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山紫水明処 その3 



山紫水明処(さんしすいめいしょ)その3 2009年12月10日訪問

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山紫水明処

 木崎好尚の「百年記念 頼山陽先生 増補版」(頼山陽先生遺蹟顕彰会 1933年刊)の年譜に従うと、文化8年(1811)の入京以来下記のように転居を繰り返していることが分かる。
文化8年 (1811) 閏2月 入京 新町通丸太町上ル春日町に開塾
文化9年 (1812) 正月 車屋町御池上ル西側に転居
文化12年(1815) 6月 二条高倉へ転居
文政2年 (1819) 3月10日 先発帰京、二条木屋町仮寓
文政4年 (1821) 4月26日 両替町押小路上ル東側に転居
             (薔薇園)
文政5年 (1822) 11月9日 東三本木に経営中の宅
             (水西荘・山紫水明処)に移る
文政11年(1828) 山紫水明処を造営
天保3年 (1832) 9月23日 門人関藤藤蔭に、政記原稿及び
             跋文の写本を命じ、検閲一過、夕刻没す。 
天保5年 (1834) 10月16日 梨影より、富小路転居の事を
             梅飃に報ず

 頼山陽の京における転居の経緯については、安藤英男の論文「頼山陽の京寓とその生活 ―頼山陽書簡集をめぐって」が詳しい。これに従い見て行くこととする。
  文化8年(1811)閏2月下旬 ~ 文化9年(1812)正月
               11ヶ月 内不在 延2ヶ月

 菅茶山の許を去った頼山陽が、京阪に向ったのは弘化8年(1811)閏2月6日のことであった。同月15日に、大阪江戸堀犬斎橋南詰めにあった篠崎三島邸に身を寄せている。三島は養嗣子の小竹とともに梅花社の名で経学を教えていた。
 上京した山陽は塾を開くために、最初の家を選んでいる。そして新町丸太町通上ル春日町に、階上八畳、階下に八畳と六畳の家財道具のついた「立派なる家」を見つけている。階上は居間と書斎に、階下の二間に門生を集め授業を行うつもりであった。早速、「頼久太郎」の表札を掲げ、父の頼春水と親交も有り、広島藩の飛脚も営む金山重左衛門に挨拶に赴いている。重左衛門の家は室町通長者町下ルにあり、山陽の新しい借家からも近いため、今後の支援も受けるためでもあったのであろう。重左衛門はたとえ嫡子でなくなっても、藩士の子が京都で堂々と表札を掲げてもよいものかと疑問を呈し、大阪蔵屋敷あたりを通じて藩当局の許可を得たほうが良いと忠告した。そして咎めがあれば父の身にも及ぶと加えた。驚いた山陽は、直ちに表札を下ろし借家を保証人となった小石元瑞名義にしてもらい、3月15日に伏見より夜舟で大阪へ下っている。これが頼山陽の2回目の脱藩疑惑であった。
 再び篠崎父子を頼った山陽は、三島の門人であった広島藩大阪蔵屋敷で中背頭を勤める田中藤三郎に従い、菅茶山の意向確認を行っている。すなわち、既に山陽は正式に藩の許可を得て茶山塾で講師を行っていたため、茶山の同意を得て上京したことを明らかにする必要があった。茶山の同意を得た上で、藤三郎の計らいで藩当局の意向も確認した上で、再び5月に入京を果たしている。その際、新たな借家を「三條・姉小路・東洞院・車屋町など」で探し、室町丸太町上ルに狭いながらも条件に見合った家を見つけている。しかし二転三転し最初に見つけた新町丸太町通上ル春日町に戻る事となっている。そして文化8年(1811)5月23日に眞塾を開塾している。

