徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2011年 6月 12日

朝彦親王墓 その3

 

朝彦親王墓(あさひこしんのうのはか)その3 2008年12月22日訪問 朝彦親王墓  安政6年(1859)12月7日に、退隠 永蟄居が加えられた朝彦親王は、12月11日に青蓮院を出て相国寺の塔頭桂芳軒に移り、獅子王院宮と名を変えて謹慎する。安政の大獄の処刑は安政6年(1859)10月27日の吉田松陰を以って終わる。そして翌万延元年(1860)3月3日の桜田門外の変で、井伊直弼は水戸藩と薩摩藩の脱藩浪士によって暗殺される。しかし朝彦親王の永蟄居が許されるのは、さらに先の文久2年(1862)4月30日まで待たねばならなかった。明らかに弾圧の首謀者がいなくなったにもかかわらず許されなかった2年… ►続きを読む

 

朝彦親王墓 その2

 

朝彦親王墓(あさひこしんのうのはか)その2 2008年12月22日訪問 朝彦親王墓  朝彦親王は文政7年(1824)伏見宮邦家親王の第4王子として生まれている。朝彦親王も同様だが、父の邦家親王は17王子、15王女と現在では考えられないほど子宝に恵まれている。第1王子・山階宮晃親王(文化13年(1816)生まれ)、第2王子・聖護院宮嘉言親王(文政4年(1821)生まれ)、第3王子・曼殊院宮譲仁親王という兄達の母が藤木壽子であるのに対して、朝彦親王の母は青蓮院坊官・鳥居小路経親の長女信子である。坊官とは門跡寺院の家臣のなかで最上位の者であるため、卑賤の子と言うわけではない。伏見宮家は妃鷹司景… ►続きを読む

 

朝彦親王墓

 

朝彦親王墓(あさひこしんのうのはか) 2008年12月22日訪問 朝彦親王墓 賀陽宮墓地と久邇宮墓地  雲龍院の拝観を終えて、泉涌寺の大門方向に歩いていくと、解脱金剛宝塔の南に賀陽宮墓地と久邇宮墓地がある。 文久3年(1863)の八月十八日の政変の政変後、一時尹宮と称していた中川宮朝彦親王は、翌元治元年(1864)に賀陽宮の宮号を賜っている。宮号は朝彦親王の宮邸として賜った京都御所南方の旧・恭礼門院の女院御所にあった榧の老木に由来すると言われている。明治元年(1868)朝彦親王が広島流謫された際に宮家は廃されるが、明治33年(1900)朝彦親王の第2王子である邦憲王によって宮家は再興され… ►続きを読む

 
 

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