徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2016年

史跡・御土居

 

史跡・御土居(しせき・おどい) 2010年1月17日訪問 廬山寺 御土居  廬山寺墓地の東側、河原町通との間に南北に並ぶ木の列が見える。墓地の地盤に比べてやや高台になっている箇所が、豊臣秀吉の天正の地割りと共に築かれた御土居の東端にあたる。中村武生氏の「御土居堀ものがたり」(京都新聞出版センター 2005年刊)によれば、御土居建設は天正19年(1591)年に入ってすぐに着手されている。同書では近衛信尹の「三藐院記」を引用し、「閏一月に開始して、二月に過半ができた」としている。凡そ22.5Kmに及ぶ大土木工事を少なくとも2ヶ月、長くみても4ヶ月以内に完成させたこととなる。このように短期間の… ►続きを読む

 

慶光天皇廬山寺陵 その5

 

慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その5 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺陵  慶光天皇廬山寺陵 その4では、尊号一件の目的とするところとその始まり、そして松平定信の老中筆頭への昇格と関白鷹司輔平との交渉の経緯を書いてきた。ここでは朝廷側から申し入れられた“小一条院に準じる待遇”に対する幕府の拒絶から結末までの交渉を見て行く。 寛政3年(1791)4月22日、京の鷹司輔平より再度の照会依頼が定信に送られてきた。長和6年(1017)に藤原道長の圧力によって自ら皇太子の身位を辞退した第67代三条天皇の第一皇子の敦明親王に小一条院の尊号を前例とし、閑院宮典仁親王への尊… ►続きを読む

 

慶光天皇廬山寺陵 その4

 

慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その4 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺  慶光天皇廬山寺陵 その3では、天明8年(1788)1月30日に発生した天明の大火による御所焼失から寛政度の復古造営までの朝幕交渉について見て来た。御所御千度参において幕府との交渉の機会を得た光格天皇は、これを前例として御所造営の際には復古様式の採用を幕府に認めさせることに成功している。この項では御所御千度参と寛政度御造営に前後して発生した尊号一件について書いて行く。 既に京都御苑 閑院宮邸 その2でも記したように、尊号一件は光格天皇が父である典仁親王に太上天皇号を贈ろうとしたことから始… ►続きを読む

 

慶光天皇廬山寺陵 その3

 

慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その3 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺 南北に長く複数の墓石が配置されている  慶光天皇廬山寺陵 その2では、元々病弱であった後桃園天皇の急逝、安永8年(1779)11月25日の光格天皇即位から始め、天明7年(1787)6月7日より発生した御千度参りを中心に書いてきた。当時、天明2年(1782)から続く天明の大飢饉の真最中であり、同7年(1787)5月には農村から貧困に耐え切れず都市部に流入した人々により江戸、大阪で打ちこわしも行われている。御所の周りで自然発生した御千度参りは、このような世相を打破するため単に神仏に頼るではな… ►続きを読む

 

京都の地図 その4

 

京都の地図(きょうとのちず)その4 2016年8月18日登録 京都の地図 2016年3月の旅行に使用した地図 全体図ではマーカーの位置も分からない  設定変更について その4でも少し触れたが、2016年3月の撮影旅行の際に持参した地図は、その前の2014年10月に作成した三階層構造のpdfファイルとは異なるものであった。実際に現地で使用して感じた違和感、率直に言えば使い難さによっている。 2014年10月の地図の構造については、京都の地図 その3で、その作成方法を詳しく記しているので、繰り返すことはしない。ここでは生成された地図の問題点のみを上げることとする。 先ず最も使い難さを感じたも… ►続きを読む

 

設定変更について その7

 

設定変更について(せっていへんこうについて)その7 2016年8月17日登録 設定変更について Olympus社製 E-PL6 2015年秋よりサブカメラに加わりました  設定変更について その6では、ファイル名称及びディレクトリ構成についての変更を書いた。この項ではデータベース部分の改造と「徘徊の蔵書棚」の新設について記す。 既に書いてきたように、データベース部分に大きな問題があることは明白である。個々のデータベースでそれぞれ座標値を持っているため、実際のところ誤った位置に表示された場合どの座標値が問題か探すことが困難になっている。解決方法は、「撮影対象及び地図表示の座標値を一元化管理… ►続きを読む

 

設定変更について その6

 

