貴船神社 林田社・私市社
林田社・私市社(はやしだしゃ・きさいちしゃ) 2010年9月18日訪問
相生の大杉の傍らに赤い玉垣を巡らした二座を祀る祠がある。これは貴船神社末社の林田社と同末社の私市社である。向かって右側の私市社の御祭神は大国主命、左側の林田社は少彦名命でである。
私市社の大国主命は国津神の代表的な神で、因幡の白兎の話によって誰でもその名前は聞いたことがあるだろう。素戔嗚尊の子、または六世の孫とされ、出雲大社の御祭神でもある。林田社の少彦名神とともに、中つ国すなわち葦原中国の国造りを行った神である。天津神である天照大神の使者が葦原中国に来ると国土を献上し(国譲り)て自らは隠退したとされている。天照大神が送った使者は天菩比命と天若日子そして建御雷神であった。天菩比命は大国主命の家来となり3年経っても高天原に戻らなかった。次に送られた天若日子も大国主神の娘の下照姫命と結婚し、自ら葦原中国の王になろうとした。8年経っても高天原に戻らなかった上鳴女を射殺したため、高天原から放たれた天之加久矢により天若日子は胸を射抜かれた。このことは既に白石社でも記した。繰り返しになるが白石社の御祭神は大国主命の娘の下照姫命であり、その夫は上記のように高天原から葦原中国に使者として送られた天若日子であった。
三番目に送られた建御雷神と天鳥船神は出雲国の伊那佐之小浜に降り立った。建御雷神は十掬剣を抜き逆さまに立てその切先に胡坐をかいて座り、大国主命に対して葦原中国は天照大御神の御子が治めるべきと伝えた。大国主命は息子の八重事代主神と建御名方神に同意の確認を建御雷神に求めた。2人の息子達は国譲りに同意したので、天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を大国主命のために建てること条件に葦原中国を天津神に譲った。これが国譲りの神話のあらすじである。
大国主命は荒ぶる八十神を平定して日本の国土経営の礎を築いた。そして人々に農業や医術を教え、生活や社会を作ったとされている。出雲大神には祟り神としての側面があるが、「病を封じる神」になったとされている。
余談となるが、大国主命より国を譲り受けた天津神は天照大御神の孫である邇邇芸命を日向に降臨させている。邇邇芸命は大山祇神の娘の木花開耶姫を娶り、二人の間には火闌降命、彦火火出見尊らが生まれている。この木花開耶姫を御祭神と祀るのは貴船神社末社の林田社の少彦名命は、「古事記」で神産巣日神の子とされている。大国主命の国造りにの際、天乃羅摩船に乗り、鵝の皮の着物を着て波の彼方より来訪したとされている。父・神産巣日神の命により大国主命と義兄弟の関係を結び国造りに参加した。少彦名命は大国主命同様多くの山や丘を造物し命名も行った。少彦名命は国造りの協力神であり常世の神、そして医薬・温泉・禁厭・穀物・知識・酒造・石の神などに崇められている。 少彦名命は国造りが終了する前に常世国へと渡り去っていく。少彦名命を失った大国主神は、これからどのようにこの国を造って行けばよいのかと深く思い悩んだ。その時、海の向こうから光り輝く神様が現れ、我を倭の青垣の東の山の上に奉れば国造りはうまく行く告げた。大国主命はこの大物主神を三輪山の大神神社に祀ることで国造りを終えたとされている。
以上のように、大国主命と少彦名命は共に協力し合いながらこの国の国造りに携わった神々である。そのことからも私市社と林田社の二座がひとつの祠に祀られていることは必然とも思える。
三浦俊介氏は著書「神話文学の展開 貴船神話研究序説」(思文閣出版 2019年刊)で貴船神社におけるスサノオ祭祀について記している。江戸時代初期の医者であり歴史家でもあった黒川道祐の「日次紀事」と「雍州府志」の二書に所収されている子供の伝染病罹患についての記事に着目している。京都を中心とする年中行事を解説した「日次紀事」(新修 京都叢書 第二巻(光彩社 1967年刊))の九月初一日の条に下記のような記事が見られる。
貴布禰神供貴布禰狭小神輿 自二リ今日一至二テ九日一ニ、洛下ノ児童舁二小キ神輿一ヲ、謂二フ貴船ノ狭小神輿一ト、各拍レシ之ヲ振二ル市中一ニ、伝へ言フ 後奈良ノ院ノ時一年九月小児疫癘大ニ行ル、是ヲ称二ス貴船ノ神ノ祟一ト、各造二小神輿一ヲ舁レテ之ヲ、而、勧二神行一ヲ故ニ至レテ今ニ然リ也。 相伝、貴船社奥院則素戔嗚尊也。冝哉祓疫也。
上記引用の末尾の「相伝、貴船社奥院則素戔嗚尊也。冝哉祓疫也。」について、人文学オープンデータ共同利用センターの日本古典籍データセットの「日次紀事」196頁には同様の記述が見られるものの、新修 京都叢書に所収されている「日次紀事」にはない。恐らく底本の違いだと思われるが、三浦氏のスサノオ祭祀の論考の中でも最も重要な論拠となっている。
また同じく黒川道祐の地誌「雍州府志」(新修 京都叢書 第三巻(光彩社 1968年刊))にも以下の記述が見られる。
伝言フ、人皇百六代、後奈良ノ院ノ時、京都ノ小児憂二テ咳逆一ヲ而死亡スル者甚タ多シ。仍テ令レム卜レセ之ヲ。為二貴船ノ之祟一ト也。於レテ茲ニ弘治二年重九日令レム追レハ疫ヲ。今九月九日児童相聚リ舁二キ小キ神輿一ヲ、称二貴船ノ神輿狭小輿一振一ル市中一ニ者、斯遣意也。
この2つの記事はほぼ同じ内容を述べている。後奈良天皇の弘治2年(1556)9月に疫病が流行し多くの小児が亡くなった。占ってみると貴船神の祟りであることが分かり、その神霊を鎮めるために「ささ神輿」の祭りが始まったという内容である。同じ事は貴船神社の公式HPに掲載されている年表にも「1556年 弘治2年 小児咳疫の蔓延を除祓 」と記されている。この弘治2年は斎藤道三が息子のために義龍に討たれた年にあたる。まさに戦国時代の真っ只中で天皇家が最も衰退した時代でもあった。そしてこの時期に発生した疫病が貴船神の祟りではないかという噂が町中に流れたようだ。上記のように新修 京都叢書の「日次紀事」には見当たらないものの、「相伝、貴船社奥院則素戔嗚尊也。冝哉祓疫也。」という文言から、現在は存在しないが、この戦国時代には素戔嗚尊を祀る社祠が貴船神社に存在していたと三浦氏は推測している。そして素戔嗚尊の息子とも謂われる大国主命を祀った私市社とその協力者として国造りに携わった少彦名命の林田社がこの地にあるのもかつての貴船社が素戔嗚尊を祀っていた名残なのかもしれない。三浦氏は同署で「史料による確認は十分にはできていないが、貴船神社の神職の間では、「私市社」「林田社」の両社が江戸時代に入ってから上賀茂の社家によって創建されたと言い伝えられている。」とも記し以下のようにまとめている。
社祠に変遷はあるものの、中宮の地に出雲系の神々が集中的に祭祀されてきた状況が見えてくる。
現在の結社の御祭神は磐長姫命である。磐長姫命は大山祇命の娘で、天孫である瓊瓊杵尊が結婚した木花開耶姫の姉にあたる。中宮に出雲系の神々が祀られるようになり、縁結びの御利益が加わったと考えるべきなのか。
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