京都御苑 一条邸跡
京都御苑 一条邸跡(きょうとぎょえん いちじょうていあと) 2010年1月17日訪問
京都御所の西北にある皇后門の西側に一条邸跡の木標が建つ。文久3年(1863)に作成された内裏図には、乾御門を挟んで近衛邸の南西の地に、一条邸が近衛邸とほぼ同じ大きさで描かれている。天保年間(1830~44)の五摂家の石高は、九条家3000石、近衛家2860石、一条家2044石、二条家1708石、鷹司家1500石であった。さらに時代の下った慶応4年(1868)の「改正京町御絵図細見大成」から、近衛家2860石余、一条家が2044石余、九条家が2043石、二条家1708石余、鷹司家は1500石の家領・家禄が与えられていたことが分かる。
一条家は藤原氏北家摂関家九条流で、九条道家の三男である一条実経を祖としている。九条道家は東福寺を創建した人物として記憶されているが、承久3年(1221)6月に起きた承久の変の後、鎌倉幕府と結び摂関政治を一時的に復活させている。建保7年(1219)の源実朝の暗殺、嘉禄元年(1225)北条政子の死去に伴い、嘉禄2年(1226)1月には道家の三男・藤原頼経が征夷大将軍に任命されている。当時、幕府との関係が深かった西園寺公経が朝廷の実権をも掌握しており、安貞2年(1228)12月には娘婿の道家を関白に就けている。道家は安貞3年(1229)に長女の藻壁門院を後堀河天皇の女御として入内させ、寛喜3年(1231)には秀仁親王を誕生させている。後堀河天皇の譲位により、親王は貞永元年(1232)即位し四条天皇となる。道家の長男である九条教実は摂政となっていたが文暦2年(1235)に早世している。道家も嘉禎4年(1238)出家したものの禅閤として権勢を保持していた。しかし仁治2年(1241)元服した天皇が、翌3年(1242)不慮の事故により崩御される。 道家は次の天皇に縁戚に当たる順徳天皇の第5皇子・岩倉宮忠成王を推薦したが、幕府は土御門天皇の第2皇子の邦仁王(後嵯峨天皇)を選択している。次男の二条良実も公経の後押しもあって関白となったが、天皇家との縁戚関係を失った道家の権勢に影がさし始めることとなった。公経が死去すると道家は関東申次の職を継承し、次男の二条良実を排除し4男の一条実経を関白に擁立する。このような専横により朝廷における信望を失うととともに、幕府の政策への干渉が北条氏得宗家の苛立ちを誘うこととなった。寛元4年(1246)執権・北条時頼により反執権勢力が鎮圧され、前将軍・藤原頼経が鎌倉から追放される宮騒動(寛元の乱)が起こる。また名越光時等の陰謀に道家が関与していた事なども明らかになり、道家は関東申次の職を、実経は摂政を罷免されている。更に建長3年(1251)には、謀反事件に頼経が関与したということで、第5代将軍で道家の孫にあたる藤原頼嗣が将軍を解任されている。そのような騒動の最中、建長4年(1252)2月21日に道家は死去している。享年60。
一条実経は弘長3年(1263)左大臣に還任し、文永2年(1265)には関白に返り咲いている。しかし文永4年(1267)関白を辞し、弘安7年(1284)出家し、同年薨去。享年62。
一条家の家名の由来となる一条殿は九条道家から一条実経に伝領されたものである。もともと一条殿は一条能保の本第であった。一条能保は藤原北家中御門流の庶流、藤原通重の長男。3歳で父が死去したため祖母に育てられ、後に一条室町殿を譲り受けている。能保は源義朝の娘・坊門姫を妻とし、その間に娘・全子が生まれている。全子は西園寺公経に嫁いだため、一条殿(一条室町邸)は公経の本第となっている。「日本中世住宅の研究 新訂」(中央公論美術出版 2002年刊)によれば、一条室町殿には東殿と西殿があり、公経は当初より西殿に居住していた。その時期は実氏が誕生した時期から建久2年(1191)ないし3年と推定している。西殿は板屋小屋と評されるほど小規模なものであった。承久2年(1220)に造作され華亭と呼ばれるほど工夫の凝らされた邸宅になっている。しかし翌年の承久の変の後の放火によって西殿は焼失している。再建された西殿には、貞応2年(1223)後高倉院が高陽院焼失のための御幸があり、5月14日同所で崩御されている。院の中陰仏事を終えた後、寝殿を改作して娘の住所としたが長く患った後に亡くなっている。その後、夫人の居所としたところ病を得て嘉禄3年(1227)に亡くなっている。相次ぐ死去により西殿は不吉とされ公経は今出川殿に移住し、西殿は放棄される。東殿に住んでいた九条教実は寛喜2年(1230)2月以前に西殿に移住している。教実が寛喜3年(1231)7月5日に関白に任じられると、これを吉とし西殿に道家、東殿に教実が住むこととなった。そして天福元年(1233)に西殿は再び焼失している。
