徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:伏見

伏見義民の碑

 

伏見義民の碑(ふしみぎみんのひ) 2009年1月11日訪問 伏見義民の碑  御香宮神社の表門を入った左手には伏見義民の碑が建つ。伏見義民については、大黒寺の項で、木曽川治水工事の責任をとって自害した薩摩藩家老・平田靭負、寺田屋事件の薩摩九烈士とともに触れているが、ここで改めて書いてみる。 御香宮神社庭園 その2で書いたように小堀政一すなわち小堀遠州は、元和5年(1619)に備中松山藩から近江小室藩に移封されている。政一の父・小堀政次はもともと近江国坂田郡小堀村(現在の滋賀県長浜市)の土豪で、浅井長政の家臣であった。そういう事情から、政一にとって近江小室藩への移封は祖先の地に戻ることでもあ… ►続きを読む

 

御香宮神社庭園 その2

 

御香宮神社庭園(ごこうのみやじんじゃていえん)その2 2009年1月11日訪問 御香宮神社庭園  前回の訪問は小雨降る夕方だったため、御香宮神社の広い境内のどこに庭園があるか分からず、境内を探したことを思い出す。今回は拝殿の西側にある社務所に迷わずに向かう。この庭園の謂れが記されている駒札が社務所の入口前に立てられている。 御香宮神社庭園 御香宮神社庭園 御香宮神社庭園  茶人であり建築家、そして作庭家として有名な小堀遠州は、天正7年(1579)小堀政次の長男として生まれている。父の政次は近江国坂田郡小堀村(現在の滋賀県長浜市)に生まれ、豊臣秀長に仕えている。最初は10… ►続きを読む

 

御香宮神社 その3

 

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)その3 2009年1月11日訪問 御香宮神社 明治維新伏見の戦跡の碑  前項で御香宮神社と徳川家の関係を記してきた。徳川家康が伏見城の再建に着手すると、豊臣秀吉により深草大亀谷古御香町に移された御香宮神社(古御香宮)は、家康によって旧地に戻され、本殿が慶長10年(1605)に寄進されている。その後も、元和8年(1622)初代水戸藩主・徳川頼房によって伏見城の大手門を表門に、そして拝殿を寛永2年(1625)初代紀州藩主・徳川頼宣よりの寄進を受けている。さらに社殿修復に関しては伏見奉行に出願し、その費用は徳川三家の御寄進金を氏子一般の浄財で行われてきた。また… ►続きを読む

 

御香宮神社 その2

 

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)その2 2009年1月11日訪問 御香宮神社 表門  伏見奉行所跡から、やや上り勾配の道を進むと大手筋通に出る。右手前方に御香宮神社の石垣と築地塀が見える。石垣の高さは大手筋通の上り勾配を示している。大手筋通には朱に塗られた鳥居があるが、御香宮神社の境内への入口には神門が設けられている。石垣に築地塀そして薬医門とは、府社御香宮神社の社号標石がなければ武家屋敷のようにも見える。 御香宮神社 一の鳥居 御香宮神社 境内西南隅の石垣 2.5から3メートル位の高さがある  この表門は元和8年(1622)初代水戸藩主・徳川頼房が伏見城の大手門を拝領し寄… ►続きを読む

 

伏見の町並み その2

 

伏見の町並み(ふしみのまちなみ)その2 2009年1月11日訪問 伏見の町並み 魚屋通の交差点から伏見奉行所跡を眺める 桃山へと続く左手側に上っていく  旧幕府軍の伏見奉行所跡から、新政府軍の本営である御香宮神社に向かう。伏見奉行所跡の石碑が面する通りの名称は分からないが、京町通と本町通の延長すなわち国道24号奈良街道の間の道を北に進む。この道を歩くと実感することは、御香宮神社と伏見奉行所跡との位置関係である。南北に走る魚屋通から大手筋通まで約100メートル程度。この僅かな距離で旧幕府軍と新政府軍が対峙していたことは、実際にこの場所に立たないとなかなか理解できない。そして宇治川に面してい… ►続きを読む

 

伏見奉行所跡 その2

 

伏見奉行所跡(ふしみぶぎょうしょあと)その2 2009年1月11日訪問 伏見奉行所跡  京町通の魚三楼の前を過ぎ、さらに南に進むと、東西に走る魚屋通に出会う。ここで左に折れ、近鉄京都線の高架の下を潜ると目の前に大きな団地が広がる。右に曲がり30メートルくらい進むと、団地の入口の脇に伏見奉行所跡の碑が建つ。ここが慶応4年(1868)1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いにおける伏見方面の主戦地となった伏見奉行所の跡地である。 伏見奉行は、江戸以外の幕府直轄領すなわち天領の内で重要な場所に置かれた遠国奉行の一つである。京都町奉行、大坂町奉行、駿府町奉行の各町奉行に対して伏見奉行は長崎奉行、山田奉行… ►続きを読む

 

魚三楼 その2

 