設定変更について(せっていへんこうについて)その6 2016年8月17日登録 設定変更について Nikon社製 D7000 現在のメインカメラ  設定変更について その5では、情報の一元化を図るために今まで作成してきたデータベースを壊し、必要な情報のみを残して新しいデータベースを作成することの背景を書いてみました。2008年に本ブログを書き始めた頃より、“こんなものがあったら楽になるだろう”という気持ちで各種のツールを作成してきました。そのため8年も経つとシステム全体に冗長性が目立ってくる。既に使わなくなっている機能も実装されたままで、何のために必要かも理解できなくなりつつある。ある程度… ►続きを読む

 

設定変更について その5

 

設定変更について(せっていへんこうについて)その5 2016年8月17日登録 設定変更について Trip Recorder 747Pro 既に販売終了しているようだ  またまた、3ヶ月ぶりの更新となってしまいました。前回の最後が2016年5月29日の慶光天皇廬山寺陵 その2でしたので、本当に長い間ブログの執筆をサボってしまいました。慶光天皇廬山寺陵の項自体、まだ書き掛けのままであったので、長い中断と言わざるを得ません。なんと気が付けば世の中はお盆休みに入り、4年に一度のオリンピック一色に染まっていました。 大久保利通旧邸 その3から梨木神社 その2の3ヶ月間の空白は、1年半振りの京都旅行… ►続きを読む

 

慶光天皇廬山寺陵 その2

 

慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その2 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺陵  慶光天皇廬山寺陵では、桃園天皇から光格天皇に至る江戸時代中期の朝廷の様子を中心に幕府の衰退の兆しにも触れてきた。この項では光格天皇によって行われた朝儀の再興、朝権の回復について書いて行く。 明和8年(1771)8月15日に閑院宮第2代典仁親王の第6皇子祐宮として生まれている。そのままならば兄の美仁親王が閑院宮家を継ぎ、祐宮は安永元年(1772)9月には聖護院宮忠誉法親王の付弟とされ、将来的には聖護院門跡に入る予定であった。しかし後桜町天皇から譲位され即位した後桃園天皇が病弱で欣子内親… ►続きを読む

 

慶光天皇廬山寺陵

 

慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう) 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺陵  薬医門の右脇に大阪皇陵巡拝会が建立した慶光天皇廬山寺陵への道標が残されているように、廬山寺の境内には慶光天皇の陵墓が築かれている。慶光天皇とは京都御苑 閑院宮邸 その2でも記したように閑院宮第2代典仁親王である。閑院宮家は四世襲親王家として現在のところ一番新しく作られた宮家である。伏見宮・有栖川宮・桂宮の宮家がいずれも当時の天皇家とは遠縁になっていることより、皇統の断絶が危惧される中、天皇の近親者によって新たな宮家を創設するべきという新井白石の建議によっている。最初の世襲宮家である伏見宮の… ►続きを読む

 

廬山寺墓地

 

廬山寺墓地(ろざんじぼち) 2010年1月17日訪問 廬山寺墓地  廬山寺 その2でも触れたように、2008年5月13日に廬山寺を拝観した際には廬山寺陵の存在を知らなかった。そのため御土居を訪れることもなかった。その後、陵墓に関係するHPや文献を調べて見逃していたことに気が付き、今回の訪問では予定に繰み込んだ。 廬山寺の墓地は本堂の東側、御土居沿いに作られている。山門及び本堂が寺町通に西面しているので、自然と寺地の奥に墓地を作ることとなったのであろう。つまり寺町通から山門を潜ると正面の大師堂に至る。もともと北側の山門は大師堂のために造られた門と考えても良いだろう。そのため南側の薬医門が本… ►続きを読む

 

廬山寺 その2

 

天台系圓浄宗本山日本廬山 廬山寺(ろざんじ)その2 2010年1月17日訪問 廬山寺 山門 正面に大師堂  寺町通を挟んで梨木神社の東側に廬山寺の山門が見える。前回2008年5月13日は、仙洞御所と京都御所の拝観前の時間を利用して、廬山寺の「源氏庭」と呼ばれる庭園を鑑賞させて頂いた。今回は本堂には上がらず、境内の様子と前回訪問できなかった東側の廬山寺墓地を調べる。 廬山寺 大師堂  廬山寺の公式HPには、天台圓浄宗大本山 廬山寺とある。また、いつもお世話になっている「京都・山城 寺院神社大事典」(平凡社 1997年刊)によれば、廬山寺は圓浄宗の本山で山号は日本廬山、本尊は薬師如来と… ►続きを読む

 

梨木神社 その7

 