川上は天福の火災前の東殿と西殿はそれぞれ方一町の敷地を有し、町口を挟んで東西に位置していたと推定している。すなわち一条東殿は、東は室町、西は町(現在の新町通)、北は武者小路、南は一条大路の左京北辺三坊四町の北側の京外にあり、一条西殿は町の西、西洞院の東で、南北は一条東殿と同じとなる。これは左京北辺三坊一町の北側になる。なお公経の今出川殿は一条東殿の東隣とされていることから左京北辺三坊五町の北側となる。今出川殿の今出川は今出川通ではなく、賀茂川の枝流が南北に流れていたかつての河川によっている。一条以北は現在の烏丸通と見なすことができる。
一條殿ノ址 一條殿町東側より室町に至る方一町なり。百錬抄に一條亭とす。九条道家の三男実経之に新館を構へ一條殿と号す。後世細川頼元の有となり。大永年中一條家の所有に帰す。其後皇宮地内に転じ。其址町地となる。
道家は建永元年(1206)9月には既に一条東殿に居住していたことが分かっている。その後、道家の姉の立子が順徳天皇の中宮となり、建保5年(1217)から翌年にかけて御産所として利用している。一条殿が道家の本所御所として使用されるのは、承久の乱の後のことで、嘉禄3年(1227)4月に諸所の修理を行っている。そして安貞2年(1228)に関白に任じられ、翌年には藻壁門院を後堀河天皇の女御として入内させている。天福元年(1233)正月の火災後、西殿に住んでいた家道は東殿に移り教実と同居したが、8月には教実が今出川殿に渡御している。教実は同殿で文暦2年(1235)に逝去している。道家は嘉禎4年(1238)4月に出家すると法性寺に居住し、一条殿の主は一条実経に移っている。
幕末の一条家の当主は、一条忠香と実良の父子である。忠香は一条忠良の四男として文化9年(1812)に生まれている。文化4年(1807)生まれの鷹司輔煕、文化5年(1808)生まれの近衛忠煕と同じ世代となり、寛政元年(1789)の鷹司政通や寛政10年(1798)の九条尚忠より一世代後に属する。天明8年(1788)生まれの嫡男・一条実通が一条家第19代当主となるが文化2年(1805)に18歳の若さで逝去する。そのため弟の忠香が実通の養子となり一条家を継いでいる。
忠香の母は肥後熊本藩主細川斉茲女富子で、久我家の養子となった久我建通、徳川家定室の一条秀子、岡山藩主の長男・池田斉輝室の知君、伊予西条藩主・松平頼学室の通子、そして鷹司輔熙室の崇子等の兄弟がいる。室は伏見宮邦家親王の第二王女・順子女王で、子には一条実良、柳沢保申正室の明子、昭憲皇后がいる。養女としては三条実萬女の峯が熊本藩主・細川韶邦正室に、今出川公久女の美賀子が徳川慶喜御台所に、養女・醍醐忠順女輝姫の千代が毫摂寺善慶室となっている。上記のように、宮廷及び幕府内にも縁戚関係を持っていることが分かる。
一条忠香が内大臣になったのは、安政5年(1858)3月21日で三条実萬の退任後を引き継いでいる。近衛忠熙が文政7年(1824)に、鷹司輔熙が嘉永元年(1848)に内大臣に就任したのと比較すると、同じ五摂家の中でも昇進が早くなかったことが分かる。既に京都御苑 九條邸跡 その4で記したとおり、老中・堀田正睦への勅答御渡しが行われた後の事であり、条約勅許の交渉がまとまりつつある時であった。しかし忠香が内大臣に就任してからは、条約調印、孝明天皇の譲位表明、戊午の密勅の降下そして老中・間部詮勝の上京から四公落飾問題などが生じ波乱に満ちた時期でもある。 四公を除く安政の大獄における処分は、安政6年(1859)2月17日に公表され、一条忠香の処分は慎10日であった。四公に比べれば僅かな処罰に終わったのも、内大臣就任が遅かったため謀議には最初から関係してなかったと判断されたのであろう。そして安政6年(1859)3月28日、近衛忠煕の後を受けて左大臣となり、文久3年(1863)11月7日の逝去まで勤めることとなる。さらに文久2年(1862)12月9日に新設された国事御用掛に子の一条実良とともに就任している。