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山紫水明処

  文化9年(1812)正月 ~ 文化12年(1815)6月
            3年5ヶ月 内不在 延1ヶ年

 京での最初の新年を迎えた山陽は、その正月中に車屋町御池上ル西側に居を移している。これは最初の家の家賃が高かったためと考えられている。旧宅には8ヶ月、その内の2ヶ月は、大阪に緊急避難していたため、最初の京の家には半年しか居なかったこととなる。
 山陽は新居に「香雪書屋」という雅号をつけている。恐らく引っ越し早々の雪景色に風雅を感じたのだろう。この後、居を改めるたびにその住居に雅号をつけている。この頃の京都には町儒者だけでも60名を越えていたため、新参者として加わった山陽は弟子を増やすことも容易ではなかった。門人からの束脩だけで生活をすることができなく、比較的廉価で積極的に揮毫を行っていた。そのため入京当時から文化9年(1812)秋の播州遊歴にかけての書画が多く残されている。

 文化10年(1813)3月、父の春水は孫の聿庵を伴い、上国へ出ている。老境に入った春水は、健康が勝れず有馬温泉で湯治するということであった。これは名目に過ぎず、実は山陽の生活具合を確認し、生前の内に勘当同様の関係を修復したいと望んだためである。山陽は3月25日、風雨を冒して淀川を下り、大阪で4年振りの再会を果たしている。そして4月4日に香雪書屋に父と長子を案内している。その後、11日まで市内及び近郊の遊覧に従い、春水一行を西宮まで見送っている。眞塾を再開したのが5月6日のことであったから、3月下旬より1ヶ月以上収入がなかったばかりか、膨大な出費になったと思われる。
 文化11年(1814)8月10日、急遽京を発ち23日に広島に帰省している。京への転居自体が藩当局の黙認状態であったことを改め、正式に藩籍離脱を公認してもらうための行為でもあった。帰省した山陽は両親から歓待されたと共に、藩当局の評判も上々であった。そして今後の京での執筆活動の確信を得ている。9月11日に広島を発ち鞆津を経て12月2日に帰京している。

 山陽は文化11年(1814)初頭には梨影とこの家で暮らしていたようだ。2月26日に山陽は、そのことを篠崎小竹に告げている。これ以前には蓬頭乱髪の書生が寄宿していたようだが、この小竹への報告の中では、書生を追い出し老媼を雇って薪炊の労をとらせ、庭なども整えている様が記されている。そして梨影を内縁の妻として迎えている。また3月5日は江馬細香を招いていることから、この時点では梨影も正妻ではなかったようだ。そして正式に梨影を入籍するのは翌12年(1815)のことであったから、次のニ條高倉の家であったと推測される。
 文化12年(1815)4月2日、父春水が病気だという知らせを受け、7日に2度目の帰省を果たしている。幸い容態はさほどではなく、長男の聿庵が春水の嫡子として家督が許されたことを受けて、広島の実家の将来も一安心する。14日に広島を発ち、高松琴平を経て、5月13日に京に戻る。この直後の6月に、再び引っ越している。転居の理由は、初夏の湿気が多い季節で風通しが悪く狭苦しい家であったとされている。

