社家の町並み
社家の町並み(しゃけのまちなみ) 2008年05月19日訪問
上賀茂の町並みを通る府道103号上賀茂山端線は、大田神社と大田の沢の前から南に進む。約50メートル下り、藤木通に入る。再び西に進むと通りの北側に長屋門が現れる。京都市の建てた駒札によると、上賀茂社家のうち神主筋である賀茂七家の一つ梅辻家である。門には柵が架けられ公開していないようなので、門外からの撮影に留める。
梅辻家住宅の駒札(http://www.miyakoweb.net/kanko/annai.php?p=kita/kamigamo/umetsujikejutaku.txt&map=default : リンク先が無くなりました )によると、主屋の建築年代は不明であるが天保9年(1838)頃には、現在の形になっていたものと考えられている。建物は居室部と座敷部とからなる。古式で格式を備えた意匠を持った座敷部は、御所の学問所を移したものであるとも伝えられているらしい。いずれにしても賀茂七家の中では唯一の遺構であり、上賀茂の社家住宅の代表例として昭和61年(1986)に京都市指定有形文化財に指定されている。この社家町には梅辻家住宅以外にも岩佐家住宅(http://www.miyakoweb.net/kanko/annai.php?p=kita/kamigamo/iwasakejutaku.txt&map=default : リンク先が無くなりました )、井関家住宅(http://www.miyakoweb.net/kanko/annai.php?p=kita/kamigamo/izekikejutaku.txt&map=default : リンク先が無くなりました )が京都市の指定有形文化財に、錦部家旧宅である西村家別邸の庭園は、岩佐家庭園ともに京都市指定文化財・名勝に指定されている。
社家とは建物を示すものではなく、身分をあらわす言葉である。代々特定神社の神職を世襲してきた家のことであり、上賀茂神社でも古くは賀茂氏人の中から社務職を選んでいた。鎌倉時代以降は、賀茂氏久の系統につながる家々がこれを独占することになる。そして明治時代までは、松下・森・鳥居大路・林・梅辻・富野・岡本の賀茂七家が、神主、禰宜、祝・権禰宜・権祝など九職を務めている。これらに携わる人々が社家町を形成して集住し、町並みが形成されてきたのが室町時代の頃である。江戸時代の旧集落は、賀茂七家を始めとする社司と氏人だけではなく、これらの人々と農民が集住する特殊な性格を持つ集落であった。しかし明治4年(1871)の太政官布告により神職の世襲は廃止される。これにより神主家七家(賀茂七家)もなくなり、江戸時代には300軒ほどあった社家も激減し、現在は20数軒という状況になる。社家の家が集まった所は社家町と呼ばれ、社家町、社家という地名の多くは、かつて社家町があった場所とされている。奈良の春日大社や出雲の出雲大社に同様の社家町を見ることができる。
室町時代以降、賀茂の家名は地名等を用いてきたため、同一の家名が同じ家系を示すものでなくなった。そのため社家は特定の一字を個人の諱に付すことによって、一族の系譜が分かるようにしている。いわゆる 氏、平、清、能、久、俊、直、成、重、幸、季、保、宗、弘、顕、兼(光格天皇御諱「兼仁」を畏んで 経 に改める)の十六流が賀茂の社家には存在している。すなわち社家間で「異名」という通称が用いられ、家を区別してきた。
前述のように梅辻家は賀茂七家のひとつであり、岩佐家は賀茂十六流の氏、井関家は直の流れに属している。現在の井関家住宅を際立たせている3階建ての望楼・石水楼は明治以降の増築と伝えられている。梅辻家住宅、岩佐家住宅そして井関家住宅の建物に共通する特徴は、主屋の妻面は小屋裏まで立ち上げた柱と水平に通る貫とで飾り付けられている。
社家の町並みを構成する要素は、北側から迫る山並み、東西に走る藤木通、上賀茂神社から発し藤木通の南側を西から東へ流れる明神川、社家の周囲に巡らされた塀、そして社家町の東端に鎮座する藤木社と大樹である。
現在の藤木通は明神川が流れるため歩道も作られていないが、恐らく昔の姿に近いものと思われる。藤木通の明神川側には電柱が立てられていないが、通りの北側には電信柱が立てられている。伝統的建造物群保存地区に指定されている社家町は、産寧坂のような観光地ではないが、将来的に電線の地中化が行われることを強く望む。この藤木通は比較的幅員があるため交通量が多くなっている。特に歩道もないため写真撮影時には、周囲に対する注意が必要である。
社家町を特徴付けている明神川の源流は、賀茂川の柊野堰堤から左岸を導かれる。この流れはMKボウル上賀茂のあたりから賀茂川より離れ、京都ゴルフ倶楽部のコース内へ入る。ここには小池と蟻ヶ池の2つの池があり、御手洗川と御物忌川が流れ出でている。京都ゴルフ倶楽部の中は窺い知れないが、Sangoさんの ブログ:ノルマ!! 賀茂:小池・蟻が池(http://sango-kc.blog.eonet.jp/eo/2006/05/post-a1f7.html : リンク先が無くなりました )には、上賀茂神社の北側の地の戦前・戦後そして現在の姿が描かれている。
御手洗川と合流した賀茂川からの流れは、上賀茂神社の西北から境内に入る。そして楼門前で小丸山から来る御物忌川と合流し、二の鳥居内陣の神域を出るまでは御手洗川と呼ばれる。二の鳥居から続く玉垣の端に架かる夜具橋から下は、その名称も楢の小川に変わる。そして一の鳥居続きの玉垣の端に架かる酒殿橋から境外へ出ると初めて明神川になる。
社家町の間は藤木通の南側を流れる。通りの南側の社家へは、明神川に架けられた石橋や土橋を渡って入ることとなる。この風景が上賀茂の社家町の特徴を作り出している。それぞれの橋毎に異なった装いになっているため、順に見ていっても飽きない。明神川は、藤木社の角でやや南にそれた後も東に進むが、大田神社あたりで地図上から流路は無くなる。恐らく暗渠に入った明神川は、南に下りながら上賀茂用水路に分かれて田畑を潤し、上賀茂橋から北山大橋付近で賀茂川に戻っていくのであろう。
明神川が藤木通から分かれて南に逸れて行く場所に藤木社と楠の大樹がある。上賀茂神社の末社・藤木社の祭神は瀬織津姫神で、明神川の守護神として信仰されてきた。藤木社の背後に植えられた見事な楠は、樹齢500年と言われていることから、この社家町が形成された室町時代から存在していたのだろう。
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