徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2012年 7月

大徳寺 その2

 

臨済宗大徳寺派大本山 龍宝山 大徳寺(だいとくじ)その2 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 正受院の山門  弘源寺の山門を潜り、三秀院と小さな南芳院の前を通り、天龍寺の総門を出ると目の前に東に向かう造路が見える。大堰川に向かって少し南に歩くと。京福電気鉄道の嵐山駅が現れる。ここから北野白梅町まで北野線に乗車し、市バスに乗り換えて大徳寺に向かう。始発の嵐山駅から数えると北野白梅町は13番目の停車駅となる。5番目の駅となる帷子ノ辻で乗り換えておよそ20分の小旅行となる。なかなか東京では味わうことができない趣のある車外風景もあり、毎回乗車するたびに、ほとんど窓の外を眺めている。 大… ►続きを読む

 

天龍寺 弘源寺

 

天龍寺 弘源寺(こうげんじ) 2009年11月29日訪問 天龍寺 弘源寺 虎嘯の庭  宝厳院の山門を潜り、紅葉の美しい参道を北に進むと再び法堂の前に出る。放生池の北側を東に進み、松巌寺、慈済院を過ぎると、毘沙門天の提灯を吊るした弘源寺の山門が現れる。 天龍寺 弘源寺 山門  永享元年(1429)あるいは文安3年(1446)6月、後に室町幕府管領となる細川持之が、玉岫禅師を開山として創建した寺院。寺名は、持之の院号による。細川持之は細川満元の次男として応永7年(1400)に生まれている。兄は細川持元で、応永33年(1426)父の満元の死去に伴い、細川京兆家の家督を継いだが、僅か3年後… ►続きを読む

 

天龍寺 宝厳院 その2

 

天龍寺 宝厳院(ほうごんいん)その2 2009年11月29日訪問 天龍寺 宝厳院 苦界と三尊石の庭 移転した2002年に作庭されたと思われる  前回、宝厳院を訪れた時は、冬の夕暮れ時期であったため、光量の少ない写真しか撮影できなかった。特に亀山の東に広がる庭園は、日没も早い上に逆光になってしまう。そういう点でも天龍寺方丈庭園や宝厳院は午前中の早い時間に訪れるべき庭園だと思う。 天龍寺 宝厳院 天龍寺 宝厳院 天龍寺 宝厳院  前回も指摘した通り、宝厳院の変遷には明確でない点がある。Wikipediaに掲載されている宝厳院の記述に従うと、寛正2年(1461)室町幕府の管領… ►続きを読む

 

亀山陵 その2

 

亀山陵(かめやまのみささぎ)その2 2009年11月29日訪問 亀山陵  亀山天皇の亀山陵は、後嵯峨天皇の嵯峨南陵の左側に同じ檜皮葺宝形造の法華堂という形で並ぶ。 大覚寺や妙心寺 その3で同じことを書いてきたが、父の後嵯峨天皇によって作りだされた両統迭立により、亀山天皇は最初の大覚寺統の天皇となっている。第90代亀山天皇は建長元年(1249)後嵯峨天皇と中宮藤原姞子との間に第7皇子・恒仁親王として生まれている。正嘉2年(1258)正嘉の飢饉の最中に10歳で立太子。同母兄に第89代後深草天皇となる久仁親王、異母兄に鎌倉幕府第6代将軍に就任する宗尊親王がいる。 亀山陵 亀山… ►続きを読む

 

嵯峨南陵 その2

 

嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ)その2 2009年11月29日訪問 嵯峨南陵 左は亀山陵 右は嵯峨南陵  前回の訪問の時は、日没が近いうえに御陵への入口が見つからなかったが、今回は天龍寺方丈の拝観が始まる前に嵯峨南陵と亀山陵の参拝を行なうこととした。天龍寺の庫裏の脇を北に進むと小振りな門が現れる。恐らく天龍寺の墓地へと続く参道と思われる。門の右手の木の後ろに、「後嵯峨天皇嵯峨南陵 亀山天皇亀山陵」の碑が建つ。前回はこれを見落としたため、無駄な時間を費やしてしまった。この碑は総門前に建てられた「後嵯峨天皇嵯峨南陵 亀山天皇亀山陵 西二町」の道標と対になっている。 今回も門には竹が渡されて… ►続きを読む

 

天龍寺 塔頭

 

