祇園新橋の町並み
祇園新橋の町並み (ぎおんしんばしのまちなみ) 2008年05月20日訪問
一力亭の角で四条通の北側に渡る。祇園新橋に向かうのには、花見小路通から行くのではなく、一本西側の細い道を北に上るほうが、祇園の風情を感じられて良い。花見小路通は飲食店の入ったビルが立ち並び、新宿の歌舞伎町とほぼ変わらない風景になっている。
天明元年(1781)創業の鯖寿司で有名ないづうの店の前を過ぎる辺りから祇園新橋に近づいていくという感じが強くなる。3階建てのやげんぼり末吉町店の角から、さらに道は狭くなっていく。この地は祇園末吉町切通しとなっている。夜は3層続きの客間に灯が入り、行灯のようにも見えた。両側に飲食店が並ぶ切通しを抜けると白川の流れに架かる白川巽橋が現れる。
もともと祇園は、八坂神社(祇園社)の門前町として発展してきた。祇園社は平安時代後期には京の中心地として栄えていたが、応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))で全てが燃え尽くされてしまう。その後、八坂神社や清水寺に参拝する人々で再び賑わいを取り戻した江戸時代初期に、八坂神社の門前で水掛茶屋が営業されるようになる。そして茶店で働く給仕の中でも、踊りや唄・三味線などで客をもてなす芸達者な茶汲み女性が人気となり、次第に専門化し芸妓や舞妓の始まりだと考えられている。水茶屋は単なる茶店ではなくお座敷で遊興できる御茶屋として、徳川幕府に公認され享保17年(1732)には茶屋株を持つ商形態を許されている。
特に祇園新橋は元治2年(1565)の大火後に建てられた町屋が多く、地元の人々によって自主的に町並みが保存されてきた。そしてこの地区の人々の要望により、京都市は昭和49年(1974)特別保全修景地区に指定している。そして昭和50年(1975)の文化財保護法改正により、伝統的建造物群保存地区制度が創設されると、昭和51年(1976)重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。この選定は産寧坂地区と同時であり、昭和54年(1979 )の嵯峨鳥居本地区と昭和63年(1988)の上賀茂地区に先立っている。また祇園新橋保存地区は花見小路と大和大路の間、白川南通と白川そして新橋通沿いの両側約1.4ヘクタールの狭い範囲である。これは他の3つの保存地区と比べても非常に規模が小さい。例えば産寧坂地区は平成8年(1996)地区を拡大し、近代の住宅地を加えているが、祇園新橋地区はそれも難しい状況にある。
お茶屋建築は切妻・瓦葺きの本2階建てで1階は紅殻格子構え、2階の座敷には欄干が設えられている。そしてこの2階には年中簾が下げられている。この繊細な感覚を与える町並みが、祗園らしさ、あるいは京都の景観を代表する本2階建町家茶屋様式を作り上げている。この地区は江戸末期から明治初期にかけて建てられた町並みであり、約75戸のうち伝統的建造物は約70パ-セントを占めている。本2階建町家茶屋様式以外にも大正時代に生まれた本2階建町家塀造り様式、本2階建町家数寄屋風様式なども見られる。このような伝統的建造物は,このように複数の様式は同種類毎に群を構成することによって、祇園の芸能、生活文化にふさわしい洗練された統一感を示している。
白川沿いには吉井勇の碑が残されている。
「かにかくに祗園は恋し寝るときも枕の下に水の流るる」
「祇園新橋の町並み」 の地図
祇園新橋の町並み のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
▼ 辰巳大明神 | 35.0056 | 135.7743 | |
祇園新橋 新橋通1 | 35.0058 | 135.7737 | |
祇園新橋 白川南通1 | 35.0055 | 135.7737 | |
祇園新橋 新橋 | 35.0057 | 135.7746 |
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