賀茂御祖神社
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ) 2008年05月17日訪問
相国寺方丈の左側を通り、北門から境内を出る。そのまま住宅街を北に歩き、上御霊前通に入り東に進むと、賀茂川の西岸の道に出る。出雲路橋西詰の交差点で賀茂川を渡り、東鞍馬口通から下鴨神社へ入る。
一般に広く呼ばれている下鴨神社の正式名称は賀茂御祖神社で、上賀茂神社の賀茂別雷神社とともに、山城国一宮と京都の守護神として二十二社の上七社に数えられている。ちなみに他の6社は、伊勢神宮、石清水八幡宮、松尾大社、平野神社、伏見稲荷大社そして春日大社である。
古くから賀茂別雷神社とともに賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂社と総称されている。先の上七社でも両社をもって一社の扱いがなされている。祭神は西殿・玉依媛命、東殿・賀茂建角身命と上賀茂神社の祭神である賀茂別雷大神の母と祖父に当たる。そのため御祖という語が使われている。旧社核では官幣大社。平成6年(1994)世界文化遺産に登録されている。
下鴨神社は東から来る賀茂川と西から来る高野川が合流し、鴨川となる三角州の糺の森の中にある。糺の森はおよそ124,000平方メートルの面積がある原生林で、昭和58年(1983)に国の史跡として指定を受けている。かつて京に平安京が置かれた時代には、約4,950,000平方メートルの広さがあったが、文明2年(1470)の応仁の乱で総面積の7割を焼失するなど、中世の戦乱や明治時代初期の上知令による寺社領の没収などを経て、現在の面積まで減少している。
森には、ケヤキやエノキなどニレ科の落葉樹を中心に、約40種・4700本の樹木が生育している。御手洗川、泉川、奈良の小川、瀬見の小川の4本の清流があり、林床を縫って賀茂川と高野川に注ぐ。御手洗川は湧水のある御手洗池を水源としている。糺の森の東側を流れる泉川は高野川の支流である。奈良の小川は御手洗川に泉川の流れの一部が合流したもので、賀茂川の支流である瀬見の小川に取り込まれて糺の森の中央を流れる。
この地域には昔より賀茂氏が暮らしてきた。賀茂氏の始祖・賀茂建角身命は神武天皇東遷の際、烏に化身し天皇を熊野から大和へ道案内している。大和を平定した後に、神武天皇はその功に対して厚く報償したと考えられ、賀茂建角身命は八咫烏と称するようになった。「山城国風土記」では、大和の葛木山から山代の岡田の賀茂に至り、葛野河と賀茂河が合流する地点に鎮まったと記している。この2つの河は高野川と賀茂川を示している。また「日本書紀」では、八咫烏の子孫が山城国の葛野に住む鴨県主であるとしている。
なお糺の森の「ただす」の由来については諸説あるようだ。Wikipediaの糺の森では「偽りを糺す」の意、賀茂川と高野川の合流点であることに起因して「只洲」、清水の湧き出ることから「直澄」とする説、多多須玉依姫の神名に由来する説、蚕の社にある木嶋坐天照御魂神社にある「元糺の池」、およびその周辺の「元糺の森」から遷された名前であるという説が見られる。特に最初の意は、賀茂建角身命が正邪を糺す裁判の基を開いたことに拠っているようだ。
下鴨神社の創始は、京都の社寺でも最も古い部類に入ると考えられているが、明らかでない。社伝では、神武天皇の時代(BC660?~585?)に御蔭山に祭神が降臨したと伝える。御蔭山は東山36峰の御生山で、赤山禅院の東北、八瀬の東南にある。また日本書紀には、神武天皇2年(BC658)祭神・賀茂建角身命を奉斎している「葛野主殿県主部」の名を見ることもできる。
また崇神天皇7年(BC90)に神社の瑞垣の修造が行われたとの記録があり、この頃には既に神社が存在していたか、この時に創建されたとも考えられている。いずれにしても上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けている。
「本朝月令」「年中行事抄」には欽明天皇5年(544)四月から賀茂祭(葵祭)が行われていることが記され、「続日本紀」の中にも文武天皇2年(698)葵祭に見物人が多く集まるため警備を行う命令が出された、という記事がある。この頃には既に賀茂社は大きな神社となり、盛大な祭礼が行われていたことが伝わってくる。
