建仁寺 方丈
建仁寺 方丈(けんにんじ ほうじょう) 2008年05月16日訪問
建仁寺の公式HPにある建仁寺境内図によると、六道珍皇寺を除くと塔頭は禅居庵・久昌院・堆雲軒・興雲院・常光院・正伝永源院・大中院・西来院・両足院・霊洞院・大統院・霊源院の13となっている。かつては予約制公開をしていた両足院も現在は行っていないようなので、唯一常時公開されている方丈は建仁寺を知る上でも見逃せない存在となっている。
2008年秋に東京国立博物館で開催された「大琳派展 継承と変奏」で俵屋宗達(1570?~1640?)、尾形光琳(1658~1716)、酒井抱一(1761~1829)そして鈴木其一(1796~1858)の風神雷神図が展示され、この4枚の絵を比較して鑑賞する機会を得た。
俵屋宗達は慶長(1596~1615)から寛永年間(1624~1643)に活動した江戸時代初期の画家である。生前に残した画業や後の時代への影響力の大きさに比べ、その生涯に不明な点が多い。これは江戸時代後期から明治時代にかけては評価が低くかったことや、明治期に代表作の多くが海外に流出したことに起因しているかもしれない。宗達は京で俵屋という絵画工房を率い、扇絵を中心とした屏風絵や料紙の下絵などの装飾を制作していたと考えられている。しかし単なる扇絵職人ではなく、皇室からの作画依頼を請け、本阿弥光悦らの書巻に下絵を描いていたらしい。寛永7年(1630)には、当時として町の絵師としては異例の法橋の位が与えられていたので、当時から一流の絵師とみなされていた。
光琳と宗達の間には直接的な師弟関係がなかったが、宗達の原画に基づいて光琳が描いた絵が複数あることからも光琳には宗達に学ぶ意識があったと考えられている。
光琳の風神雷神図は、一回り大きな屏風に俵屋宗達の絵を忠実に実寸大で模写をしたため、やや上部に余白ができるなど宗達の絵が持つトリミングによるダイナミズムが欠けてしまった観がある。
光琳の風神雷神図は良く描け、その技術の高さは証明されているが宗達のオリジナルがある限り残念ながら、それを超えることはできていないというのが会場の雰囲気であった。オリジナルとレプリカという比較でなく、このテーマが宗達の才能を引き出すのに適していた結果かもしれない。
この回顧展を通じ光琳の優れた作品に触れた抱一は、琳派の装飾的な画風を受け継ぎつつ写実的な技法を身につけることで独自の洒脱な叙情性を表現できるようになっていく。
抱一は、俵屋宗達の風神雷神図を知らずに尾形光琳の絵として描いたようだ。さらにこの屏風の裏に銀屏風の夏秋草図を描いている。現在は保存上の観点から分割されて表装されているが、金の風神雷神図の裏に銀で驟雨に濡れ風に舞う夏草を描き天上と地上の関係をコントラスト鮮やかに表現している。
其一の風神雷神図は金地の屏風ではなく、8面の襖絵となっているため、他の作品とは趣を異としている。風神雷神を取り巻く空間を大きく取り、天空から斜め右下に雲とともに降りてくる雷神と、巻き上がる風や雲を踏みながら右側から中央に向かって走ってくる風神の動きを空気の描写で表現している。其一の描く両神は抱一のものと近いが、より劇画的な表現が増している分、ユーモラスさを感じる。
もともと風神雷神図は建仁寺のために描かれたものではない。寛永16年(1639)宇多野にある臨済宗・正覚山妙光寺の住持となった三江紹益和尚のために、京の豪商で歌人であった打它公軌が宗達に制作を依頼して寄進したものである。その後、文政年間(1818~1829)の頃、本山の建仁寺へ上納されている。この寺院の墓所には野々村仁清の墓がある。
話しを建仁寺方丈に戻す。本坊の西側には法堂につながる歩廊、そして方丈が続く。方丈の南庭には門が設けられ、この門を通じて法堂に入るようになっている。この銅版葺入母屋造の屋根を持つ方丈は毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊が、慶長4年(1599)広島の安国寺より室町時代の建物を移築している。その後、昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊し、昭和15年(1940)に復旧されている。
本尊は東福門院寄進の十一面観音菩薩像。東福門院とは徳川秀忠の五女・徳川和子で、元和6年(1620)後水尾天皇の女御として入内している。また尾形光琳・乾山兄弟の実家である雁金屋を取り立てていたのも東福門院である。雁金屋の経営が悪化し尾形光琳が画業に専念せざるを得なくなったのも、東福門院の死後、得意先を失ったためと考えられている。
方丈南庭は大雄苑と呼ばれ、7代目小川治兵衛の作庭である。小川治兵衛が禅宗の庭を手がけるのを見るのは初めてのことである。
ところでこの庭の名前となった大雄は中国の百丈山から名づけられている。江西省百丈山に住した百丈禅師は、律院から独立した禅院を始めて設立した人とされている。建仁寺もその創建の際、百丈山の伽藍を模して造営されている。この百丈山の別名が大雄峰である。
大雄苑は禅宗の南庭らしく白砂を敷き詰め、大きな波型の砂目が付けられている。法堂への門を中心に庭の東西両側には樹木と石を厚く配している。そして白砂の中に1つあるいは複数の石を中心とした苔地を作り、大海の中の島を表現している。流石に京都五山の建仁寺の方丈らしく樹木も石も素晴らしいものが揃えられた南庭ではあるが、何か規則に縛られた堅苦しさがこの庭にはある。南庭から西側に回りこむあたりに描かれた同心円状の波紋や、くの字型に配置された石を見ると身体的なスケール感が現れ初めて安らぎを感じられる。
方丈の北側には宝形屋根を持つ納骨堂があり、方丈の北東には小書院と大書院が建てられている。それぞれの建物の間を回廊で結ぶため、2つの坪庭ができている。
方丈と小書院の間の庭には○△□乃庭と命名されている。
やや東西に長い長方形の坪庭には白砂が敷かれている。中央に丸い苔地が作られ、その中心に青々とした樹木が植えられている。砂目は同心円状に作られている。この単純な構成を打ち破るかのように円形の苔地にかかるように一つの石が置かれている。そして本坊側には方形の井戸が作られ、竹を組んだ蓋が載せられている。井戸の周りには白い御影石で縁取りがされている。
単純な3つの図形は宇宙の根源的形態を示し、地水火風の禅宗四大思想を象徴していると拝観のしおりに書かれている。水を意味する○は白砂に描かれた苔地、火の△は苔地に植えられた樹木、そして地の□は庭の傍らに置かれた井戸ということか?この庭に面した床の間には○△□の掛軸が掛けられている。
小書院と次の大書院の間にある庭は潮音庭と名づけられている。この庭は○△□乃庭と異なり、庭一面に苔が植えられている。庭の中央部に向かって盛り上げられ、その中心に3つの石が起立するように置かれている。3つの石の周りには大小6つ位の石が規則性がなく配されているように見える。庭の四隅には木が植えられ、東南隅に一文字型の手水が置かれている。この庭は小書院あるいは大書院の縁側に座り目線を低くして眺めると、中央部が小高く作られた求心的な構成が見えてくる。
この庭は作庭家の北山安夫氏が手がけた庭である。北山氏は海外でも日本庭園を造る作庭家としてNHKの2007年2月15日放映の番組「プロフェッショナル 仕事の流儀 己を出さず、自分を出す 庭師・北山安夫」で紹介されている。
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