アーカイブ:2014年
二尊院 時雨亭跡
天台宗 小倉山 二尊院 時雨亭跡(にそんいん しぐれていあと) 2009年12月20日訪問 二尊院 時雨亭跡 二尊院の本堂の西側の斜面に墓地が広がる。この広い墓地の中で迷わないように、湛空上人廟の前に道標が建てられている。北側は角倉家墓地と三帝の塔、そして南側に進むと時雨亭跡に至る。この道標に従い、湛空上人廟の前から凡そ南側に5分弱歩くと、ぽっかりと開けた広場に出る。この間、さして上り道になっていなかったので、恐らく湛空上人廟とほぼ同じ標高にあったと思われる。建物の礎石と思われるものが数個残されており、説明板にはここが二尊院の時雨亭跡だと記している。GPSで確認すると、庫裏や書院のある… ►続きを読む
二尊院 その2
天台宗 小倉山 二尊院(にそんいん)その2 2009年12月20日訪問 二尊院 角倉家墓地 二尊院では、嵯峨天皇による創建から法然と九条家そして法然の弟子達による再興、そして応仁の乱の後の広明恵教と三条西実隆父子による再興について書いてきた。特に江戸時代に入ると、徳川家による寄進だけではなく、嵯峨の豪商角倉家が檀家となったことで寺運を一層興隆させている。 二尊院 西行法師庵の跡紅葉の馬場の左側に建つ 二尊院 本堂と前庭・竜神遊行の庭 二尊院 本堂庭園 これに対して正徳元年(1711)の「山城名勝志」(新修 京都叢書 第7巻 山城名勝志 乾(光彩社 1968年刊))… ►続きを読む
二尊院
天台宗 小倉山 二尊院(にそんいん) 2009年12月20日訪問 二尊院 落柿舎を出て、再び愛宕街道に戻り、北に向かって歩く。有智子内親王墓そして去来墓、西行井戸のある弘源寺墓地を過ぎると、二尊院の総門が現れる。 二尊院 紅葉の馬場から石段を眺める 二尊院 天台宗の寺院・二尊院の山号は小倉山。正式な名称は二尊教院華台寺という。「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)には、創建についての2つの説を併記している。承和年間(834~47)に嵯峨天皇が慈覚大師に勅して創建したとする説。二尊教院は釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を本尊としたことに由来し… ►続きを読む
落柿舎 その3
落柿舎(らくししゃ)その3 2009年12月20日訪問 落柿舎 落柿舎 その2では、去来の落柿舎購入から芭蕉の三度の訪問について書いてきた。ここではその後の落柿舎について触れてみる。 向井去来は名を兼時、号を元淵と云う。去来は別号である。父の元升は肥前国長崎の儒者で、慶安4年(1651)次男として生まれ、万治元年(1658)8歳の時に京に移り住んでいる。飛鳥井家に仕え、儒学、暦学、射術を学ぶ。後年松尾芭蕉の門に入り俳諧を学ぶ。関西の俳諧奉行と称され、落柿舎に以下のような制札を掲げている。 一 我家の俳諧に遊ぶべし、世の理屈を言ふべからず一 雑魚寝には心得あるべし、大鼾をかくべからず一 … ►続きを読む
落柿舎 その2
落柿舎(らくししゃ)その2 2009年12月20日訪問 落柿舎 有智子内親王墓の東隣に落柿舎がある。昨年訪れた時は素屋根が架けられ、敷地内に入ることも出来なかった。今年は工事も完了し拝観できる状況になっている。 落柿舎は、松尾芭蕉の弟子である向井去来の別荘として使用されていた草庵で、その名の謂れについては去来が著した「落柿舎ノ記」に記されている。この「落柿舎ノ記」は日本古典文学体系92巻に掲載されているが、天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会にも以下のように掲載されている。 嵯峨にひとつのふる家侍る。そのほとりに柿の木四十本あり。五とせ六とせ経ぬれど、このみも持来らず代かゆる… ►続きを読む
