寺田屋
寺田屋(てらだや) 2008/05/10訪問
長建寺の山門をくぐり、目の前に広がる濠川の川面に降りていく階段を下りていく。対岸の月桂冠の酒蔵と濠川の流れを見ながら次の蓬莱橋まで歩いていく。蓬莱橋のたもとで再び地上面に上がると橋の先に寺田屋と書かれた提燈が掛けられた町屋が目に入る。既に開館時間を終了しているため、こちらも外からの見学となる。
寺田屋は南浜に面する船宿である。いつからこの地で船宿を始めていたのかは明らかではないが、寺田屋のパンフレットには、慶長2年(1597)に百姓伊助が伏見京橋に船宿を開き、出身の寺田村の村名を採り「寺田屋」と号したとあるらしい。既に閉館後のため今回は確かめようがない。慶長2年とはまだ江戸時代が始まる以前のことである。確かに慶長19年(1614)には高瀬川開削工事が終わり、伏見の水運は盛んになりつつあった。この当時よりこの地に船宿があっても不思議はない。江戸時代には寺田屋のような舟宿が6軒はあったといわれている。
さて寺田屋で起きた2つの事件について。
文久2年(1862)藩兵千名を率いて上洛した島津久光は、尊王派の希望の希望を担っていた。この時点では倒幕思想はなく斉彬の公武合体路線を継承していた。このことに不満を持った薩摩藩の過激派有馬新七らは同じく尊王派の志士真木和泉らと共謀して関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義邸を襲撃することを伏見の寺田屋で謀議していた。当時より寺田屋は薩摩藩の定宿であったためこの地で行われたのであろう。
島津久光は大久保一蔵等によってこの騒ぎを抑えようと試みたが失敗したため、同年4月23日に彼らの同志である尊王派藩士を派遣して寺田屋に集結した急進派を藩邸に呼び戻そうとした。有馬新七は藩邸への同行を拒否したため、薩摩藩士同士の斬り合いが寺田屋の1階で始まった。急進派の有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵6名の死亡、田中謙助・森山新五左衛門の2名の重傷(後に切腹)、鎮撫使側にも道島五郎兵衛の死亡という凄惨な結果に終わった。
しかし2階にいた多数の急進派は奈良原繁らの説得を聞き入れ藩に恭順したため、死は免ぜられた。この中には大山巌・西郷従道・三島通庸・篠原国幹・永山弥一郎・伊集院兼寛など明治の軍部や政治の基礎を築いた者たちも含まれていた。また真木和泉はじめ諸藩出身の浪士については諸藩に引き渡されたが、引き取り手のない田中河内介らは薩摩藩に引き取ると称して後日斬殺された。
大阪藩邸で療養していたため寺田屋に参加できなかった山本四郎も藩命に背き抵抗した後、自害した。寺田屋で討ち死にした6名とその後自刃した2名、そして山本四郎を含め9名の遺骸は伏見の大黒寺に葬られた。上方詰めの藩士が亡くなった場合は菩提寺である東福寺塔頭即宗院に葬られるのが通例であったが、この9名は暴徒と見なされていた。またその遺族も庶人に落とされたうえに、親類預かりという処分が為された。しかし2年後の元治元年(1864)には大赦により、士籍を復せられ墓石建立も許された。ちなみに池田屋事件に激昂した長州藩によって元治元年7月に禁門の変が発生する。寺田屋に連座した真木和泉もこの変の中で天王山で自害している。寺田屋事件に対する恩赦がなれされた時期は、久光が上洛し京都における薩摩藩の政治的位置が確立した時期に一致している。
慶応2年(1866)1月21日に坂本龍馬の斡旋により京都上京区にあった小松邸で薩摩藩小松帯刀、長州藩桂小五郎によって互いに討幕運動に協力する6か条の同盟(薩長同盟)を締結した。この翌々日の1月23日夜半、坂本龍馬は長府藩士三吉慎蔵とともに寺田屋屋に逗留中に伏見奉行所の捕り方と見廻組に包囲される。龍馬は所持していた6連発のピストルで応戦するが、左手の親指を切られる。この傷が思いのほか深手となり、戦闘能力が著しく低下したと思われる。
このような状況で奇跡的に寺田屋から脱出できた龍馬と三吉は、濠川沿いの材木小屋に隠れる。既にお龍によって急変を知らせられた伏見薩摩藩邸では、龍馬救出の準備を整えていたが、どこに脱出したかは分からなかった。そのうち三吉慎蔵が薩摩藩邸にたどり着き、龍馬の隠れている場所が分かり救出された。
鳥羽伏見の戦で焼失した伏見薩摩藩邸は下板橋通が濠川を越えた東堺町 松山酒造のあたりあったので、寺田屋から800~1000メートル程度の位置に当たる。おそらく寺田屋を出たお龍は15分程度で薩摩藩邸に達しただろう。
材木小屋の場所の特定については中村武生先生の「歴史と地理な日々」の坂本龍馬逃亡ルートを探るを参照する。 その場所は大手筋通の濠川にかかる橋のたもと 現在の北川本家大手浜工場あたりと思われる。寺田屋からこの地まで500~600メートル程度である。夜陰に隠れての逃走と言えども警戒中の市中を移動するので、かなりの時間を要したことと思われる。おそらく冬の京都の真夜中の逃走は、負傷して大量出血していた龍馬にとっては体力の消耗は想像以上のものだったと思われる。
さて寺田屋を訪問した2008年5月の時点で、既に現在の寺田屋は幕末の建物と別物であると言われていた。Wikipediaでも2005年10月から2007年5月頃にかけて「歴史と地理な日々」で書かれた指摘が脚注に表示されていた。しかし2008年9月に発刊された週刊誌の「平成の『寺田屋騒動』」によって、鳥羽伏見の戦で寺田屋は焼失し、その隣地に現在の寺田屋が再建されたということが改めて指摘された。食品偽装の告発が“流行”した時期に“観光偽装”として取り上げられ、それまで噂話程度に語られてきたことが一躍脚光を浴びることとなった。京都市も9月25日に調査の結果から「当時の建物は焼失したと考えるのが妥当」との見解を発表し、とりあえず一応の決着がついた形となっている。 果たして寺田屋を訪れる人がいなくなるのだろうか?多分そのようなことはないだろう。誰でも坂本龍馬を想うとき近江屋跡の前に立つ無味乾燥な石標より、現在の寺田屋の前に立つことを望むだろう。その方が龍馬が感じたことを容易に共有できるように感じられるからだ。だからこそ、たとえ龍馬の痕跡が残っていないとしても、伏見の繁栄を担っていた舟宿を想起できる貴重な建物であると客観的に向き合えることができるようにありたいと思う。
ところで寺田屋の表札を見たことがありますか?比較的新しく作られたもののように見えます。寺田屋の屋号の横に坂本龍馬とあります。「寺田屋 坂本龍馬様」宛ての手紙が届くのでしょうか?
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