地主神社
地主神社(じしゅじんじゃ) 2008年05月16日訪問
清水寺の本堂の北側にこんもりした丘のような高台がある。頂部はそれ程広くないものの、清水寺の敷地全体の中でも重要な場所であることが分かる。この場所に地主神社が建てられている。別の日に成就院を訪れたが、成就院の前にある池の対岸が小山のようになっていた。その時はよく位置関係が分かっていなかったが、これが地主神社の北側の斜面だったようだ。清水寺自体が尾根線から谷に迫り出して建てられた寺院であるが、この地主神社は、その尾根の上にさらに隆起した小山の上に建てられていることが分かる。
地主神社は「じぬし」ではなく「じしゅ」と読み、古くは地主権現とも呼ばれていた。大国主命を主祭神として、父母神の素戔嗚命・奇稲田姫命、奇稲田姫命の父母神の足摩乳命・手摩乳命を正殿に、芸能と長寿の神・大田大神、旅行と交通安全の神・乙羽竜神、知恵と才能の神・思兼大神を相殿に祀る。
足摩乳命・手摩乳命は、出雲国の肥の川の上流に住み8人の娘がいたが、毎年ヤマタノオロチが来て娘を食べてしまい、末娘の奇稲田姫命1人になってしまった。そこに素戔嗚命が来て、オロチを退治し奇稲田姫命を妻としたという神話のヤマタノオロチ退治の説話がある。
地主神社は清水寺の敷地内に位置するため、ユネスコ世界遺産に含まれている。多くのサイトで登録している神社・寺院名を見かけるが、地主神社を清水寺と分離して記述している例はほとんどないようだ。どうも世界遺産には神仏分離は関係ないようだ。
本殿と拝殿への道筋として二本の石段が東西に作られている。西側の石段の先には総門があり、普段は閉じられているようだ。通常は東側の石段を上り、社務所の前を左に曲がり再び石段を上ると、右手に本殿、左手に拝殿が現れる。この本殿と拝殿の間に、2個の恋占い石が置かれている。地主神社の参拝時間は9時からとなっているが、今回訪問したのは明らかにその前だった。
現在の社殿は寛永10年(1633)三代将軍・徳川家光によって再建されている。これは清水寺の再建と同じ時期に当たっている。本殿も拝殿も檜皮葺の入母屋造となっている。特に神社の本殿として左右に長い入母屋で平入りは珍しいように思う。これに対して拝殿は入母屋の屋根が本堂と90度回転しているため、妻入りとなっている。また清水寺の面は、斜面となっているため縣造りとなっている。本殿と拝殿の間を通り、境内の西端に出ると京都の市内を見渡せる。
地主神社の公式HPでも、神代の時代からこの地にあったと記されているように、その創建時期は明らかでない。大宝元年(701)日本最古の神社建築様式で本殿が建造したとされている。これは清水寺の項で書いたように、子嶋寺で修行していた賢心が、「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」という夢のお告げに従い、山城国愛宕郡八坂郷の音羽山に入ったのが宝亀9年(778)とされているので、それより70年以上前の話しとなる。延暦16年(797)征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は地主神社に太刀を奉納している。これは延暦13年(794)とび延暦20年(801)の2度の蝦夷遠征の間に位置している。この翌年の延暦17年(798)田村麻呂は清水寺の本堂を改築したと言われている。その後、弘仁2年(811)に嵯峨天皇、天禄元年(970)に円融天皇、そして永保2年(1082)に白河天皇の行幸がなされている。特に嵯峨天皇の行幸の際に、地主神社の桜の美しさに三度引返された故事より御車返しの桜と名づけられた。 中世には地主神社と地主桜は謡曲「田村」や「熊野」をはじめ、梁塵秘抄や閑吟集にも登場している。さらに江戸時代に入ると「恋占い石」に興じる人で境内が一日中賑わったという記録も残されている。恋占い石とは現代も本殿前に10メートルほどの間隔で置かれた2つの守護石である。膝の高さ程の石で、片方の石から反対側の石までを目を閉じて歩き、たどりつくことができると恋の願いがかなうと伝わっている。一度でたどりつければ恋の成就も早く、二度三度となると恋の成就も遅れ、また人にアドバイスを受けた時には人の助けを借りて恋が成就するとも言われている。
慶応4年(1868)から明治元年(1868)にかけて出された一連の神仏分離令により地主神社は神社として独立する。現在の地主神社は、恋占い石を含め、縁結び・恋愛成就の神として多くの人々が集まるスポットとなっている。
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