鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 その3
鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 (とばふしみせんぼうちょうじゅなんしゃのはか)その3 2008/12/22訪問
慶応4年(1868)1月3日の夕方、小枝橋での通過交渉が決裂し、ついに鳥羽伏見の戦い、あるいは1年半に及ぶ戊辰戦争が始まる。詳しい戦いの経過は、野口武彦著「鳥羽伏見の戦い 幕府の命運を決した四日間」(中央公論新社 2010年刊)や以前の項に譲るものとする。長州軍の出兵した伏見方面も、この小枝橋での武力衝突の砲声を受けて始まる。伏見奉行所に詰めていた会津軍や新選組は、奉行所を出て市街戦を挑むが、碁盤の目に配置された伏見の町並みに死角がなく、次々と兵を失っていく。さらに御香宮神社や東側の斜面からの砲撃により奉行所は炎上し、1月3日の深夜に旧幕府軍は伏見からの撤退を余儀なくされる。翌4日も伏見方面は堀川右岸と中書島での戦いが続く。新政府軍は前日に配備した伏見守備隊から、薩摩軍の小銃1番・3番隊、3番遊撃、1番・2番大砲隊、そして長州軍の第6中隊を鳥羽に転進させている。この地域では大軍を展開できなく、鳥羽方面の戦局も好転しなかったためである。また旧幕府軍の方は総督・大河内正質と指揮官・竹中重固の指示がなかったため、大した成果を上げることができなかった。新政府軍が鳥羽方面に兵を移した時が、数に勝る旧幕府軍の唯一の反攻時期であったが、みすみす好機を逸したことが後になって明らかになる。結局、この日の伏見方面の新政府軍は進撃を行わなかったため、戦闘の記録も乏しい。
そして開戦から3日目の1月5日、錦旗が戦場に翻る。この日の早暁、征夷将軍仁和寺宮嘉彰親王は東寺の本営から戦陣の視察に出発する。先陣は薩摩軍の1小隊、次に錦の御旗2旒を錦旗奉行の四条隆謌と五条為栄が護衛する。馬上の将軍宮を薩摩藩士・高崎右京が傍らに従う。そして烏丸光徳と東久世通禧の両参謀が続き、最後に安芸藩1小隊が護衛を務める。東寺を出た将軍宮は、鳥羽街道を南下し横大路の民家で休憩、あたりを歩行して彼方の戦況を視察している。この日の鳥羽街道での戦いは、前日に旧幕府軍に奪回された富ノ森陣地の攻略から始まっている。現在も千本大通沿いに横大路富ノ森町の地名が残るが、旧幕府軍工兵隊は土つめた酒樽を並べた陣地を築いている。正午頃に大山弥助率いる砲兵の突撃により富ノ森陣地は陥落し、戦闘は納所陣地に移っている。そして午後2時頃には新政府軍は宇治川に架かる淀小橋に達していたと思われる。この時に及び淀藩は旧幕府軍の入城を拒絶している。そのため敗走する旧幕府軍は淀での戦闘を諦め、橋本・八幡まで退却して陣容を整えることとなった。そのため将軍宮は砲声の静まった淀付近まで進み、淀堤を廻り伏見の焼け跡を巡検し暮れ方に東寺に帰還している。
錦旗の巡行は映画等でよく見るような最前線に出ることなく、上記のように安全な後方部分で行われている。そのため朝敵となった旧幕府軍が錦旗を見て愕然とするようなことはなかった。しかし官軍となった新政府軍の将兵には効果絶大だったようだ。
長州軍第5中隊(振武隊)は司令の石川厚狭介に率いられ、宇治川北岸沿いに伏見から淀方面に向かった。この伏見からの進攻は、富ノ森陣地を攻略し鳥羽街道を南下する隊、そして桂川左岸の山崎街道を進む隊と連携し、淀で合流することが目的であった。この作戦が成功すると旧幕府軍は淀以西に押し出され、再び入京するためには隘路となっている淀を大軍で攻略するという戦術的にも不利な局面に陥る。また新政府軍も三方面の進攻速度を合わせないと敵中に突出することにもなる。そのため、この日の戦闘は両軍共に重要な局面にあったことは間違いがない。
石川の第5中隊は伏見奉行所南側の豊後橋あたりから約2キロメートル西の千両松付近に進出する。この辺りは明治以降に行われた巨椋池の開拓や宇治川、桂川そして淀川の流路変更工事により、当時とはかなり異なった風景となっている。このことを理解しないと当時の戦闘状況は分からないだろう。伏見から淀への道・淀堤は宇治川の堤防道になる。淀に向かい左手は巨椋池の水面、右手の湿地帯には横大路沼を始めとする大小の沼が散在していた。戦闘開始以来の北風が、この日も吹き続け、一面に葦が生い茂る湿地帯を進む兵士たちの目には、この荒涼とした風景がどのように映ったのだろうか。千両松とはこの堤防道に植えられた松が見事であったことから太閤秀吉が名付けたもので、現在では松の木は失われ、横大路千両松の地名として残っている。横大路運動公園や南部クリーンセンターあたりが、かつての千両松と呼ばれた場所となる。
新政府軍は長州の第5中隊を含む2中隊を先頭に、薩摩2番隊・4番隊・12番隊、2番・3番遊撃隊、私領2番隊と臼砲隊が前進する。これに対して、この隘路で新政府軍の進攻を食い止めるため、旧幕府軍は淀の本営から押し上がり、路上に大砲を据えるともに、部隊を散開させ、竹薮や低木を楯に野戦陣地を敷いて迎撃する。この方面には佐川官兵衛の率いる会津藩屈指の精鋭・槍隊が蘆の中に潜伏して敵の到来を待ち伏せていた。第5中隊は旧幕府軍の前衛と交戦しこれを退かせ、街道上に据えられた大砲2門を捕獲している。その勢いで前進したところを、葦原に潜んでいた槍隊の突撃を受ける。この交戦により石川厚狭介は胸板を貫かれる。深手に屈せず会津兵を射殺するも20名以上の槍隊士によって首が持ち去れている。この戦闘の状況は、野口武彦氏による「鳥羽伏見の戦い」で掲載した「復古記」第9冊「伏見口戦記」第二に生々しく描き表わされている。
「第五中隊、伏見を出、河堤に沿うて進み、千両松敵兵と交戦数刻にして打ち崩し、大砲二門を奪い、勢いに乗じて尾撃す。時に、敵兵、横手二十人を葦中に伏せ居り、忽然我が軍を望んで突入し、司令石川厚狭介、その胸を通されながら、当の敵を打ち殺し候ところ、また一人来て突き倒す。我が兵奮戦これを救わんと欲すれども、左は大河、右は沼にて、ただ一筋の河堤ゆえ、一斉に進むこと相叶わず。ついに敵のために奪い去らる。」
第5中隊は後退し、長州第1中隊とこれを砲撃で支援するため鳥取藩砲隊が先頭に立って戦う。たちまち新政府軍の砲が破損し使えなくなると、第1中隊も苦戦する。戦陣の後方から臼砲隊の砲撃を援護射撃として薩摩12番隊が戦線に進出する。隊長・伊集院与一の戦死にも屈しなかった12番隊の奮戦により、壮絶な千両松の戦いの戦局を変えた。
西暦1875年 – 同志社英学校が開校・明治天皇があんパンを食す
大政奉還、鳥羽・伏見の戦いをマップに追加しました。