西園寺
浄土宗 宝樹山竹林院 西園寺(さいおんじ) 2010年1月17日訪問
天寧寺の山門を出て寺町通を南に下ると、すぐに次の西園寺の山門が現われる。西園寺は寺名から分かるように清華家・西園寺家に所縁がある。
西園寺家は藤原公実の四男・藤原通季を祖とする。父の公実は平安時代の藤原北家閑院流の公卿で、正二位権大納言に至り三条大納言と称された人物である。また、通季の異母兄である実行が三条家、実弟の実能は徳大寺の祖となるなど、公実の子達から清華家七家の内、実に三家が生まれている。西園寺家の家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)、有職故実そして雅楽の琵琶である。
西園寺通季から数えて4代目に平安時代末期から鎌倉時代前期の政治に大きく関与した公経が現われる。父の実宗は元久2年(1205)に西園寺家として初めて内大臣に任じられている。しかしその任期は長くなく翌建永元年(1206)には職を辞し出家している。公経は承安元年(1171)に生まれる。元久3年(1206)に中納言、建保6年(1218)には大納言まで上り東宮大夫を兼ねるようになっている。
公経は源頼朝の姉あるいは妹とされる坊門姫とその夫一条能保の間にできた全子を妻としていたことより、鎌倉幕府との関係が強かった。さらに自身も頼朝が厚遇した平頼盛の曾孫にあたるため、承久元年(1219)の3代将軍実朝の暗殺の際には、外孫にあたる藤原頼経を将軍後継者として下向させる運動を行っている。同3年(1221)に引き起こされた承久の乱では、鎌倉方と目され後鳥羽上皇により幽閉されている。しかし、事前に京の状況を幕府に知らせていたため、幕府の勝利に貢献している。
乱の終結後幕府との結びつきを一層強めたことで、貞応元年(1222)に太政大臣、翌2年(1223)には従一位まで昇進し、娘の綸子を正室とする九条道家とともに朝廷の実権を握る。さらに関東申次に就任し幕府と朝廷との間の調整にも力を尽くしている。道家の外孫である四条天皇が崩じると、孫の姞子を後嵯峨天皇の中宮とし、姞子所生で後の後深草天皇となる久仁親王を皇太子にしている。これ以降、西園寺家から中宮を出す慣例となった。
晩年、婿の九条道家と政治的に衝突が生じ不仲となるが、道家の後に摂関となった近衛兼経と道家の娘を縁組し、公経が養育していた道家の次男であるものの不和であった二条良実をその後の摂関に据えるなど朝廷人事を思いのままに行った。寛元2年(1244)死去、享年74。
西園寺はもともと現在の鹿苑寺の地にあった。この地を仲資王から購入したのは西園寺公経で、承久の乱が起こる前の承久2年(1220)11月であった。北山の土地を入手すると、すぐに寺院造営に取り掛かったようだ。「百錬抄」の元仁元年(1224)12月2日の条に以下のようにある。
十二月二日。前太政大臣供二養北山堂一。号二西園寺一。北白川院安嘉門院臨幸。右府巳下諸卿群参。仁和寺宮為二導師一。
後堀堀河准母の安嘉門院邦子の臨幸を得て北山堂の供養が行われている。勿論、北山堂を造営したのは前太政大臣の西園寺公経である。西園寺はかなり壮大な規模で、本堂以外に善積院、功徳蔵院、妙音堂、不動堂、宝蔵、五大堂、成就心院、法水院、化水院無量光院などが建ち並び、その北側には公経の別荘として使用する寝殿も建設され、これらを含めて北山殿と呼ばれた。
また「増鏡」にも下記のように記されている。
今后の御父は、先にも聞えつる右大臣実氏の大臣、其の父、故公経の太政大臣、其のかみ夢見給へる事ありて、源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山のほとりに、世に知らずゆゆしき御堂を建てて、名をば西園寺といふめり。此の所は、伯の三位資仲の領なりしを、尾張国松枝といふ庄にかへ給ひてけり。もとは、田畠など多くて、ひたぶるに田舎めきたりしを、更にうち返しくづして、艶なる園に造りなし、山のたたずまひ木深く、池の心ゆたかに、わたつみをたたへ、峰よりおつる滝のひびきも、げに涙催しぬべく、心ばせ深き所の様なり。