一条忠香に関する史料としては、日本史籍協会叢書の「一条忠香日記抄」(東京大学出版会 1915年発行 1967年覆刻)がある。この書は一条忠香の日記「璞記」を抄録したもので、巻頭の緒言にあるように「原本ハ随感随記トモ見做サルベキモノニシテ、国事以外一家ノ私事ニ渉ルモノ頗ル多シ、夫等ハ概ネ省略セリ」という方法で原本十二巻を四巻にしている。また最後に忠香の歌集「桃蕊集」二巻が掲載されている。全く幕末史研究の材料とならない約千首に及ぶ和歌をこの史料集に載せたことについては、文部省維新史料編修官を経て東京大学史料編纂所教授を歴任した歴史学者の小西四郎が解題において疑問を呈している。確かに条約勅許から密勅降下の激動の政局において内大臣として務めた人物の歌とは思えないほど穏やかな世界を描いている。この240余頁は激動の政局にあって平常心を保った人物と紹介するために、わざわざ付加したものと考える他はなさそうだ。
さて日記は安政元年(1854)閏7月から始まるが、安政6年(1859)の大獄による廷臣弾圧から文久元年(1861)までの3年分を欠いている。そして文久2年(1862)4月7日に始まり、文久3年(1863)3月晦日で終了している。記載期間は上記の通りだが、興味を持って記述している対象は少し異なっているようだ。安政元年(1854)から同4年(1858)までの分量は22頁と極端に少なく、ペリー来航から和親条約締結そしてそれ以降の情勢については殆んど記されていない。それに対して「伊勢公卿勅使発遣上卿参役之条取要」と題された奉幣使の発遣に精力を傾けているのが面白い。
日記の終了後、4月11日に石清水社行幸に忠香も供奉しているが、この部分の記述を見る事はできない。石清水社行幸は、攘夷親征を画策する長州藩の建議を受け入れて行われた。急進派が社前で攘夷の節刀授与を計画していたということで、将軍徳川家茂は病気を理由に供奉を辞退、名代一橋慶喜も急病を理由に切り抜けている。左大臣であった一条忠香が加わっていたはずであるが日記は残されていない。また八月十八日の政変にいたる政治的な暗闘についても忠香の考えを知る事もできない。そして同年11月7日に逝去している。中山忠能の同日の日記(「日本史籍協会史料 中山忠能日記1」(東京大学出版会 1916年発行 1973年覆刻))には下記の様にある。
夏巳来大病止飲症八月以来平臥有増減先月下旬後追々衰弱
文久3年(1863)の夏頃から政治活動を行えない状況になっていたから、八月十八日の政変において何も関与することができなかったのかもしれない。
一条実良は忠香の子として天保6年(1835)に生まれている。嘉永元年(1848)に従三位に叙せられる。安政5年(1858)に権大納言、文久2年(1862)には父と共に国事御用掛となる。そして慶応3年(1867)9月27日に右大臣となる。京都御苑 近衛邸跡 その5でも記したように、同年11月30日には左大臣の近衛忠房と共に右大臣を辞している。王政復古の前夜のことである。今まで宮廷政治を主導してきた公武合体派あるいは穏健派の退場の時期でもあった。二条摂政は続投、左大臣に九条道孝、右大臣には内大臣の大炊御門家信が移り、広幡忠礼が内大臣に就いている。しかしこの人事も12月9日の王政復古によって、総裁・議定・参与の三職に移行するまでの一時的なものであった。実良に下された沙汰は「復古記 第一冊」(内外書籍 1930年刊)によると以下の通りであった。
御沙汰有之候迄、参朝被止候事、王政復古ニ付、
国事掛自今被廃候事、勅問御人数被止候事、門流被廃候事。
このように国事掛を免じられ御沙汰あるまでは参朝が停止されている。しかし参朝は慶応4年(1868)正月16日に許されている。なお九条道孝、大炊御門家信、近衛忠煕、近衛忠房、鷹司輔熙、徳大寺公純、一條実良、広幡忠禮、日野資宗、柳原光愛、広橋胤保、飛鳥井雅典、葉室長順、六條有容、野宮定功、久世通煕、豊岡随資、伏原宣諭、裏辻公愛も同日に許されている。慶応4年(1868)4月24日、一条実良は逝去している。享年34。
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