天龍寺 塔頭(てんりゅうじ たっちゅう) 2009年11月29日訪問 天龍寺 松巌寺  既に天龍寺 その6で触れたように、元治元年(1864)7月19日の早朝に天龍寺を進発した国司信濃軍は、蛤御門で奮戦するも、ついに幕府軍に撃退される。敗兵は進軍の道を辿り嵯峨に戻った後、渡月橋を渡り西国街道(物集女街道)を南下し山崎経由で長州に去っていった。翌20日の朝、長州兵を掃討すべき攻め寄せてきた薩摩軍の砲撃によって、天龍寺は灰燼に帰している。既に長州兵が立ち去った後であり、寺僧も避難していた中なので、なにも全山焼失までの必要がなかったようにも思えるが、賊軍に加勢(福田理兵衛によって宿舎を提供)し… ►続きを読む

 

天龍寺 その6

 

臨済宗 天龍寺派大本山 霊亀山 天龍寺(てんりゅうじ)その6 2009年11月29日訪問 天龍寺 方丈庭園  国司信濃が天龍寺に駐留し蛤御門に進攻した経緯と薩摩軍の長州兵掃討隊が天龍寺全山を焼失させた状況については、寿寧院月航住職に日単に詳細に残されている。この日単については、「古寺巡礼 京都 天龍寺」(淡交社 1976年刊)でかなりのページを割いて掲載されている。また石田孝喜氏の「幕末京都史跡大辞典」(新人物往来社 2009年刊)の福田理兵衛邸跡の項にも天龍寺の記録として、ほぼ同じ内容が記載されている。 天龍寺 方丈庭園 天龍寺 方丈庭園 天龍寺 方丈庭園  禁門の変… ►続きを読む

 

天龍寺 その5

 

臨済宗 天龍寺派大本山 霊亀山 天龍寺(てんりゅうじ)その5 2009年11月29日訪問 天龍寺 方丈庭園  既に嵯峨野の町並み その4でも触れたように、天龍寺はその創建から室町時代までに、延文3年(1358)、貞治6年(1367)、応安6年(1373)、康暦2年(1380)、文安4年(1447)そして応仁元年(1467)の6度、そして江戸時代に入ってからも、文化12年(1815)の火災、さらには元治元年(1864)の禁門の変の長州兵討伐のため全山焼失にみまわれている。 天龍寺 方丈庭園 亀山の形状がよく分かる 天龍寺 方丈庭園  この項では禁門の変と天龍寺について記してみる… ►続きを読む

 

天龍寺 その4

 

臨済宗 天龍寺派大本山 霊亀山 天龍寺(てんりゅうじ)その4 2009年11月29日訪問 天龍寺 大方丈と東庭  夢窓疎石が定めた天龍寺十境は下記のとおりである。   普明閣     広大慈光照世間 善財当面隔重関     眼皮横蓋虚空界 弾指開門匹似間   絶唱谿     灘声激出広長舌 莫謂深談在口辺     日夜流転八万偈 灼然一字未嘗宣   霊庇廟     精藍分地建霊宮 専冀神風助祖風     莫怪庭前松屈曲 天真正直在其中   曹源池     曹源不涸直臻今 一滴流通広且深     曲岸回塘休著眼 夜闌有月落波心   拈華嶺     霊山拈起一枝蕚 分作千株在此峰     只… ►続きを読む

 

天龍寺 その3

 

臨済宗 天龍寺派大本山 霊亀山 天龍寺(てんりゅうじ)その3 2009年11月29日訪問 天龍寺 庫裏  亀山殿最後の継承者である恒明親王は、大覚寺統の亀山上皇の末子として嘉元元年(1303)に生まれている。嘉元3年(1305)の上皇崩御に伴い、如来寿量院を相続したことが「亀山院御処分状」に記されている。亀山殿と浄金剛院は、恒明親王の母である昭訓門院(西園寺実兼女)に、薬草院は兄の後宇多院に渡っている。翌年の嘉元4年(1306)に亀山院の周忌が行われた際に、後宇多院によって薬草院と如来寿量院の両堂が壊され、その資材を以って灌頂堂が建立されている。また亀山殿を継いだ昭訓門院も延元元年(13… ►続きを読む

 

天龍寺 その2

 

臨済宗 天龍寺派大本山 霊亀山 天龍寺(てんりゅうじ)その2 2009年11月29日訪問 天龍寺 法堂  琴きき橋の碑から渡月橋を眺めながら小督塚に至る。この塚自体は後世になって作られたものとされている。塚の西側には民家が建ち、三軒茶屋あるいは三軒家と呼ばれていたようだ。安永9年(1780)に刊行された都名所図会の小督桜(塚)にも下記のように記されている。     小督桜は大井河の北三軒茶屋の東、薮の中にあり。  このことからも、江戸時代の中期には既に天龍寺の境内外にあり、民家が建っていたことが分かる。なお、この三軒茶屋は元治元年(1864)の禁門の変の後に行われた薩摩軍による長州兵掃討… ►続きを読む

 
 

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