法金剛院 その2
律宗別格本山 五位山 法金剛院(ほうこんごういん) その2 2009年1月12日訪問
大治5年(1130)第74代鳥羽天皇の中宮待賢門院は、仁和寺の御堂として復興する。養父で寵愛を受けた白河法皇追善のためであり、この時に寺号を法金剛院と改めている。そして待賢門院は晩年をこの地で過ごす。
大治4年(1129)7月24日に白河院が崩御する。同年9月10日、待賢門院は仁和寺御堂を建立するため、候補地の視察を源師時に命じている。師時は中原師能と伴い花園の天安寺を視察する。東西に川が流れ後方に山があり、南は開けているという地形は、御堂の建立地としては最適であると考えるに至る。法金剛院で記したように、天安寺は文徳天皇の御願寺であることから、この地への建立を差し控えるべきとの意見もあった。しかし天安寺の地に待賢門院の御堂を建立することが決定される。このようにして天安寺は廃寺となり、跡地は法金剛院に受け継がれることになる。
待賢門院は康和3年(1101)正二位行権大納言藤原公実の娘として生まれる。母は左中弁藤原隆方の女で堀河・鳥羽両代の乳母光子。7歳にして父を失い、時の治天白河院とその寵姫祇園女御に養われている。長じて摂関家の嫡男藤原忠通との縁談が持ち上がったが、璋子の素行に悪い噂があったため忠通の父忠実は固辞し、白河院の不興を買うこととなる。
永久5年(1117)白河を代父として、父方の従弟・鳥羽天皇に入内、女御の宣旨を蒙った。翌元永元年(1118)立后され中宮を号す。翌2年(1119)第1皇子顕仁親王(後の崇徳天皇)を出産。その後、賀茂斎院・禧子内親王や、通仁親王・君仁親王を産む。璋子は鳥羽との間に五男二女を儲ける。保安4年(1123)白河院は5歳になった顕仁に践祚させ、璋子も翌天治元年(1124)院号を宣下されて待賢門院と称する。大治4年(1129)幼主三代の政を執った白河院が77歳で崩御する。ここから待賢門院の人生の暗転が始まる。
鳥羽上皇が治天を継承し、崇徳は孤立する。不興を蒙り白河によって関白を罷免されていた忠実を鳥羽は起用している。そしてその娘の泰子(高陽院)を皇后に立てたばかりでなく、璋子に代わって側妃の藤原得子(美福門院)を寵愛するようになる。保延5年(1139)得子が産んだ第8皇子体仁親王を立太子させ、2年後の永治元年(1141)崇徳に譲位を迫り、体仁を第76代近衛天皇として即位させる。
この時期に呪詛事件が相次いで発覚し、璋子が首謀者であるという風説が流される。こうして権勢を完全に失った璋子は、翌康治元年(1142)法金剛院において落飾。3年後の久安元年(1145)長兄実行の三条高倉第にて崩じる。鳥羽は三条高倉第に駆けつけて璋子を看取り、臨終の際は磬を打ちながら大声で泣き叫んだとされている。
大治4年(1129)に白川院が崩御し、翌年には鳥羽殿からかなり外れた花園の地に追善のための法金剛院を待賢門院は中興している。そして、13年後の康治元年(1142)に法金剛院で落飾し、3年後の久安元年(1145)に死去している。待賢門院の墓所は、花園西陵として五位山の中腹に築かれている。
待賢門院の没後、保元3年(1158)大修理が行われ、上西門院統子が入寺する。上西門院統子は鳥羽天皇第2皇女の統子内親王。大治元年(1126)に中宮藤原璋子を母として生まれ、同母兄弟に崇徳天皇、後白河天皇、覚性入道親王、禧子内親王らがいる。崇徳天皇朝では賀茂斎院、後白河天皇の准母・皇后宮、のち女院となっている。上記の保元3年(1158)の大修理は、後白河天皇准母として皇后宮となった年と一致する。永暦元年(1160)統子は法金剛院において出家する。承安2年(1172)法金剛院には東御堂が建立され、丈六の阿弥陀仏が安置される。文治5年(1189年)六条院において、上西門院統子は64歳で崩御する。待賢門院の花園西陵の東側に築かれた花園東陵に葬られる。母・待賢門院璋子時代からの家臣や女房らが仕えた上西門院統子の御所は、西行をはじめとする優れた歌人たちを輩出したサロンでもあった。
最盛期の法金剛院には九体阿弥陀堂、丈六阿弥陀堂、待賢門院の御所などが立ち並んでいたという。しかし度重なる災害により当時の面影は既にない。現存する阿弥陀如来像は像高2.2メートルを超える大作で、丈六阿弥陀堂の本尊と推定される。
鎌倉時に入り、建治2年(1276)奈良唐招提寺より円覚が入寺することで法金剛院は再興する。以後、融通念仏の根本道場となる。弘安5年(1282)堂塔伽藍の修理が行われ、落慶法要が営まれる。正和5年(1316)厨子入十一面観世音菩薩を造立している。そして法金剛院も応仁・文明の乱(1467~77)により焼失し、天正14年(1586)の天正大地震、慶長10年(1605)慶長地震で被災する。元和3年(1617)泉涌寺長老宝囿照珍により本堂、経蔵、鐘楼などが再建される。
近世に入り、明治33年(1900)現在の律宗となる。京都鉄道山陰線開通に伴い境内が二分され縮小され、昭和43年(1968)の丸太町通の拡幅工事により本堂、地蔵院を移築、釣殿、仏殿(収蔵庫)が新築される。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会には法金剛院のことを以下のように記している。