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山紫水明処

  文化12年(1815)6月 ~ 文政2年(1819)3月
              3年9ヶ月 正味3年前後

 山陽は新たな古香書屋を「鎗の鞘」のような家と表現している。安藤英男の論文「頼山陽の京寓とその生活 ―頼山陽書簡集をめぐって」には古香書屋の平面図が付けられている。典型的な京町家であるが、奥の座敷へ通る客に台所などの生活感を感じさせないように、通り庭の他に隣接地との間に路地を設けている。今までの家は塀に囲まれ、門の中に玄関がある家と比べると格式がなく狭苦しさを感じる家となっている。ニ条通に面した店舗部分の8畳の座敷を教室とし、2階に書生を起居させた。奥まで2階があったと思われるので、相当数の書生をむかえるようになっている。山陽は1階奥の座敷で生活したようで、ここを別院と称して書斎にあて、上客は路地を通して迎えている。古香書屋は、この書斎の雅号で、5番目の寓居となる両替町押小路に転居した際にも書斎の名に使用している。山陽は書斎の面した小さな庭に樹木を植え庭石を据え、煎茶を楽しんだとされている。この趣味はさらに、両替町押小路の薔薇園以降に大いに発展するが、その端緒がこの地にあった。
 文化13年(1816)2月19日、父春水危篤の報を受ける。同月24日、5日半で広島へ帰省するも、既に春水は19日に没し葬儀も終えていた。3週間滞在し後始末を行ったのち、4月3日に帰京している。これより3年間喪に服し、閨房を絶ち行楽も慎み酒肉を絶った。文政元年(1818)正月、三回忌の法要を営むため、4度目の帰省を行う。2月29日に法要を終え、喪明けとなる。そして3月6日より九州遊歴を開始する。これは既に京都を発つ時から、心に決めていたことである。小石元瑞には留守中を依頼しているが、それ以外には明かさずに旅行に出たようだ。他の塾に塾生を奪われることなく、また遊蕩の癖が出たと喧伝されることを嫌ってのことである。文政元年(1818)3月より翌年の正月にかけて京都を不在している。留守中を任された元瑞は、塾を一時閉鎖し家賃を節約するために梨影をより狭い所に移している。そのため、母の梅飃を京に迎えた際に新しい家を用意しなければならなかった。この旅で得た知己は、その後の山陽の執筆活動にも大きな影響を与えているが、さらに注目すべきは、この旅において酒の味を覚えた事である。京に戻ってからは茶器を棚に上げ、酒器を傍らに置くようになる。そして伊丹の銘酒を欠かさないようになる。
 文政2年(1819)2月4日、山陽は九州を巡り終え広島に到着している。そして母を伴い2月23日広島を発ち3月7日に大阪に着く。大阪では山陽の門人の後藤松陰が迎接を引受け、山陽は一行に先んじて下阪する。3月10日京に戻った山陽は1年振りに妻梨影に会い、無事に帰京できたことを喜び合う。そして母を迎えるための新しい借家探しを開始する。かねがね鴨川を臨む地に住んでみたいと考えていたが、丁度二条通木屋町の鴨川縁に柴屋長次郎という人の貸し座敷があり、ここに決める。連子窓は張替え、枕布団は新しいものを用意する。母の一行は3月18日、淀川を昼舟で京に向かい、八幡で一泊した後、翌日山陽が迎え出た伏見社で合流している。そして木屋町の川屋敷に案内している。

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山紫水明処

  文政2年(1819)3月 ~ 文政4年(1821)4月
            2年1ヶ月 内不在 4ヶ月

 文政2年(1819)3月の二条木屋町仮寓は、山紫水明処
http://vinfo06.at.webry.info/201307/article_2.html
の後半でも触れたように、母の梅飃を伴い帰洛した際に使用している。そしてこれが山陽の母親孝行のための遊歴の第一回目となる。京都市年緑化協会に掲載されている山紫水明処の庭でも4度目の転居を二条木屋町とし、この屋敷に山紫水明処と名付けたとしている。同様に「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)にも、「木屋町二条下ル柴屋長次郎宅」と記述されている。木崎好尚著の「頼山陽」(新潮社 1941年刊)には、二条高倉から二条木屋町に居を移した理由を下記のように記している。

三十日まで、ゆっくり逗留して、吉備津宮から、ゆる/\播州巡りの上、兵庫より尼ヶ崎に舟を着け、大阪滞在の上、山陽は京へ、母はそのまゝ居残り、十九日に入京した。
その間に町中では面白からず、ニ條木屋町下ル賀茂川べり、柴屋長次郎の座敷を借り受け、梨影とも/\車屋町から引移ったところへ、母は迎へられて、
   高どのに登りてみれば、ひがし山、一目にみえ、
  ひえの山も見ゆ。夜は、ふし待月いでて川にうつり、   水の音おかしく、千鳥しば/\鳴く。
とよろこんだ。山陽は、晩酌の頃、一日中の見晴らしが好いから、暮近い景色をそのまゝ「山紫水明処」と称へてゐたが、後に三本木へ移ってからも、この名はかへなかった。