有智子内親王墓 その2
有智子内親王墓(うちこないしんのうのはか)その2 2009年12月20日訪問 有智子内親王墓 常寂光寺の山門を出て東へ道を進むと、100メートル足らずで視界が開ける。角には三宅安兵衛遺志の小倉山・常寂光寺・歌仙祠の碑が建つ。この石碑は愛宕街道に建ち、常寂光寺への曲がり角を示すためのものである。北東側には「北 二尊院 祇王寺 愛宕道」、南西には「南 亀山公園 嵐山」とある。現在、嵯峨野を訪れる人には無料の観光地図が配布されるのでその必要性は薄れているが、碑が建立された昭和4年(1929)には十分役割を果たしていたと思われる。 この角から見る風景が一番嵯峨野の魅力を感じさせる。目の前に広が… ►続きを読む
常寂光寺 その3
日蓮宗 小倉山 常寂光寺(じょうじゃくこうじ)その3 2009年12月20日訪問 常寂光寺 歌遷祠 常寂光寺の仁王門の北側に小倉百人一首編纂の地という小さな石碑が建っている。南面には上記の文字が見え、西面には藤原定家卿山荘址とある。常寂光寺 その2で触れたように、常寂光寺開山時に創建以前よりあった小祠・歌僊祠を山上に移している。これは寺の庫裏を定家卿の祠より上の場所に建設することは恐れ多いという理由からとされている。この石碑が誰によって何時建てられたかについては、フィールド・ミュージアム京都を参照しても分からないが、境内に設置されていることから常寂光寺が建てたと考えるのが自然であろう。… ►続きを読む
常寂光寺 その2
日蓮宗 小倉山 常寂光寺(じょうじゃくこうじ)その2 2009年12月20日訪問 常寂光寺 多宝塔と比叡山 常寂光寺に引き続き、公式HPの寺歴に従うと、慶長年間(1596~1615)に小早川秀秋の助力を得て桃山城客殿を移築し本堂としたとある。これは第二世通明院日韶上人の代のことであり、この桃山城とは伏見城のことである。江戸期の文献や資料に図示された本堂の屋根は、本瓦葺きの二層屋根となっている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会の常寂光寺の図絵から、江戸時代中期の本堂の屋根形状が分かる。なお現在の平瓦葺きの屋根は、昭和7年(1932)の大修理の時に改修されている。建立の年代は慶長… ►続きを読む
常寂光寺
日蓮宗 小倉山 常寂光寺(じょうじゃくこうじ) 2009年12月20日訪問 常寂光寺 山門 小倉池の北端から80メートル位北に歩くと常寂光寺の山門が現れる。 常寂光寺は日蓮宗の寺院で、山号は小倉山。元々、この地には天龍寺の弘源寺があった。弘源寺は永享元年(1429)室町幕府の管領であった細川右京太夫持之が、天龍寺の開山である夢窓国師の法孫にあたる玉岫禅師を開山に迎え創建した寺院である。小倉山の麓に位置し、北は二尊院、南は亀山にいたる広大な寺領を有していた。しかし弘源寺に関する記述は実に少ない。地誌においては「山城名勝志」(新修 京都叢書 第7巻 山城名勝志 乾(光彩社 1968年刊))… ►続きを読む
御髪神社
御髪神社(みかみじんじゃ) 2009年12月20日訪問 御髪神社 大河内山荘から北に向かって進む。JR西日本山陰本線のトンネル上を越え、トロッコ嵐山駅に出るところで道が分岐する。左手に小倉池が広がる。既に3時近くになり日が傾き、池面に山の影が落ち始めていた。人出はあるもののなんとなく薄寒い感じのする場所である。御髪神社はこの小倉池の西岸にある。トロッコ嵐山駅から落柿舎や常寂光寺、二尊院に向かう観光客は池の東岸を進むため、比較的人通りの多い場所の近くにあるにも係わらず訪れる人があまり多くないのかもしれない。そのため参道の入口には「奉納 御髪神社」の幟が何旒も立てられ、御髪神社の謂れを記し… ►続きを読む
