徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

京都御苑 堺町御門 その3



京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その3 2010年1月17日訪問

画像
京都御苑 堺町御門から堺町通を眺める

 京都御苑 猿ヶ辻から その2その3 そして その4までを使い、文久3年(1853)5月20日に発生した姉小路暗殺事件とその捜査の推移について書いてきた。この事件を理解する上で、攘夷決行期日に設定されていた5月10日から僅かの日の内に発生したということを忘れてはならないだろう。この暗殺事件の原因を長州藩の攘夷に求めることはできなくても、事件の推移は当時の政局を有利に運ぼうとする勢力に、大いに利用されたことは確かである。実行犯の一人と目されている田中雄平は、捕縛されたものの町奉行所での吟味中に自死している。その理由については憶測の域を越えないが、現場に残された刀が田中の佩刀であり、襲撃事件に立ち会った姉小路の家臣・中条右京による首実検からも田中の犯行を否定することできない。 藩士の犯行により薩摩藩自体の強い関与が疑われたが、明確なる証拠が現われず6月11日には薩摩藩士の九門出入を許されている。しかし依然として薩摩藩は乾御門守衛から外されたままであり、その政治的地位は貶められたままであった。さらに前関白・近衛父子及び中川宮そして孝明天皇までもが、急進派の主張する親征決行に対して守勢に回らざるを得なかった。
 京都御苑 堺町御門では、姉小路卿殺害から文久3年6月末までの薩摩藩の情勢と中川宮の窮状について見てきた。そして その2では、八月十八日の政変に至る薩摩藩と会津藩の連携を書いてきた。この項では、急進派対公武合体派の争いの構図をもう少し詳しく読み解いて行く。
 文久2年(1852)の12月9日、国事御用掛が制定されている。「孝明天皇紀 第四」(平安神宮 1967年刊)の12月9日の条にも以下のようにある。

九日丁亥攘夷の議決するを以て国事御用掛を置き関白藤原忠煕近衛左大臣藤原忠香一条右大臣藤原斎敬二条入道尊融親王青蓮院前右大臣藤原輔熙鷹司内大臣藤原公純徳大寺及議奏武家伝奏此余十六人を御用掛と為す又言路洞開の聖旨を諸臣に布告し其所論ある者は御用掛に就て謀議を上らしめ予て軽躁の挙動を誡む

 国事御用掛は江戸から帰洛後に任命された姉小路公知を含めて以下のとおりである。

国事御用掛:
 近衛忠煕    一条忠香    二条斉敬    尊融入道親王 
 鷹司輔煕    徳大寺公純   中山忠能    飛鳥井雅典  
 正親町三条実愛 三条実美    阿野公誠    長谷信篤
 坊城俊克    野宮定功    近衛忠房    一条実良
 広幡忠礼    三条西季知   庭田重胤    徳大寺実則
 橋本実麗    柳原光愛    大原重徳    河鰭公述
 東久世通禧
   裏辻公愛    橋本実梁    万里小路博房
 勘解由小路資生 姉小路公知

 しかし年が明けた文久3年(1863)正月早々、鷹司輔煕、尊融入道親王、一条忠香、二条斉敬、徳大寺公純、近衛忠房、一条実良が評議のあり方に不平を訴え相次いで国事御用掛の辞退を申し出ている。最終的には辞表は撤回されたが、国事御用掛はその発足から足並みに乱れを生じていた。また正月23日には近衛忠煕が関白を辞し、前右大臣・鷹司輔煕がこれに代わっている。近衛は文久2年(1862)6月23日に九条尚忠から関白職を引継いだので、その任期僅か半年余であった。幕府は近衛の関白留任を望んでいたが、それを許さなかったのは京の政情変化であった。さらに正月27日には議奏の中山忠能と正親町三条実愛の辞職が続いている。中山も正親町三条も和宮降嫁に係わったため、尊攘派浪士の恨みを買っていた。同月22日に大坂で天誅に遭った池内大学の耳朶を添えた投書が二卿の門前に置かれた。3日間の内に辞職することを強要する脅迫状であった。このように国事御用掛を命じられた公家の中でも公武合体派あるいは穏健派の上層公家達は、明らかに急進派公家の攻勢及び浮浪浪士が引き起こす天誅に脅かされ窮地に陥っていた。

