文書と写真・地図による「記憶」の再現

アーカイブ:2015年 7月

京都御苑 堺町御門 その5

 

京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その5 京都御苑 堺町御門 内裏圖1889年製 より国際日本文化研究センター  京都御苑 堺町御門 その3では、文久2年(1862)12月9日に制定された国事御用掛と翌文久3年(1863)2月13日の国事参政と国事寄人の顔ぶれを見ながら、急進派の躍進を記してきた。また、京都御苑 堺町御門 その4で、急進派の主張する西国鎮撫使と御親征に対する公武一和派及び穏健派の対応について見てきた。そして8月13日から始まる八月十八日の政変の準備状況と共に、この政変を企画した人物についていくつかの論文を参照しながら考えてみた。ここでは8月13日から18日に至る6日間の公武一和派の活動を見て行く。  この6日間の推移は、会津側の史料として北原雅長の「七年… ►続きを読む

 

京都御苑 堺町御門 その4

 

京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 堺町御門 葵祭 2008年5月15日撮影  京都御苑 堺町御門 その2でも触れたように、真木和泉の入京が6月8日で、同月16日に東山の翠紅館で行われた会で、「五事献策」の基となる考えを披露したとされている。そして6月末頃から天皇の攘夷親征を望む声が高まって行き、7月初旬には朝廷内で攘夷親征論が三条実美等の急進派公家によって唱えられている。宇高浩著の「真木和泉守」(菊竹金文堂 1934年刊)によると、真木は6月29日に学習院出仕を命じられ、同日に「五事献策」を国事参政・豊岡随資に提出している。これを鷹司輔熙、三条実美、烏丸光徳、大徳寺公純等が閲覧している。そして7月24日に鷹司関白から天皇に進献… ►続きを読む

 

京都御苑 堺町御門 その3

 

京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 堺町御門から堺町通を眺める  京都御苑 猿ヶ辻から その2、その3 そして その4までを使い、文久3年(1853)5月20日に発生した姉小路暗殺事件とその捜査の推移について書いてきた。この事件を理解する上で、攘夷決行期日に設定されていた5月10日から僅かの日の内に発生したということを忘れてはならないだろう。この暗殺事件の原因を長州藩の攘夷に求めることはできなくても、事件の推移は当時の政局を有利に運ぼうとする勢力に、大いに利用されたことは確かである。実行犯の一人と目されている田中雄平は、捕縛されたものの町奉行所での吟味中に自死している。その理由については憶測の域を越えないが、現場に残された刀が田… ►続きを読む

 

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