本堂は西園寺、本尊の如来は誠に妙なる御姿、生身もかくやと、いつくしうあらはされ給へり。又、善積院は薬師、功徳蔵院は地蔵菩薩にておはす。池のほとりに妙音堂、滝のもとには不動尊。此の不動は、津の国より生身の明王、簔笠うち奉りて、さし歩みておはしたりき。其の簔笠は宝蔵にこめて、三十三年に一度出ださるとぞ承る。石橋の上には五大堂。成就心院といふは愛染王の座さまさぬ秘法とり行はせらる。供僧も紅梅の衣、袈裟数珠の糸まで、同じ色にて侍るめり。又、法水院・化水院、無量光院とかやとて、来迎の気色、弥陀如来・二十五の菩薩、虚空に現じ給へる御姿も侍るめり。北の寝殿にぞ大臣は住み給ふ。めぐれる山の常盤木ども、いと旧りたるに、なつかしき程の若木の桜など植ゑ渡すとて、大臣うそぶき給ひけり。
山桜峰にも尾にも植ゑ置かん見ぬ世の春を人や忍ぶと
彼の法成寺をのみこそ、いみじき例に世継もいひためれど、これは猶山の気色さへ面白く、都はなれて眺望そひたれば、いはん方なくめでたし。峰殿の御舅、東の将軍の御祖父にて、万世の中御心のままに、飽かぬ事なくゆゆしくなんおはしける。今の右の大臣、をさをさ劣り給はず、世のおもしにて、いとやんごとなくおはするに、女御さへ御おぼえめでたく、いつしかただならずおはすると聞ゆる、奥ゆかしき御程なるべし。
公経が北山殿を仲資王から購入した経緯から造成された西園寺の構成までが克明に記されている。そして最後に摂関政治の頂点で造営された法成寺を引き合いに出すのであるから、その壮麗さは読む者に伝わってくる。
後に後嵯峨上皇を始めとし後深草天皇、後伏見天皇、花園天皇そして後醍醐天皇も臨幸している。西園寺家も北条政権を背景として鎌倉時代を通じてその子孫達も栄えたが、建武元年(1334)後醍醐天皇を北山殿に招いて暗殺し、後伏見法皇を擁立して新帝を即位させるという謀略が発覚する。新政府は公経から7代目にあたる西園寺公宗が首謀者と見なし逮捕している。公宗は出雲国へ配流される途中に名和長年に処刑されている。公卿の死刑執行は平治元年(1159)の平治の乱の藤原信頼以来の出来事であった。
その後、西園寺家は密告した公宗の異母弟である公重に渡っている。建武政権が崩壊しても北朝から家門を安堵されていたが、室町幕府からは将来的に公宗の遺児である実俊に家門を移譲させるという条件が付けられた。暦応3年(1340)再び西園寺家北山殿は西園寺宗家の実俊に戻っている。このような西園寺家の騒動によって、西園寺自体も衰微していった。そして公宗が処刑されてからほぼ半世紀後の応永4年(1397)、この地は将軍足利義満が譲り受けている。この後、義満は新たな北山殿を造営し鹿苑寺となっていく。
将軍義満に譲り渡った後、西園寺は京中の室町頭に寺地を移している。「日本歴史地名大系27 京都市の地名」(平凡社 1979年刊)では、現在の上京区竹園町に西園寺が移転してきたのを文和3年(1354)としている。この竹園町は明治維新後に合併してできた町で寛永14年(1637)の洛中絵図では東側を竹殿町、西側を西遠寺屋敷丁と記している。宝暦12年(1762)刊行の「京町鑑」では東側を竹屋町、西側を西園寺町としている。つまり西園寺の移転が竹園町の由来となっている。
天文23年(1554)僧縁誉が中興して知恩院末となる。そして西園寺は天正18年(1590)に現在地の寺町頭に再び移る。天明8年(1788)の大火で類焼するが再建されている。寺中には7つの塔頭があったが、維新後に廃されている。
本尊は鎌倉時代の作の阿弥陀如来像で重要文化財に指定されている。地蔵堂には北山殿の功徳蔵院の遺仏を伝えるとされる地蔵像を安置する。また開山堂には西園寺公経の法体像が祀られている。鐘楼の銅鐘に空けられた4つの穴は、戦時供出の際に銅精錬所で銅の質を検査した際のものとされている。溶解直前に終戦を迎えたため再び寺に戻されている。
境内墓地には西園寺家の墓とともに、下賀茂神社の祠官で歌人の梨木祐之・祐為の墓、昭憲皇太后の侍読であった漢学者の若江薫子の墓がある。
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