七条油小路の辻
七条油小路の辻(しちじょうほんこうじのつじ) 2009年1月11日訪問
油小路通を下り、木津屋橋通の本光寺の山門まで至る。慶応3年(1867)11月18日の夜、この山門前に置かれた題目石塔に倒れ掛かるようにして伊東甲子太郎は絶命する。新選組は伊東の遺骸を七条油小路の辻に運び、月真院に伊東の死を伝えさせる。現在の七条通は4車線の大通りとなっている。これは大正から昭和に入ってから行われた都市計画事業により、七条通が北側に拡幅された結果である。そのため伊東の遺骸が置かれた幕末の七条通は現在の中央線から南側の部分だったと考えられる。
御陵衛士達が伊東甲子太郎の暗殺を知ったのは日付のかわる頃だったとされている。最初から新選組の仕業であったことは分かっていた。甲子太郎の実弟である鈴木三樹三郎は、自分一人で出向き新選組に伊東の遺骸の返還を申し出るとした。周囲の賛同が得られず、その場にいた全員で遺骸の収容に向かうこととなった。服部武雄は激しい戦闘を想定し甲冑で身を固めて行くことを主張する。しかし篠原泰之進は多勢に無勢、いずれ討ち取られた時に甲冑を着ているようでは臆病者とされるとし、平装で向かうこととなる。
このようにして七条油小路の辻に駆けつけたのは、鈴木三樹三郎、篠原泰之進、服部武雄、藤堂平助、毛内有之助、加納道之助、富山弥兵衛の7名で、他に小者の武兵衛と駕籠かきが同道していた。伊東の遺骸を駕籠に乗せたところで、御陵衛士達は新選組に囲まれたのであろう。加納と鈴木は西側、篠原と富山は東側の敵を引き受け闘った後、血路を開いている。そして服部、藤堂、毛内の3名がこの場に留まり闘い、討ち死にしている。まずは藤堂が斃れ、その後、剣術がそれほど得意でなかった学者肌の毛内がなますのように切り刻まれた。この2人が辻の南西と北東で絶命した後も、鎖帷子を着込んだ長身の服部は二刀流で1人新選組を相手に奮戦するが、疲労と出血によって弱ったところに槍を付けられる。その後、総がかりの乱刃を受け壮絶な死を迎える。
鳥取藩がまとめた慶応丁卯筆記には、この3人の死様が克明に描かれている。
藤堂は、七条通油小路南西手に倒れ居り候。疵所両足、横腹弐ヶ所。面上鼻より口へ掛深さ二寸程、長さ七寸斗り、刀を握り候儘果て居り候。横腹を斬られた後、面上から口にかけて切り裂かれた斬撃が致命傷となったのであろう。両足の傷は死の確認のために受けたものと思われる。
毛内は、油小路通七条少し上ル東側へ寄果居候。傷は書き尽しがたし。五体離れ離れに相なり、実に目もあてられぬさまに御座候。かたわらに刀の折れ候ままこれ捨ておかれあり、脇差を握り候まま果ており候。長刀の折れた毛内は脇差を抜いて闘うも、「毛内の百人芸」とされる彼にしても多勢に無勢、「五体離れ離れ」になるほど斬られたのであろう。
服部は、辻北東手に倒れ居候。疵所背中数ヶ所、是は倒れ候処を散々に切付候趣にして、疵の数分からず。うつむけに倒れ居候を、翌日あおみけ候ところ、腕先三ヶ所股脚四、五ヶ所、かか先一ヶ所、胴腹一ヶ所流血おびただしき鈴木達4人を逃がすために鎖帷子を着込み、1人でも多くの敵を引き付けるため奮戦したと言われている。
新選組の死の包囲網を切り抜けた加納は薩摩藩出身の富山に合流する。その後、鈴木に出会い、今出川の薩摩藩邸に保護を求める。篠原も今出川の桂宮家権太夫尾崎刑部の屋敷に匿われた後、薩摩藩に保護されている。また鳥打のため不在であった阿部十郎と内海次郎も帰京し、土佐藩に保護を求めるが拒絶される。泉涌寺の塔頭・戒光寺に立ち寄った後、やはり他の御陵衛士とともに薩摩藩に保護されている。
伊東、藤堂、毛内、服部の遺骸は再び鈴木達を誘き出すために、そのまま油小路に置かれた。その後戒光寺の長老堪念の埋葬の懇願を断り、新選組の手によって壬生の光縁寺に葬られた。伊東亡き後の御陵衛士は上記のように薩摩藩に身を寄せ、新選組への報復の機会を求めていた。慶応3年(1867)12月18日、伊東等の祥月命日に当たる日に、阿部、佐原、内海は七条醒ヶ井で静養している沖田総司を襲撃するも、既に伏見奉行所に居を移していたため失敗に終わる。しかし寺町で近藤勇を見かけたため、篠原、加納、富山を誘い、墨染の地で京から伏見奉行所に戻る近藤を襲撃する。御陵衛士の狙撃は近藤の肩に命中するが、近藤は落馬することなく奉行所へ馬を走らせる。御陵衛士は新選組隊士1名と従僕を斬殺するに留まる。しかし狙撃の銃弾は近藤に重傷を与え、12月20日には戦線を離脱している。
慶応4年(1868)2月13日に、同士の手によって戒光寺の禁裏御陵衛士墓所に改葬されている。
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