天平の頃(729~749)あるいは奈良時代後期に、朝廷の後押しにより上賀茂神社と分置されたと考えられている。延暦13年(794)の平安遷都以後、より一層の崇敬を受けるようになる。そのため神官は賀茂氏の末裔である賀茂県主が就任するが、王城の鎮護社とされ祭祀権は朝廷に移されている。大同2年(807)には正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされている。弘仁元年(810)嵯峨天皇の御代以降、約400年にわたり斎院が置かれ皇女が斎王として賀茂社に奉仕している。上下の賀茂社に仕える斎王は奉斎期間に常住したのは紫野斎院である。また平安時代中期以降21年毎に御神体を除く全ての建物を新しくする為の宮移し、すなわち式年遷宮が行われている。現在は本殿2棟が国宝・社殿52棟は重要文化財に指定されているため、完全な遷宮は行われず傷んだところを直す形式を取っている。この斎宮や式年遷宮などが定められていたことからも賀茂社が特別な神社であったことが分かる。
下鴨神社には、全てを触れることは不可能であるほど多くの摂社と末社がある。この多くの摂社と末社が下鴨神社の空間構成を分かりにくくしている。まず賀茂川と高野川の合流点から北側に出町橋と河合橋が西と東から中州に架かる。下鴨東通を北に進むと二股に分かれる道の左側に下鴨神社の一の鳥居が建つ。住宅の中を進み、御蔭通を越えると糺の森の中へ参道が入っていく。参道の西側に瀬見の小川、東側に奈良の小川が流れる。糺の森に入ると参道の左に第一摂社の河合社がある。河合社については別の項で説明する。
この先は鬱蒼とした糺の森の中を北へ進むと、急に開けた場に出る。そして目の前に二の鳥居と楼門が現れる。緑一色の糺の森の中を彷徨った後で見る明るい朱の色は鮮烈な印象を見るものに与える。この楼門の左手前には末社・相生社が建てられている。
楼門の東西に回廊が延びているため、楼門を潜って奥へと入っていく。楼門の正面に舞殿、西に神服殿と第二摂社・出雲井於神社の本社と末社・橋本社と岩本社、東に橋殿と細殿が並ぶ。橋殿は名前のとおり奈良の小川につながる御手洗川の上に建てられている。
舞殿は葵祭の時、天皇の勅使が御祭文を奏上され東游が奉納される場所。神服殿は、古来殿内の一室が行幸の時に玉座となった殿舎で、夏や冬の御神服を奉製する御殿であったため、神服殿という名前がついている。
橋殿は御蔭祭の時、御神宝を奉安する御殿で、9月の月見の時には名月管絃祭、正月の神事では神事芸能が奉納される社殿。細殿は、歌会や茶会などが行われる殿舎。平安時代の「神殿記」にも細殿の記録があり、歴代天皇の行幸、上皇、法皇、院、関白の賀茂詣の時に、歌会などが行われた社殿である。
御手洗川は橋殿の先に輪橋が架かり、その先に御手洗社が建てられている。御手洗社は井戸の上に祀られていることから井上社とも呼ばれている。御手洗社から湧きだす清水で葵祭の斎王代の禊ぎや土用の丑の日に行われる御手洗祭りが行われている。御手洗池から湧き出るアワを人の型に模ったのが、みたらし団子であり、ここが発祥の地とされている。
輪橋の本殿側には光琳の梅と呼ばれる梅の木がある。この梅と御手洗川が尾形光琳の紅白梅図屏風のモデルとなったと言われているが、いかがなものだろうか。抽象と装飾化が成された絵画の原風景を探し求めてもあまり意味がないように思う。誰もこの風景を見て、光琳と同じイメージを再現できるとは思えないからである。
舞殿の北側にある中門を潜り、二重目の結界の中に入ると末社・言社の七つの社が並ぶ。正面に横に2つの一言社、西社・午歳守護神、東社・巳と未歳守護神、左側に縦に3つの三言社、北社・卯、酉歳守護神、中社・寅、戌歳守護神、南社・辰、申歳守護神そして右側に縦に2つの二言社、北社・丑、亥歳守護神、南社・子歳守護神が配置されている。中門と拝殿の間の中庭のような空間に、七つの社はどのような意図を持ってこのように配置されたのだろうか。
言社の西側には第三摂社・三井神社がある。本社の西社・中社・東社が北側に、末社の諏訪社・小杜社・白鬚社が西側に並ぶ。この三井神社には拝殿の左側の建物から渡る形になっている。
そして拝殿を含む三番目の結界の奥には、賀茂建角身命を祀る西本殿と玉依媛命を祀る東本殿が建てられている。その左手前に末社・印璽社がある。下鴨本通からの入口付近には、末社・印納社と末社・愛宕社と稲荷社が建てられている。
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