アーカイブ:2017年 5月
薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか)その4 2010年1月17日訪問
相国寺 薩摩藩戦死者墓 相国寺の東門と墓地との位置関係
薩摩藩戦死者の墓 その3では、薩摩藩戦死者の墓に祀られている人々の中で、甲子戦争戦死者の行動と靖国神社への合祀について書いてきた。この項ではもうひとつの戦いである鳥羽伏見の戦いでの戦死者について記す。 上立売通北側の林光院墓地にある薩摩藩戦死者の墓の正面は南である。墓に記された「甲子役 戊辰役 薩軍戦没者墓」も南を向いている。南側正面の墓石下の基壇部分に3枚の陶板が埋められていることは既に薩摩藩戦死者の墓で記述した通りである。3枚の内正面の1枚が甲子… ►続きを読む
薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか)その3 2010年1月17日訪問
相国寺 薩摩藩戦死者墓
薩摩藩戦死者の墓 その2では、甲子戦争での薩摩藩の戦闘状況を書いてきた。この項では薩摩藩戦死者の墓に祀られている人々の行動を墓に埋められた陶板と幕末維新全殉難者名鑑を比較しながら明らかにすると共に、靖国神社への合祀までの道程について記す。 先ず幕末維新に斃れた人々の事跡の調べた明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊 以降、全殉難者名鑑とする)を参照する。元治元年(1964)7月19日の甲子戦争の薩摩藩の戦死者は8名。その内5名が当日死亡、残りの3名は傷が元で… ►続きを読む
薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか)その2 2010年1月17日訪問
相国寺 薩摩藩戦死者墓
薩摩藩戦死者の墓では、薩摩藩と墓地を管理している相国寺塔頭・林光院の関係から甲子戦争の戦闘直前までの状況を書いてきた。この項では甲子戦争の戦闘状況を見て行く。 甲子戦争は、伏見より進撃した長州藩福原軍が藤森で大垣藩と遭遇することにより始まっている。元々、伏見、天龍寺、山崎の三箇所から御所にほぼ同時刻に到達するように出陣している。しかし伏見を子の刻(午前0時頃)に発進した福原軍は、御所に達する前に大垣兵と遭遇したため想定より早く戦闘が始まってしまった。伏見から御所への進撃経路はほぼ伏見… ►続きを読む
薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか) 2010年1月17日訪問
相国寺 薩摩藩戦死者墓
上御霊神社の西の鳥居にある応仁の乱勃発地の石碑を確認した後、薩摩藩戦死者の墓に向う。相国寺の墓地ではあるものの境内の外に位置する。塔頭の林光院の東側にある東門を潜った外側、上立売通の北側にある幼稚園の西側に墓は建立されている。この場所は林光院の墓地にあたる。
相国寺 薩摩藩戦死者墓 林光院 2016年3月5日撮影
林光院は足利幕府3代将軍足利義満の第二子、足利義嗣を弔うために建立された寺院である。義嗣は4代将軍足利義持の弟であったが、応永25年(1418)25歳の若さで早世している… ►続きを読む
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