魚三楼(うおさぶろう)その2 2009年1月11日訪問 魚三楼 南側から眺める 左の建物は比較的新しい 右の建物の暖簾の右側の窓格子に銃痕が見られる  東福寺駅前にある仲恭天皇九条陵・崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵参道の道標を眺めながら、京福電鉄京阪本線に乗車し、7つ先の伏見桃山駅で下車する。改札口を出ると目の前を大手筋通が東西に走る。通りの名前から分かるように、豊臣秀吉が築城した伏見城の大手門へと続く道とされている。 この道を東に進み、近鉄京都線のガード下に入る手前を右に折れる。この道が京町通であることを示す表示板が立つ。伏見築城の際、桃山の伊達街道と共に城下町で最初に開通した「本通り」… ►続きを読む

 

墨染の町並み

 

墨染の町並み(すみぞめのまちなみ)  2008/05/11訪問 墨染 墨染の交差点 左:京 右:伏見 伏見街道はここで曲がる  墨染に降りた理由は3つある。1つ目は藤森神社を拝観すること。2つ目は伏水街道第四橋の存在を確認すること。そして幕末に新選組 近藤勇が狙撃された地を歩くことにあった。  京阪電鉄墨染駅に降り、駅舎を出て踏み切りを渡ると北から続く伏見街道に出会う。 墨染 伏見街道沿いの民家  近藤勇が狙撃される前後の時間の経過を見てみる。      慶応3年(1867) 3月20日 伊東甲子太郎一派、新選組を脱退する                        御陵衛士とな… ►続きを読む

 

藤森神社

 

藤森神社(ふじのもりじんじゃ)  2008/05/11訪問 藤森神社 南門  17時に醍醐寺は閉門となったため、醍醐寺を後にし京都市営地下鉄東西線醍醐駅を目指して歩く。随心院の項で書いたように、東西線の走るあたりを谷としてその東側は少し高くなっている。そのため緩やかな下り道ということになる。醍醐駅から六地蔵駅まで戻り、六地蔵駅から京阪電鉄に乗り換え、墨染駅で下車する。伏見街道を北上し藤森神社を目指す。 藤森神社 鳥居脇の石垣  神功皇后3年(203)、三韓征伐から凱旋した神功皇后(仲哀天皇の后)が、山城国・深草の里の藤森に軍旗の中で一番大きい旗(纛旗 とうき)を立て、武具を塚に納め… ►続きを読む

 

大黒寺

 

真言宗東寺派 大黒寺(だいこくじ)  2008/05/10訪問 大黒寺 こちらにの門が開いていた  三栖閘門を後にして京都外環状線と宇治側との間の道をしばらく歩き、竹田街道との交差点の手前で交通量の多い環状線を渡る。周囲を見渡したが信号が無いので4車線分を一気に走ることとなった。中書島駅から京阪線で丹波橋駅に出て、真直ぐ西へ歩く。市立伏見板橋小学校に突き当ったところで南に折れると下板橋通に出る。下板橋通を西に入り最初の角を南に入ると京都御駕篭郵便局が右手に現れる。これが大黒寺に続く道の確認となる。さらに20メートルくらい進むとやはり右手に大黒寺の門が現れる。初めての訪問ではなかなか見つけ… ►続きを読む

 

三栖閘門

 

三栖閘門(みすこうもん)  2008/05/10訪問 三栖閘門  寺田屋を後にし、竹田街道を南下する。東浜南町を西に入り歩いていくと右手側にモリタ製作所のレンガ造りの建物が一瞬道筋からのぞく。そのまま進み濠川に出る。橋を渡り川沿いに南下し、京阪電鉄の橋梁をくぐると伏見みなと橋と対岸に広がる伏見港広場が見えてくる。巨大な京都外環状線の高架を越えると2本のタワーを持った赤い水門が現れる。これが三栖閘門である。  昔から淀川は氾濫を繰り返してきたが、本格的に治水工事に着手したのは豊臣秀吉が伏見城を築き、城下町を整備してからのことだった。現在の地図からは想像することが難しいが、伏見と宇治と淀を結… ►続きを読む

 

寺田屋

 

寺田屋(てらだや)  2008/05/10訪問 寺田屋 大きな提燈に屋号が書かれている  長建寺の山門をくぐり、目の前に広がる濠川の川面に降りていく階段を下りていく。対岸の月桂冠の酒蔵と濠川の流れを見ながら次の蓬莱橋まで歩いていく。蓬莱橋のたもとで再び地上面に上がると橋の先に寺田屋と書かれた提燈が掛けられた町屋が目に入る。既に開館時間を終了しているため、こちらも外からの見学となる。 寺田屋 寺田屋 西側から蓬莱橋方向を望む  寺田屋は南浜に面する船宿である。いつからこの地で船宿を始めていたのかは明らかではないが、寺田屋のパンフレットには、慶長2年(1597)に百姓伊助が伏見京… ►続きを読む

 

長建寺

 

