代わりに親王の第一皇子であった和仁親王が同年(1586)12月15日に正親町天皇から譲位され後陽成天皇として即位している。
第六皇子であった智仁親王には、和仁親王以外に4人の兄がいた。1人が夭折、3人が法親王となっている。兄の五宮邦慶親王が織田信長の猶子となったように、智仁親王も天正14年(1586)豊臣秀吉の猶子となり、将来の関白職を約束されていた。しかし、同17年(1589)秀吉の実子鶴丸が生まれたために解約となり、同年12月秀吉の奏請によって八条宮家を創設している。
後陽成天皇の第一皇子・良仁親王は次期天皇と目されていた。しかし秀吉の死後、後陽成天皇は皇位継承者から豊臣色の強い良仁親王を外す意向を示す。この時、継承者として弟の智仁親王の名も上がったが、結局智仁親王も豊臣家との距離が近かったことが災いし、皇位は後陽成天皇の第三皇子・政仁親王(後の後水尾天皇)に渡り、慶長16年(1611年)3月27日に践祚、同年4月12日に即位の礼が行われている。
智仁親王は下桂周辺に4ヶ所の知行所を持ち、元和2年(1616)頃から桂の別業へしばしば来遊している。「智仁親王御記」元和6年(1620)6月18日の条に、「下桂茶屋普請スル、度々客アリ」とあることから、この時期に離宮の前身となる別荘があったことが分かる。また当時の親王の書状に、有名な「下桂瓜畑のかろき茶屋」とあるので、先の下桂茶屋と同じものであったと考えられている。この後の寛永元年(1624)相国寺塔頭鹿苑院主の昕叔顕晫は「鹿苑目録」で下記のように記している。
赴桂八条親王別墅、庭中築山鑿池、々中有船、有橋、有亭、々上見四面山、天下之絶景也、又暮而帰矣
既にこの時期には庭園はほぼ完成し、古書院・中書院など主要な殿舎も出来上がっていたと推定される。しかし寛永6年(1629)4月7日、智仁親王が没すると、山荘は荒廃に向かい、同年8月に訪れた昕叔顕晫は「鹿苑目録」に「無修補故、荒廃甚、感慨懐旧太切也」と嘆いている。12年経過した寛永18年(1641)頃より、成人した八条宮智忠親王によって殿舎の修復と増築が成された。この大規模な造営は八条家だけの財力は困難であり、寛永9年(1632)将軍家からの銀千枚の下賜を含めた援助がなければ不可能であった。これは寛11年(1634)の第3代将軍徳川家光の上洛前後に行われた幕府による朝廷宥和政策の一環であった。
さて桂大橋でも触れたように、平成25年(2013)9月に襲来した台風18号による桂川の増水時の映像はまだ記憶に新しい。近代的な治水工事が成されたにも関わらず、あのような水位上昇があったということは、当然それまでも大きな風水害に数多く見舞われてきた。「京都歴史災害研究 第14号」(立命館大学歴史都市防災研究所 2013年3月刊)に「桂離宮とその周辺の水害リスク」と題された論文が掲載されている。これには桂川流域の地形と過去に起きた地震や土砂災害、そして桂離宮周辺の水害史についても触れている。これに従うと下記のような大規模な水害が発生している。
1 万治3年(1660)8月20日
丑刻より大風雨。洛中洪水。淀横大路、三栖堤切れ、淀大橋流れる。木津川大橋落ち、淀・宇治の堤切れ。
2 延宝2年(1674)4月11日
畿内洪水。鴨川・桂川大水、三条大橋崩れ流れる。
3 享保6年(1721)7月14・15日
畿内、丹波地方大風雨。丹波地方の家流れて下嵯峨の橋々にひっかかり、虚空蔵の橋をはじめ橋々落つ。角倉屋敷浸水、材木屋の家々は浸水。助け船三艘を出して人々を助く。桂川の渡しも止まり、伏見洪水、町中を舟にて往来す。淀堤、木津川辺の堤、皆大いに切れ損じ、負傷、死人、牛馬の死骸も多し。
4 寛政元年(1789)6月16~18日
大雨。京都鴨川洪水、嵯峨辺水高きこと1丈1尺余り。
5 弘化3年(1846)6月29日
京都、6月29日より雨降りて止まず。七月七日川々洪水三条大橋、五条大橋流墜沿河水溢れて人家及び寺院などを浸す。桂川常水より高きこと9尺3寸。
6 嘉永元年(1848)8月12日
夜、大風雨。鴨川桂川大溢。桂川常水より高きこと1丈9尺。
7 嘉永5年(1852)7月21日
京都洪水。諸川常水より1丈9尺高し。鴨、桂、淀、木津の諸河川大いに溢れ、皆決壊。
8 明治36年(1903)7月9日
桂村付近では1丈4尺の増水があり、桂離宮側の堤防が崩壊の恐れがあったので、村民は徹夜して堤防防御に尽力。この堤防は修理の途中にあり、杭を打ち込んでいて危険な状態であった。常備人夫や村民150名を徴発した結果、破堤は免れたが堤内の水が一時、桂離宮で最も低い松琴亭の床下に達す。
桂離宮が造営されてから今年の台風までの間に、少なくとも8回の水害が生じている。これらの発生時期を見ると梅雨時期から夏にかけのもので、恐らく台風を伴った風水害であったと推測される。ちなみに1丈は3.03メートルであるから6m近い増水が過去にも生じていたことが分かる。
河川に面した桂離宮の東側には洪水の水勢を弱める目的で笹垣が組まれている。これは敷地内の竹薮の竹を根のついたまま押し曲げ、緑の葉のある小枝を止めつけてある。つまり通常の建仁寺垣を下地として組み、その上に竹の枝先をびっしりと敷き詰める。これが構造体の建仁寺垣を外側から見えないようにしているが、あくまでも下地である。敷地内の根の深く張った竹をその上に覆い被せることで笹垣全体の構造を強固にしている。垣は密度高く組まれているため多少の水圧でも耐えられ、なおかつ敷地内への浸水を防ぐことを目的としていたのではないかと思われる。この垣根の構造は、“ななみ”さんの管理されているブログ“和みの庭”に写真入りで詳しく紹介されているので是非ご参照下さい。 これに対して敷地の北面は桂垣と呼ばれる竹の穂垣が作られ、御成門へと続く。先端を斜めに切り落とした竹を並べることで、防犯上も有効ではあるが、何よりも延々と続く竹垣に垂直方向のアクセントを加え、見るものを飽きさせない工夫が施されている。
この他にも建物の多くは1m程度の高床になっているため、敷地内への多少の浸水があっても床上浸水にはならないように考えられている。この高床と雁行した建物配置、そして装飾を廃し構造体を表現したシンプルなデザインがブルーノ・タウトに感動を与えたのであろう。ちなみに上記の論文には松琴亭茶室の壁に水害と見られる痕跡があり、それは畳上端から1.75メートルの位置にあったとしている。
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