法金剛院ならびの丘にあり、むかし清原真人夏野の別荘なり。其子右大臣瀧雄公もならびの丘のうへに山荘をいとなみて、後寺となして双丘寺となづく。既に荒廃に及ぶの所、大治年中に待賢門院再興ありて、号を法金剛院とあらたむ。宗旨は四宗兼学、中興は円覚上人なり。本尊は阿弥陀如来〔丈六の像、春日作とぞ〕
法金剛院の庭園は、「法金剛院青女滝 附 五位山」として、現在では国の特別名所に指定されている。上記の丸太町通の拡幅工事に伴い、森蘊による発掘調査が行なわれ、青女の滝が見つかり、昭和45年(1970)に復原されている。史跡名所の指定は、その後の昭和46年(1971)に行なわれ、昭和62年(1987)に史跡名所から特別名所に変更されている。
京都市都市緑化協会の公式HPに掲載されている法金剛院の池泉の説明によると、待賢門院の命により五位山麓に浄土信仰の西方極楽浄土の世界を作庭したのは伊勢公林賢で、滝石組の出来栄えの素晴らしさは、人の手によるものとは思われないと絶賛され、そのことを名誉に思った林賢が歌を書き記したことが当時の日記等に残されている。林賢は石立僧の源流の一つ仁和寺流の秘伝書「山水並野形図」を受け継いだ人物の一人で、平安時代を代表する作庭家である。庭園は瓢箪型の池泉が造られ、青女の滝の滝口が池泉の北側に組まれている。 待賢門院はさらに「5、6尺」滝石組を高く築くように命じ、3年後の長承2年(1133)仁和寺の僧侶・徳大寺静意の手によってさらに高く組み直されている。しかし上西門院没後は、天災・戦災により盛衰を繰り返し、やがて大池も埋まり、その出来栄えを絶賛された滝石組も土に埋まってしまう。昭和43年(1968年)の発掘調査が行われ、上端部のみ顔を出していた滝石組が完全な姿で残っていたことが判明し、滝石組や流れの復元とともに、池や植栽の整備が行われ、平安時代の面影を偲ばせる名園が復活することとなった。
青女の滝の石組は、背丈ほどもある大石が2段に組まれている。上記の作庭の経緯から、下の段を林賢が組み、静意がさらにもう一段積み上げたものと考えられている。上下2段の間に違和感は全くなく、林賢と静意という、当代随一の作庭家により作庭されたことがわかる貴重な作例となっている。池の西に丈六阿弥陀を祀る西御堂、南に九体阿弥陀を祀る南御堂、東に女院の御所が建ち並び、西の方向を西方浄土とし、西御堂に安置した阿弥陀如来を拝することができるような空間構成となっていた。現存する浄土式庭園として、有名な岩手県平泉町の毛越寺と観自在王院、福島県いわき市の白水阿弥陀堂があるが、京都では宇治市の平等院と木津川氏の浄瑠璃寺そしてこの法金剛院が事例としてあげられる。
かげまるくん行状集記に掲載されている本朝寺塔記の中の法金剛院には、発掘調査を行った森蘊の伽藍想像図と明治年間の地籍図が掲載されている。これは昭和14年(1939)に発刊された「建築史」に掲載されたものである。地籍図には山陰本線も丸太町通も描かれていない。同じ時期の地図として、国際日本文化研究センターに所蔵されている明治22年測量の「京都」でも見ることができる。双ヶ丘の西側と東側から流れてくる川が交差するY字型部分の少し北側が、当時の法金剛院の敷地の南端のように見える。現在の地図と比較すると、京都市右京ふれあい文化会館の北側に東西に走る道、これが境内の南端であったことが分かる。これから森蘊の伽藍想像図を再び見ると、現在の法金剛院の池泉が瓢箪型の元の池泉の北側三分の一程度あり、大部分が山陰本線の開通と丸太町通の拡幅によって失われたことが分かる。さらに財団法人京都市埋蔵文化財研究所の公式HPに残されている1996年と1997年に発掘調査現地説明会の資料(まるくん行状集記に掲載されている本朝寺塔記の中の法金剛院には、発掘調査を行った森蘊の伽藍想像図と明治年間の地籍図が掲載されている。これは昭和14年(1939)に発刊された「建築史」に掲載されたものである。地籍図には山陰本線も丸太町通も描かれていない。同じ時期の地図として、国際日本文化研究センターに所蔵されている明治22年測量の「京都」でも見ることができる。双ヶ丘の西側と東側から流れてくる川が交差するY字型部分の少し北側が、当時の法金剛院の敷地の南端のように見える。現在の地図と比較すると、京都市右京ふれあい文化会館の北側に東西に走る道、これが境内の南端であったことが分かる。これから森蘊の伽藍想像図を再び見ると、現在の法金剛院の池泉が瓢箪型の元の池泉の北側三分の一程度あり、大部分が山陰本線の開通と丸太町通の拡幅によって失われたことが分かる。さらに財団法人京都市埋蔵文化財研究所の公式HPに残されている1996年と1997年に発掘調査現地説明会の資料(法金剛院旧境内跡・
訪問した日は仏殿を修理していたため庭園だけの拝観というお知らせが山門横に立てられていた。通常の拝観料金が400円なので、庭園だけの拝観を半額にしたようだ。
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