徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2016年 4月

梨木神社 その7

 

梨木神社(なしきじんじゃ)その7 2010年1月17日訪問 梨木神社 神門より二の鳥居を望む  梨木神社 その6は京都を舞台とした一橋派の裏面活動の前半である。これを表側の交渉と合わせてみると何を目的にしていたかが明らかになってくる。 正月17日に、主上は関白・九条尚忠に対して宸翰(「孝明天皇紀 第二」(平安神宮 1967年刊) 正月17日の条)を下している。この宸翰では、今回の条約は大変重大であるので関東からの贈賄を斥け、容易に関東の申し分を受け入れてはならないと注意を喚起している。やがて来る老中・堀田正睦が金品を使って条約勅許を得ようとすることを見越したものである。 正月25日には三… ►続きを読む

 

梨木神社 その6

 

梨木神社(なしきじんじゃ)その6 2010年1月17日訪問 梨木神社 本殿  梨木神社 その5でも触れたように、安政4年(1857)12月8日、幕府は朝廷に対して外交事情を奏聞するため林大学頭復斎と目付の津田正路へ上京を命じている。これは日米和親条約から新条約締結への交渉経緯とハリスによって齎された重大事件情報への対応策についての説明のためである。重大事件情報、すなわちアヘン戦争に勝利したイギリスが愈々日本に進出してくること、そしてそれを防ぎ得る手段は日本が早期に開国を決断し、アメリカと通商条約を結ぶこととハリスは主張している。ハリスは重大情報として、老中・堀田正睦を始めとした幕吏に凡そ… ►続きを読む

 

梨木神社 その5

 

梨木神社(なしのきじんじゃ)その5 2010年1月17日訪問 梨木神社 本殿  梨木神社 その4では、天璋院篤姫入輿後の経過と政情の変化について記した。安政4年(1857)の年末、遂に島津斉彬の命を受けた西郷吉之助が橋本左内を訪ねている。この項では橋本左内の江戸における運動の展開について記す。 安政4年(1857)8月20日、松平春嶽は橋本左内を江戸に召し即日侍読兼内用掛に命じている。斉彬の書簡から半年が経ち、いよいよ継嗣問題に猶予ならないものを感じたのかもしれない。この年の6月17日に老中阿部正弘が死去している。同月25日付の中根雪江が橋本左内に宛てた書簡(「続日本史籍協会叢書 橋本景… ►続きを読む

 

梨木神社 その4

 

梨木神社(なしのきじんじゃ)その4 2010年1月17日訪問 梨木神社 拝殿  梨木神社 その3では、関が原の戦い以降の徳川家と島津家との関係から島津家からの将軍入輿までの説明で終わってしまった。このまま天璋院篤姫が選ばれた経緯から実の父である島津忠剛の死去、御所の炎上そして安政大地震の発生による繰延べ等を書いて行くと、ますます梨木神社から離れて行くので、改めて薩摩藩に関係する項で書くこととする。この項では安政3年(1856)12月18日に行われた婚礼の前後あたりから話を始める。 既に梨木神社 その2からその3にかけて記したように、正式に篤姫が斉彬の実子となったのは嘉永6年(1853)3… ►続きを読む

 

梨木神社 その3

 

梨木神社(なしのきじんじゃ)その3 2010年1月17日訪問 梨木神社 神門  梨木神社 その2では、三条実萬、実美父子の事蹟を書いて行く上で参考とすべき史料から始め、安政の大獄の契機となった継嗣問題について書いてきた。この中で、天璋院入輿と将軍継嗣問題の関係について、「どちらが後か先かは判別が難しい」と記した。一般的には、島津斉彬によって将軍継嗣問題の打開策として天璋院入輿が行われたとされている。確かに御台所となった篤姫は一橋慶喜を儲君とすべく大奥において活動したことは事実である。しかし将軍家からの縁組申し入れ当初から継嗣問題が存在したわけではなかったようだ。この項では安政の大獄の引き… ►続きを読む

 
 

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