画像
翠紅館跡 2008年5月16日撮影

 同じく正月27日、東山の翠紅館で諸藩の有志達が会し時事を評定している。この翠紅館会議と呼ばれる会議に参加したのは、長州藩の中村九郎、佐々木男也、久坂玄瑞、松島剛蔵、寺島忠三郎、神村斎宮、大和彌八郎、長嶺内蔵太、志道聞多(井上馨)、肥後藩の住江甚兵衛、宮部鼎蔵、佐々淳次郎、山田十郎、河上彦斎、土佐藩の武市半平太、平井収二郎、対馬藩の多田荘蔵、青木達右衛門、津和野藩の福羽文三郎、水戸藩の梶清次右衛門、下野隼次郎、金子勇次郎、山口徳之允、住谷七之允、大胡聿蔵、高畑孝蔵、林五郎三郎、岡部藤助、大野謙助、西宮和三郎、川又才助、林長左衛門、赤須銀三等であった。また長州藩の世子・毛利定廣もこの会に臨んだとされている。当時の重要問題は攘夷の期限を何時に定めるかであり、当日も攘夷の具体策について語られたと考えられる。この会議の後の2月11日には長州藩の久坂玄瑞、寺島忠三郎そして肥後藩の轟武兵衛等が関白・鷹司輔煕の邸を訪れ、速やかに攘夷期限を定め言路洞開、人材の登用を進め、時勢に対応すべしとする意見書を提出している。
 尊王攘夷派の浪士達の活動に呼応して急進派公家達も2月8日に姉小路邸に集い、意見書を纏めている。この意見書に連署したものは、正親町実徳、三条西季知、橋本実麗、豊岡随資、滋野井實在、東園基敬、正親町公菫、姉小路公知、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、澤宣嘉であった。彼等は11日午後に東久世邸に集合していた。上記の久坂等によって関白への強請が行われたことを聞き、意見書を携えて鷹司邸に参向し、直ちに参内し叡断を仰げと迫った。尊攘派浪士と急進派廷臣の運動が連携し、関白そして廷議をも動かし、ついに一橋慶喜寓所に、議奏三条実美・阿野公誠、伝奏野宮定功、及び橋本実麗、滋野井實在、正親町公菫、姉小路公知等の代表者を勅使として送ることとなった。
 勅使が、一橋慶喜の旅館としていた東本願寺に到着したのは亥刻すなわち現在の午後10時頃であり、さらに一橋慶喜、松平春嶽、松平容保、山内容堂が揃ったのは午前2時頃とされている。攘夷期限を定める議論は、上洛した将軍が滞京10日間、帰府20日の後という期限に収束した。一同が帰宅したのは12日の午前8時頃だった。なお正式に攘夷期限が5月10日に定まったのは、4月20日のことであった。

 そして2月13日には、国事参政と国事寄人が設けられ、実質的な政策立案の権限が参政と寄人に移されている。「孝明天皇紀」及び「維新史料綱要」(東京大学出版会 1937年発行 1983年覆刻)によると国事参政と国事寄人は以下の通りである。

国事参政:
 橋本実麗    東久世通禧   姉小路公知   豊岡随資
国事寄人:
 三条西季知   正親町実徳   滋野井實在   東園基敬
 正親町公菫   壬生基修    中山忠光    四条隆謌
 錦小路頼徳   澤宣嘉

 これは正に2月8日の意見書に連署した人々である。
 なお本文中の赤字は七卿落ちの公家達であり、橙色は政変後に他人面会を禁じられた者である。国事参政の姉小路は繰り返しになるが8月18日時点で既に亡くなっている。天誅組の挙兵に加わった中山忠光も3月20日に官位を辞し京を脱しているので黒字表記であるが、彼等は間違いなく急進派である。また6月14日に監察使に任命され長州に下向した正親町公菫は罰せられなかったが、政変後の8月24日に京に召喚されているのでその一味である。
 この他に武家伝奏の飛鳥井雅典と野宮定功は上表して罪を謝し進止を請うている。関白鷹司輔煕も辞職を請うたが一度は許されず、再度の請願で差控を命じられている。また、国事寄人の中でも正親町実徳だけが、柳原光愛、広橋胤保と共に政変後の議奏に任じられている。

 以上の政変後の処罰から見ても分かるように、2月13日に新設された国事参政及び国事寄人が議論の場において急進派が多数を占めるために迎え入れたものであった。これによって世に偽勅と呼ばれるものが頻繁に現われるようになっていった。勅における真偽の判定は難しいものの、少なくとも孝明天皇の意図しないことまでが勅諚となっていたことは確かである。

画像
京都御苑 猿ヶ辻 姉小路公知が襲撃された地

「京都御苑 堺町御門 その3」 の地図





京都御苑 堺町御門 その3 のMarker List

No.名称緯度経度
 京都御苑 堺町御門 35.0177135.7631
01  京都御苑 九条邸跡 35.018135.7615
02  拾翠亭 35.0177135.7617
03  九条池 35.0178135.7624
04  高倉橋 35.0179135.7623
05  京都御苑 鷹司邸址 35.0185135.7631
06  京都御苑 賀陽宮邸 35.0199135.7611

「京都御苑 堺町御門 その3」 の記事

「京都御苑 堺町御門 その3」 に関連する記事

「京都御苑 堺町御門 その3」 周辺のスポット

    

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

 

サイト ナビゲーション

過去の記事

投稿カレンダー

2015年7月
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

カテゴリー