真言宗醍醐派 辨財天長建寺(べんざいてんちょうけんじ)  2008/05/10訪問 長建寺 鮮やかな朱の竜宮門  月桂冠大蔵記念館から南に下ると濠川に当たる。弁天橋を渡ると右手側に赤い土塀と竜宮門が見える。これが長建寺の山門。真言宗醍醐寺派に属する寺で、本尊は八臂弁財天。 長建寺 境内はそれほど広くない 長建寺 護摩の跡  弁財天というと関東では江ノ島神社を思い出すが、もともと弁才天は仏教の守護神である天部の1つであるが、ヒンドゥー教の女神サラスヴァティー(Sarasvatī)が仏教あるいは神道に取り込まれた時の呼び名である。日本では「才」が「財」の音に通じることか… ►続きを読む

 

伏見の町並み

 

伏見の町並み(ふしみのまちなみ)  2008/05/10訪問 酒蔵が並ぶ伏見の町並み 月桂冠大倉記念館  伏見奉行所址である桃陵団地を後にし、再び魚屋通に出て近鉄京都線の高架をくぐり京阪電鉄の踏切を越え西に進む。道は大阪町辺りで突き当たり左に曲がる。道なりに進むとすぐにまた魚屋通が現れる。魚屋通はここでクランクしている。また魚屋通に直行する南北に通る道もクランクするため、4つ角の交差点がなくT字路が2箇所近接している。「四ツ辻の四ツ当たり」という城下町に良く見られる遠見遮断の構造である。この場所が伏見城からはかなり離れているため、伏見奉行所防衛のために設けられたものではないかともいわれて… ►続きを読む

 

伏見奉行所址

 

伏見奉行所址(ふしみぶぎょうしょあと)  2008/05/10訪問 桃陵団地と伏見奉行所址を示す石標  魚三楼の前から京町通をさらに南に50メートル緩やかな坂町を下ると東西に走る魚町通に出る。ここを左折し近鉄京都線の高架をくぐると目の前に伏見の町並みに調和するように屋根を載せ、妻面を黒板張り風に仕上げた集合住宅群が現れる。これが伏見奉行所の跡地に建設された京都市営桃陵団地である。団地の西側の入口には3つの石碑がある。 桃陵団地の発掘調査を示す碑  一つ目の石碑は上部に笠を載せたようなデザインで、説明文とともに2枚の写真が印刷されている。桃陵団地の歴史を説明するために設置されたようだ… ►続きを読む

 

魚三楼

 

魚三楼(うおさぶろう)  2008/05/10訪問 京町通の魚三楼 暖簾の右側の格子に弾痕が残されている  御香宮神社を後にし、再び大手筋の大鳥居をくぐり、西に向う。近鉄京都線・桃山御陵前駅の高架と京阪電鉄・伏見桃山駅の踏切との間の百メートルに満たない地域の中央を京町通が通っている。大手筋から左折し京町通に入り南に30~40メートル進むと、道の右側に「魚三楼」という軒行燈を掲げた間口の広い商家が現れる。  魚三楼のHPによると讃岐出身の三郎兵衛が江戸中期 明和元年(1764)に創業した料亭。伏見港に揚がる瀬戸内海の魚や京野菜と伏見の豊かな湧水を使い、各藩の大名屋敷の料理方などを務めてきた… ►続きを読む

 

御香宮神社庭園

 

御香宮神社庭園(ごこうのみやじんじゃ ていえん)  2008/05/10訪問 御香宮神社庭園  御香宮神社に着いたのが午後4時少し前であったため、境内は後回しとしまずは御香宮神社庭園へと向う。ひと回りしたがそれらしき庭園は見当たらず、社務所に行くと拝観受付とあった。土間をあがり中に入ると客間らしい部屋があり、その先に庭園が広がっていた。すでに他の拝観者の姿も無く、部屋の照明も消された状態であったため、どこまでが公開されているかよく分からなかった。ほどなく説明のテープが回り始めた。 御香宮神社庭園  近江小室藩の初代藩主である小堀政一こと小堀遠州は元和9年(1623)に第6代目の伏見… ►続きを読む

 

御香宮神社

 

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)  2008/05/10訪問 御香宮神社 拝殿  伏見稲荷大社の表参道から伏見街道に出て、JR稲荷駅とランプ小屋の前を通り過ぎ、もう少し伏見街道の町並みを見ながら南下する。まっすぐに南へ流れる鴨川運河を渡り京阪電鉄深草駅に至る。ここから京阪電鉄に乗車し伏見桃山駅で下車。地下の改札口から地上に出ると目の前に大手筋通が現れる。西は巨大なアーケード街へと続き、東を見ると近鉄京都線桃山御陵前駅の先に赤い大鳥居があるので道に迷う心配はない。大鳥居をくぐると石垣と白い壁が始まる。この場所の地形は東北にある伏見桃山陵に向って上っていくため、御香宮神社の西南角の石垣が最… ►続きを読む

 
 

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