大河内山荘
大河内山荘(おおこうちさんそう) 2009年12月20日訪問 大河内山荘 大乗閣と京の眺め 既に嵯峨野の町並み その5でも記述したように嵯峨野の竹林の中で西と北に分岐する箇所には、檀林寺旧跡・前中書王遺跡の三宅安兵衛遺志の石碑が建てられている。ここより北側に入ると野宮神社の黒木鳥居がある。再び分岐点まで戻り、西へと続く道を進む。左手に現れる天龍寺の北門を過ぎてさらに進む。このあたりが嵯峨野の竹林の中で最も美しい場所ではないかと思う。やがてこの道は突き当たり南北に分かれる。南は嵐山公園亀山地区につながり、北はJR西日本山陰本線のトロッコ嵐山駅を越えると小倉池と御髪神社へと続く。大河内山荘… ►続きを読む
京都・山城 寺院神社大事典
京都・山城 寺院神社大事典(きょうと・やましろ じいいんじんじゃだいじてん) 京都・山城 寺院神社大事典 ゴールデンウィークの課題として、日頃お世話になっている「京都・山城 寺院神社大事典」(平凡社 1997年刊)について書いてみる。今では京都の寺院や神社の謂れを調べる上で欠かすことの出来な存在となっている。既に刊行して15年近い年数を経っているものの、取り扱っている内容からして記述が古くなる心配も余りない。恐らく新たな歴史上の発見が成されるまでは、その記述を改める必要はないだろう。 凡例でも触れているように、この事典の基は、「日本歴史地名大系」の26巻「京都府の地名」と同27巻「京… ►続きを読む
野宮神社 その2
野宮神社(ののみやじんじゃ)その2 2009年12月20日訪問 野宮神社 嵯峨野の竹林の中で西と北に分岐する箇所には、檀林寺旧跡・前中書王遺跡の三宅安兵衛遺志の石碑が建てられていることは、既に嵯峨野の町並み その5で記述した。この分岐点の北側には野宮神社の黒木鳥居がある。この道は三宅安兵衛遺志の道標にもあるように、野々宮、常寂光寺、落柿舎、二尊院に至る道であるため、嵯峨野を散策する観光客の大部分が通る路となっている。薄暗い竹林の中の細い小路であるため、いつも渋滞している印象が強い。 嵯峨野の町並み その3でも記したように、この路はかつての亀山殿の野宮大路にあたる。財団法人京都市埋蔵文化… ►続きを読む
嵯峨野の町並み その5
嵯峨野の町並み(さがののまちなみ)その5 2009年12月20日訪問 嵯峨野の町並み 三宅安兵衛遺志の道標豆腐茶屋の看板の方が大きい 千光寺の石段を下り、大堰川沿いを再び櫟谷宗像神社まで戻る。 渡月橋を渡り嵯峨野に入る。嵯峨野については、嵯峨野の町並み、その2、その3、その4と書いてきたので、新たに書き足すこともないが、美しい竹林の写真が撮影できたので、ここに残しておく。 嵯峨野の町並み 嵯峨野の町並み 小倉百人一首文芸苑 建石町広場2008年12月21日撮影 渡月橋から丸太町通をつなぐ京都府道29号線宇多野嵐山山田線は、いつ訪れても人通りが途切れることが無い。また訪… ►続きを読む
大悲閣千光寺 その2
黄檗宗 嵐山 大悲閣千光寺(だいひかくせんこうじ)その2 2009年12月20日訪問 大悲閣千光寺 了以像 大悲閣千光寺では、その位置と角倉了以よる中興までの歴史について記した。ここでは了以が大悲閣千光寺を創建することとなった河川開削事業について書いてみる。 大悲閣千光寺 大悲閣 大悲閣千光寺 大悲閣内部 角倉家の本姓は吉田氏で、近江国犬上郡吉田村出身とされている。初代となる吉田徳春が室町時代中期に上洛し、足利義満、義持に仕え、晩年に医術を習得している。その子の宗臨の代には足利義政に医術で仕えるようになる。そして三代目の宗忠がその後の角倉家の財を築き、土倉を営むようになる… ►続きを読む