梨木神社(なしきじんじゃ)その7 2010年1月17日訪問 梨木神社 神門より二の鳥居を望む  梨木神社 その6は京都を舞台とした一橋派の裏面活動の前半である。これを表側の交渉と合わせてみると何を目的にしていたかが明らかになってくる。 正月17日に、主上は関白・九条尚忠に対して宸翰(「孝明天皇紀 第二」(平安神宮 1967年刊) 正月17日の条)を下している。この宸翰では、今回の条約は大変重大であるので関東からの贈賄を斥け、容易に関東の申し分を受け入れてはならないと注意を喚起している。やがて来る老中・堀田正睦が金品を使って条約勅許を得ようとすることを見越したものである。 正月25日には三… ►続きを読む

 

梨木神社 その6

 

梨木神社(なしきじんじゃ)その6 2010年1月17日訪問 梨木神社 本殿  梨木神社 その5でも触れたように、安政4年(1857)12月8日、幕府は朝廷に対して外交事情を奏聞するため林大学頭復斎と目付の津田正路へ上京を命じている。これは日米和親条約から新条約締結への交渉経緯とハリスによって齎された重大事件情報への対応策についての説明のためである。重大事件情報、すなわちアヘン戦争に勝利したイギリスが愈々日本に進出してくること、そしてそれを防ぎ得る手段は日本が早期に開国を決断し、アメリカと通商条約を結ぶこととハリスは主張している。ハリスは重大情報として、老中・堀田正睦を始めとした幕吏に凡そ… ►続きを読む

 

梨木神社 その5

 

梨木神社(なしのきじんじゃ)その5 2010年1月17日訪問 梨木神社 本殿  梨木神社 その4では、天璋院篤姫入輿後の経過と政情の変化について記した。安政4年(1857)の年末、遂に島津斉彬の命を受けた西郷吉之助が橋本左内を訪ねている。この項では橋本左内の江戸における運動の展開について記す。 安政4年(1857)8月20日、松平春嶽は橋本左内を江戸に召し即日侍読兼内用掛に命じている。斉彬の書簡から半年が経ち、いよいよ継嗣問題に猶予ならないものを感じたのかもしれない。この年の6月17日に老中阿部正弘が死去している。同月25日付の中根雪江が橋本左内に宛てた書簡(「続日本史籍協会叢書 橋本景… ►続きを読む

 

梨木神社 その4

 

梨木神社(なしのきじんじゃ)その4 2010年1月17日訪問 梨木神社 拝殿  梨木神社 その3では、関が原の戦い以降の徳川家と島津家との関係から島津家からの将軍入輿までの説明で終わってしまった。このまま天璋院篤姫が選ばれた経緯から実の父である島津忠剛の死去、御所の炎上そして安政大地震の発生による繰延べ等を書いて行くと、ますます梨木神社から離れて行くので、改めて薩摩藩に関係する項で書くこととする。この項では安政3年(1856)12月18日に行われた婚礼の前後あたりから話を始める。 既に梨木神社 その2からその3にかけて記したように、正式に篤姫が斉彬の実子となったのは嘉永6年(1853)3… ►続きを読む

 

梨木神社 その3

 

梨木神社(なしのきじんじゃ)その3 2010年1月17日訪問 梨木神社 神門  梨木神社 その2では、三条実萬、実美父子の事蹟を書いて行く上で参考とすべき史料から始め、安政の大獄の契機となった継嗣問題について書いてきた。この中で、天璋院入輿と将軍継嗣問題の関係について、「どちらが後か先かは判別が難しい」と記した。一般的には、島津斉彬によって将軍継嗣問題の打開策として天璋院入輿が行われたとされている。確かに御台所となった篤姫は一橋慶喜を儲君とすべく大奥において活動したことは事実である。しかし将軍家からの縁組申し入れ当初から継嗣問題が存在したわけではなかったようだ。この項では安政の大獄の引き… ►続きを読む

 

梨木神社 その2

 

梨木神社(なしのきじんじゃ)その2 2010年1月17日訪問 梨木神社 一の鳥居から二の鳥居を眺める 今はこの光景を見ることができない  大久保利通旧邸でも少し触れたが、昨年末に今まで撮影してきた全ての画像データとブログを書くために参考にした文献のスキャニングデータを格納していた外付ハードディスクが破損してしまった。幸いバックアップを取ってあったため、かなりの時間を要したもののほぼデータを復元することができた。年末にそんな不幸があった上、年が明けた1月にはPCの起動ディスクに不具合が生じ、PCを起動させることもできなくなった。僅か2か月間の間に二度もハードディスクを壊してしまうという事態… ►続きを読む

 
 

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