 二条木屋町仮寓は木屋町通に面した側に柴屋長次郎の住居があり、山陽が借りたのはその奥の鴨川に面した別棟である。通りから別棟には母屋を通らずに行ける路地が付いていた。このあたりは炭や薪を商う店が多く、柴屋という屋号から薪炭商であったと考えられている。
 もともと、この川屋敷は入京した母を迎え入れるために設けただけあって東山に対しての風光はきわめて良かった。ことに晩酌を始める夕刻には、山は紫色を帯び川面はひときわ映える。山陽はこの風光をそのままに山紫水明処と名付けた。王勃が春の夕暮れを詠んだ詩の一句「煙光凝暮山紫」と杜甫が夏の朝を詠んだ「残夜水明楼」が出典する説もあるが、この美しい光景を前にして山陽が思いついた造語かもしれない。
 山陽が梁川星巌を山紫水明処に招いた時の断筒に以下のようなものがある。

今日、鮮鯽、泉川酒など有之候。
御一來同候。
雨裏不ズシモ山紫水明之時候。
チト早く御出可成候。

 泉川とは伊丹の銘酒で剣菱と並び山陽が愛した銘柄である。山紫水明時とは季節によっても異なるが、午後四時頃である。この時間帯から晩酌を始め、再び夜から執筆を続けたので、それ程の大酒呑みではなかったのであろう。四斗樽を3月で呑んでいたとされていることから、1日あたりで四合となるが、星巌などの客を招き、弟子と晩酌をしながら講義を行っていたので、必ずしも一人で飲んでいたのではないようだ。
 また木屋町二条下ル山紫水明処の家賃は高かったようで、後に山陽は鳩居堂の熊谷及右衛門に家主に家賃について掛け合って貰うように依頼している。鳩居堂は文房具を扱う老舗であるため、山陽家にも出入りし何かと頼家の雑用もこなしていたようだ。

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山紫水明処

  文政4年(1821)4月26日 ~ 文政5年(1822)11月
                        1年7ヶ月

 山陽は再び市街地へ転居している。もともと二条木屋町仮寓は母梅飃を迎えることを優先して決められた居宅であったので、風景は良いものの宿屋で暮らしているように落ち着きが得られなかったようだ。その上、河原に日の当たるのを眺めていると目が疲れ精神も散漫になってしまう。夏は照り返しが強く、冬は風が膚を突き刺すなど、凡そ執筆活動を行うのに相応しくなかったようだ。御幸町押小路上ル東側に格好の家を見つけ、再び鳩居堂の主に斡旋を依頼した。その他にも小石元瑞や有栖川宮家の医師・秋吉雲桂に市内の物色を依頼している。堺町通に適当な物件を見つけ交渉したが纏まらない内に、両替町に新築の空家を見つけることが出来た。家主に当たると早速にも貸すつもりになったので、家主は大掛かりな手入れを始めた。このような経緯があったので山陽も両替町の借家を新たな居宅とすることにした。今までの借家暮らしの経験から、二階は門人に寄宿させ、1階を広く取り自ら過ごすこととした。1・2階合わせて50畳ほどもある居宅で五間に三間の庭もついている。樹木を植えて庭を楽しむことが十分できる余地も得ている。
 この家における山陽の関心は専ら園芸に注がれていたことが当時の書簡からも分かる。山陽はこの家を薔薇園と名付けたが、南の垣根に薔薇の挿木を施したからである。

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山紫水明処

「山紫水明処 その3 」 の地図


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山紫水明処 その3  のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01   頼山陽 1 新町丸太町通上ル春日町 35.0177 135.7565
02   頼山陽 2 車屋町御池上ル西側 35.0112 135.76
03   頼山陽 3 ニ條高倉東入ル北側 35.0137 135.7626
04   頼山陽 4 木屋町二条下ル柴屋長次郎方 35.0128 135.771
05   頼山陽 5 両替町押小路上ル東側 35.0125 135.7589
06  山紫水明処 35.0181 135.7708
07   頼梨影 7 富小路通押小路下ル 35.0119 135.765
08   頼支峰 8 高倉通六角南 35.0071 135.7626
09  頼三樹三郎 9 河原町三条上ル夷町 35.0095 135.7694
10   頼支峰 10 小堀袋町 35.006 135.7782

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