大悲閣千光寺
黄檗宗 嵐山 大悲閣千光寺(だいひかくせんこうじ) 2009年12月20日訪問 大悲閣千光寺 大河内山荘からの眺め 渡月橋より大堰川右岸の大悲閣道を凡そ1キロメートル上流に歩くと、大悲閣千光寺へと続く石段が現れる。この石段の始まる左手には、松尾芭蕉の「花の山 二町のぼれば 大悲閣」句碑と称するものがある。確かに芭蕉は弟子の去来が買い求めた落柿舎に元禄4年(1691)4月18日から17日間滞在し、嵯峨の山川名跡を訪れ「嵯峨日記」を残している。しかし前記の句は「嵯峨日記」にも掲載されていない、出典不詳の句とされている。 大悲閣千光寺 参道の入口 大悲閣千光寺 参道の入口に建つ芭蕉… ►続きを読む
大堰川
大堰川(おおいがわ) 2009年12月20日訪問 大堰川 櫟谷宗像神社を出て、大悲閣を訪問するため大堰川の右岸を上流に向かって歩いて行く。この道は自動車の通行も無く、ほぼ歩行者のための道となっている。 大堰川 渡月橋を眺める 大堰川 既に嵐山の町並みで大堰川と秦氏による開発、渡月橋でも大堰川あるいは大井川について、葛野大堰で秦氏の末裔の道昌僧正による大堰の修復と一之井堰と書いてきたので、これ以上大堰川について語ることはないが、大悲閣への途上で見かけた美しい景色を写真に収めることができたので、さらに少し大堰川について書いてみる。 大堰川 左岸の亀山 大堰川 右岸の… ►続きを読む
櫟谷宗像神社
櫟谷宗像神社(いちたにむなかたじんじゃ) 2009年12月20日訪問 櫟谷宗像神社 梅宮大社の石造の一之鳥居を潜り、四条通に戻る。梅宮大社前の停留所より京都市バス28系統大覚寺行に乗車する。バスは松尾橋で大堰川を渡り、阪急嵐山線松尾駅で右折し京都府道29号宇多野嵐山山田線に入る。そのまま北上し、法輪寺の門前を経て、渡月橋の始まる嵐山公園の停留所に着く。ここで下車して中ノ島から嵐山側に戻ると、西芳寺南へ二十町の三宅安兵衛遺志の道標に出会う。大正13年(1924)の建立で、碑文には開山夢窓国師造築、内務省指定庭園の文字が見られる。櫟谷宗像神社は、嵐山モンキーパークの看板の奥にある読み難い神… ►続きを読む
梅宮大社 その2
梅宮大社(うめみやたいしゃ)その2 2009年12月20日訪問 梅宮大社 東神苑の池中亭 梅宮大社で記したように、梅宮大社の公式HPに掲載されている御由緒でも、檀林皇后が橘氏の祖神を祀るためにこの地に遷座させたとしている。しかしその創建の年代は明らかにしていない。「伊呂波字類抄」(風間書房 1965年刊)の梅宮によると、天子の「外家神」にもかかわらず大幣に与らなかったことに怒り、仁明天皇に祟りを成したとある。これにより葛野川頭に遷座している。この記述に従うならば、弘仁元年(810)の仁明天皇誕生以降、嘉祥3年(850)の崩御までの間、さらに仁明天皇と太后ということならば、天長10年(8… ►続きを読む
梅宮大社
梅宮大社(うめみやたいしゃ) 2009年12月20日訪問 梅宮大社 楼門 梅宮大社は西梅津村が東梅津村に接する辺りにある。「延喜式」神名帳の葛野郡二十座の内、「梅宮坐神 並名大。月次 新嘗」とあり、酒解神、大若子神、小若子神、酒解子神の四神を祀る。相殿の祭神は橘諸兄の孫の橘清友、その子の嘉智子すなわち嵯峨天皇皇后の檀林皇后、嵯峨天皇、その子の仁明天皇の四柱。旧官幣中社。 梅宮大社 一之鳥居 梅宮大社 二ノ鳥居 平安時代末期に成立した古辞書「伊呂波字類抄」によると、梅宮大社は檀林皇后が橘氏の氏神を円堤寺に祀ったことを起源としている。初代橘氏長者である橘諸兄を始めとするならば… ►続きを読む